和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

一番目の読者。

2020-06-04 | 手紙
司馬遼太郎の小説を、読んだのは数冊です(笑)。
長いとついつい、目移りして、読み続けられない。
そのかわり、司馬遼太郎の短文なら、だいじょうぶかなあ。
そんな司馬さんの短文に、「風塵抄」がありました。
短かい文は、時がたって、なんどでも甦ることがあります。

中公文庫の『風塵抄二』には、その最後に
福島靖夫の「司馬さんの手紙」(p287~329)が載っている。
はい。その福島さんの文に、こんな箇所がありました。
あらためて反芻してみようと引用。

「『風塵抄』の連載は昭和61年5月からスタートしている。
・・・・『風塵抄』の原稿が入ると、ワープロ打ちといっしょに
感想を書いて送るのが、一番目の読者としての私の義務だと
思っていた。司馬さんはその感想にいちいちていねいな返事を
書いてくれた。・・・その手紙を読むのはじつに楽しく、その手紙を
私はひそかに『もうひとつの風塵抄』と呼んでいた。

いま、原稿用紙に書かれたこの手紙を積み上げたら、
20センチ以上になっているのに、改めて驚いている。
そのなかの一つで、文章についての私の疑問に、
司馬さんはこう書いている。

『われわれはニューヨークを歩いていても、パリにいても、
日本文化があるからごく自然にふるまうことができます。
もし世阿弥ももたず、光悦・光琳ももたず、西鶴をもたず、
桂離宮をもたず、姫路城をもたず、法隆寺をもたず、
幕藩体制をもたなかったら、われわれは
おちおち世界を歩けないでしょう」

そして、『文章は自分で書いているというよりも、
日本の文化や伝統が書かせていると考えるべきでしょう』
と続けている。この手紙を読んで、私はみるみる元気になった。」
(p288~289)

この文庫本「風塵抄二」は2000年1月に出版されておりました。
2000年2月になって司馬遼太郎・福島靖夫往復手紙
「もうひとつの『風塵抄』」(中央公論新社)が出ます。
さっそく購入して、気になったので、
この『ニューヨークを歩いていても、パリにいても』
という手紙が登場する箇所を探してみました。
それは、p278~279にあったのですが、不思議なことに
引用された前後の雰囲気がちがうのでした。
うん。それはまた別の話となるから、ここまでにします(笑)。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬ごもり。

2020-04-07 | 手紙
本棚から芳賀徹著「詩歌の森へ」(中公新書)を出してくる。
以前に読んで圧倒され、あとで再読しようと本棚に置いて。
はい。それっきりとなっておりました(笑)。

あとがきをひらくと、こうはじまっておりました。

「この本に収めた『詩歌の森へ』全143章は、もと
『日本経済新聞』の毎日曜の文化欄に連載したものである。
連載は平成11年(1999年)4月4日から
同13年(2001年)12月30日まで、2年9ヶ月におよんだ。」

「『詩歌の森へ』は、はじめ私なりの日本詞華選を編めばよいのだ
と考え・・自分のこれまでの読書体験や研究生活のなかで
めぐりあった詩歌で、とくに好きになって愛誦している作品、
あるいは日本詩歌の歴史の上でとくに面白いと思った作品
・・・それに若干の評語や感想をそえれば・・と考えていた。
それも、大岡信さんの『朝日』紙上の『折々のうた』のように
毎日の連載で永遠につづくというような途方もないことを
するわけではない。・・・」(p350)

本には、以前読んだ際の付せんが多く貼ってあって、
ずいぶんに気になったのだろうと思うのですが、
はい。内容はすっかり忘れております(笑)。
それでも、充実した読書の後味は残っております。

さてっと、パラパラとめくると、ところどころに
京都という地名が登場しているのに気づく。

それはそうと、二カ所を引用。

はじめに、『冬籠り』。

「『日本経済新聞』俳壇の『1999年の秀作』に、
藤田湘子氏選で『志ん生もカラヤンも好き冬ごもり』
という句が入っていた。前橋の原田要三というかたの作である。

思わず微笑した。東西文化の粋をたのしみながらの冬籠り、
うらやましいではないか。『志ん生もカラヤンも』とは
二十世紀日本人のみに許された特権。
『好き』という軽い言いかたも効いている。
冬籠りという万葉以来の古語、芭蕉以来の季語が
こうして二十一世紀に生きながらえるのはめでたい。」
(p98)


はい。二つ目は蕪村。そのはじまりは

「穎原(えばら)退蔵編『蕪村全集』という分厚い1冊の本がある。」

新聞の連載ですから短い、新書で4ページの文です。

「すばらしい書物だった。ことにはじめて読む蕪村の書簡は
・・・・・・・読みすすめるうちに私のなかには、はるかに遠い
徳川の日本、そして18世紀の京都への郷愁がしきりに湧いて、
しばし茫然とすることさえあった。


 春もさむき春にて御座候。
 いかが御暮被成(おくらしなされ)候や、
 御(おん)ゆかしく、奉存(ぞんじたてまつり)候。
 しかれば春興小冊、漸(ようやく)出板に付、
 早速御めにかけ申候。・・・・・・


たとえばこれは安永6年(1777年)、蕪村数え62歳の年の2月に、
彼の新体詩『春風馬堤曲』をものせた一門の新春句帖
『夜半楽(やはんらく)』ができ上がり、これを伏見の門人に
送ったときの添え状である。・・・・

ごく普通の時候の挨拶だったのかもしれない。
だがそれが『春もさむき春』から3つの短文の
畳みかけで言われるとき、そこにおのずから
相手へのこまやかな、まさに慇懃(いんぎん)な
心づかいがにじみ出る。

『御ゆかしく奉存候』とは、蕪村書簡の愛用語。
本来の『御なつかしくも問はまほし』の意味での、
なんとすてきな使いかただろう。・・・」
(p240)

はい。再読も、パラパラ読みで、もう満腹。
また、本棚へ。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三日月様と、土佐の女の子。

2020-02-20 | 手紙
引用の孫引きになりますが、
坂本龍馬全集の内容見本に
司馬遼太郎が書いているそうです。

「・・散文家のなかでも吉田松陰は紀行文においてすぐれ、
・・龍馬は書簡という、特定の相手に対する文章において
すぐれているといえるであろう。とくに乙女や姪の春猪に
書き送ったものは、江戸期の人間の感覚というよりも、
近代文学の成立以後の文章感覚のようで、
対人的な形式や文章の規矩準縄から、
生来縁の薄かったかれのような人物に
よってのみ書かれたものであろうかと思える。」

はい。私は龍馬の手紙を読んでいないなあ。
それでも、高知の女の子については、
面白い本で出会っておりました。
あらためて引用したくなりました。
それは、内村鑑三著
「後世への最大遺物 デンマルクの話」(岩波文庫)。
そこに、土佐の女の子が登場しているのでした。
以下その箇所を思いだしたように引用(笑)。

「私は高知から来た一人の下女を持っています。
非常に面白い下女で、私のところに参りましてから、
いろいろの世話をいたします。ある時はほとんど
私の母のように私の世話をしてくれます。

その女が手紙を書くのを側(そば)で見ていますと、
非常な手紙です。筆を横に取って、仮名で、
土佐言葉で書く。・・ずいぶん面白い言葉であります。

仮名で書くのですから、土佐言葉がソックリそのまま
で出てくる。それで彼女は長い手紙を書きます。
実に読むのに骨が折れる。しかしながら
私はいつでもそれを見て喜びます。

彼女は信者でも何でもない。
毎月三日月様になりますと、
私のことろへ参って、

『ドウゾ旦那さまお銭(あし)を六厘』という
『何に使うか』というと、黙っている。

『何でもよいから』という。
やると豆腐を買ってきまして、
三日月様に豆腐を供える。

後で聞いてみると
『旦那さまのために三日月様に
祈っておかぬと運が悪い』と申します。

私は感謝していつでも六厘差し出します。
・・・・私はいつもそれを喜んで供えさせます。

その女が書いてくれる手紙を
私は実に多くの立派な学者先生の
文学を『六合雑誌』などに拝見するよりも
喜んで見まする。・・・」(p47~ )

こちらは、明治22年の講話で語られたものです。
はい。この女の人は、どのくらいの年齢なのでしょう?

土佐の女の子とすると、私はイメージがふくらみます。
うん。高知県の浦戸に育った西原理恵子さんなんて、
いくら年を重ねても、いまだ女の子としておきたい(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教者の書簡。

2019-11-19 | 手紙
増谷文雄氏は、宗教者の書簡に着目しておられる。
それが、うん。うん。とうなずけます。

増谷文雄・遠藤周作対談「親鸞(親鸞講義)」朝日出版社。
そこにも、宗教者の書簡ということで語られておりました。

「私は親鸞という方の性格をもっともっと知りたいと
思っているんですが、その手がかりは現存する書簡に
あるような気がします。親鸞は40数通の書簡がありますし、
日蓮のは何百通も残っています。

実を申しますと、私は書簡に特別の興味を持っておるんです。
というのは、新約聖書を読んでみますと福音書、使徒行伝、
書簡、黙示録の四つから成っておりますね。ということは、
宗教者の書簡というのは非常に大事なものである。で、
ひょっと気がつきましたら、親鸞や日蓮においても
書簡が大きな役割を持っていることに気がつきまして、
それからというもの書簡を読むのがとても面白くなりましてね。」
(p16~17)

うん。私なんて、漱石の書簡で満足しておりました(笑)。
さて、引用をつづけます。

「それで書簡を読んでみますと、日蓮の性格や親鸞の性格が
鏡に映し出されたようによくわかるという気がいたしますね。

日蓮さんという方は、自分のことを
非常にざっくばらんに手紙に書いておられましてね。
たとえば、あの方はお酒好きでしたでしょ。
書簡の中にもそのことが出てきたりしておるんです。
晩年に9年間籠られた身延山でも、『ここは寒くてしょうがない。
そのときはお酒をわかしてきゅっと飲むと身体が暖まってくる』
といったようなことを、悠々と書いている。

それに対して、親鸞は40数通残っている書簡の中で、
ほとんど自分のことを書いていないんですね。
『末燈鈔』の第八書簡は浄土の教えを考えるに当って
大事なことを五説という形で列挙しておるのですが、
その一番最後に
『目もみえず候。なにごともみなわすれて候うへに、
ひとなどにあきらかにまふすべき身にもあらず候』
というくだりが見える。

その他には、息子の善鸞が起こした関東での事件
それについての痛恨の情あふるる義絶状がありますが、
これは自分の今の暮しぶりについて書いたものでは
ありませんしね。それから親鸞は63歳で京都に帰り
ましてから、ほぼ30年隠棲していますね。
その間にどういう生活をしていたか
はっきり知りたいんですが、よくわからない。
あちこちを転々としていたようなんですが、
ある書簡に仮名で『しやうまうのことあり』と、
ただそれだけ書いているんです。
たぶん火災にあったんだろうというのが
定説になっておりますし、私もそうだろうと思います。

もしこれが日蓮だったら、それでどうしたこうしたと
長々とお書きになったに違いない。
ところが親鸞はそれだけなんですよ。
そういう点ではずいぶん違うなと思いますね。」
(~p18)

うん。増谷文雄氏の語りは面白いなあ。
安心して読んでいけます。
はい。いつも手紙を書いていないなあ。
と、毎年年賀はがきが発売されていると、
思いだすわたしです(笑)。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「歳月は勝手に来て勝手に去る」

2018-07-05 | 手紙
山本夏彦著「『室内』40年」(文芸春秋)に
「美人ぞろい才媛ぞろい―――社員列伝」という章あり。
繰り返して、これが読んで飽きない(笑)。

山本夏彦編集長と、女性編集者との
やりとりの丁々発止。たとえば

山本】 ・・・しかるに人は年をとれば利口になると思っている。
『歳月は勝手に来て勝手に去る』っていうのは私の十八番です。
そうでしょ、あんたの歳月だって勝手に来て勝手に去ったじゃ
ありませんか。

女編集者】ー-まだ去ってません(笑)。

山本】でもさ(笑)いずれは去るよ。
歳をとるのは体だけで、心はとらない、
女性は永遠に十七です。・・・・(p157)


こんな感じのやりとりがありまして、
ちょうど手紙の箇所がありますので
その少し前の女性編集者の言葉から引用。


女編】 一流なんて思ってやしません。

山本】私でなくちゃあんたのよさなんて認めてくれないよ、
堪えがたきを堪え忍びがたきをを忍び、内なる才を発見し
てくれるなんて人はいないよ。
いくら恩に着せても着せたりないくらいだ。

女編】 私に恩を着せるんですか。

山本】 もちろんです。あんたが私に着せるんですか。
本題にもどって、
商売の手紙っていうのは十か十五種類しかないんです。
『ハガキ編』と『手紙編』に分けたってたいしたことない。
見本通り書けばいいのにそれがイヤで一枚のハガキを
書くのに一日かかっている新卒(男)がいた。
学校でまねはいけないと教わって育っている。
そんなところにオリジナリテなんて出せやしません。
用が足りればいいんです。モデル通りに書いているうちに
退屈して一言つけ加えるようになる人がある。
それから先はその人次第です。
ご新著を拝読しましたとか、
この間の個展拝見しましたとかね。
ひとこと添えるとそのハガキがにわかに生彩を帯びる。
せっかく見たんだから言えというのに
言えない人が多い。言わない人が多い。
相手は大家でこっちは新卒のお使い、
このひと言で、振向いて編集者として認めてくれる。
というより『人』としてみてくれる。
『室内』の編集部は私がほめなくても、そとでほめられる。

女性】 いえ、今回は山本さんご自身が、
ほめて下さる約束でした。

山本】 そうでしたか。・・・・(p160~161)


この章は、切実だったり、なかったり。
「室内」編集部の内幕に触れたりして、読み過ごせず、
そういう意味の愉しみがありました。ついつい引用が
長くなってしまいそうなので、ここまで(笑)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「客観報道」と、「編集へのお手紙」。

2018-06-23 | 手紙
え~と。
どこから話しましょう(笑)。

文芸春秋の雑誌「諸君!」の最終号は
2009年6月号でした。その巻頭随筆である
「紳士と淑女」では、最後に「読者へ」として

「なお、三十年にわたって、
ご愛読いただいた。『紳士と淑女』の筆者は、
徳岡孝夫というものであった。」

こう締めくくっておられました。
現在。その徳岡孝夫氏は
雑誌「新潮45」の巻頭随筆「風が時間を」を
執筆しております。
その今月号2018年7月号では、
アメリカに渡って大学のゼミの講義をうけている内容の
ことがでてきております。時代は戦後十五年のことです。

はじまりは、

「私を最も手古摺らせたのはShort Story Writingのゼミだった。
つまり短編執筆である。ただ文学のゼミではないので小説ではなく、
ノンフィクションの書き下ろしである。・・・・
それだけではない。書いた原稿を売ってそれが掲載されれば
ゼミの点数になるという。・・・

ただ書くための手引きはあった。Writer’s Guideという本。
原稿を求めているアメリカ中の出版社の名、誌名、住所、
どんな原稿を求めているか、原稿料まで列挙され、
それが一冊の本になっている。・・・・

私は書いた。『日本』をネタに書きまくって送った。
だが私の原稿は一本も採用されなかった。
戦後十五年、日本はエキゾティシズムより
『昨日の敵』のイメージが濃かった。

しかし米国の新聞社、出版社が多数の取材記者を雇うことなく、
外部からの協力とその内容を調べるという身軽な行動で
成り立っていることは分かった。」

そして最後に、日本について
書かれておりました。ちょっと、読み過ごしたくなる
のに、重要な箇所だと思っております。


「当時の日本では新聞に意見や情景を書こうと思えば、
その新聞社に勤務する記者が原稿依頼に来るか、
または記者の手で書かれる以外に手がなかった。

進んで雑誌に寄稿しようと思ってもメディアは有名人に
すでに執筆依頼するか自分の記者に取材にいかせて、
いわゆる『客観報道』をしてしまっていた。

それに比べて米国の業界はずっと開けていた。」


この最後の
「いわゆる『客観報道』をしてしまっていた。
それに比べて米国の業界はずっと開けていた。」
とありました。
ここから、外山滋比古著「新聞大学」(扶桑社)
にある「投書欄」という文が思い浮かびました。

それを引用。

「外国の新聞は日本に比べると概して
読者の投書がすぐれている。
だいいち、投書、などと言わない。
編集への手紙(Letters to the Editor)
と呼ばれることが多い。
・・・素人ばなれした文章もある。
いずれにしても、レターである。エッセイなどと
気取らない。反対、攻撃の叫びではない。
やさしくあたたかい文章が見られる。
アメリカの新聞は、少し味わいが欠けるように
感じている日本人もいるようだが、
それは誤解である。アメリカの〈編集への手紙〉にも、
びっくりするような良い文章が見られるのである。

 ・・(ひとつ紹介されておりました省略)・・

日本の新聞の投書は、どうしたことか、
騒々しかったり、むやみに攻撃的だったり、
自己主張がむき出しであったりする。
書いている当人は得意かもしれないが、
読者には、おもしろくないものが多い。
もっと多くの人が大人の文章を書くように
ならなければいけない。・・・」(~p102)



はい。「編集への手紙」というのですね。
うん。手紙なんだね。
いいなあ。「エッセイなどと気取らない」(笑)。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漢字を忘れたときは。

2017-11-09 | 手紙
谷沢永一・渡部昇一「広辞苑の嘘」(光文社)。
その「結びにかえて」は渡部昇一氏が書いておりました。
題があって「辞書の権威によった悪辣な所行」。

その「結びにかえて」のなかに
気になる箇所がありました。

「漢字を忘れたときは最も手軽な
『日用字典』(清水書院)を引く。
これは30年も前に故・佐藤正能先生から、
『これは持っていると重宝だよ』といって戴いたものを、
文字通り重宝して今日に至っている・・・」(p279)

はい。
さっそく清水書院の『日用字典』を注文
ワイド版日用字典を古本で買いました(笑)。
新書をすこし豪華にした感じの一冊。
漢字が並んでいて、忘れる私にはありがたい。

印象的だったのは
最後の方に「書簡文の書き方」があるのでした。
これが短く適切で、繰り返し読んでみたくなる。
はい。手紙を書く時の戒めとなります。

「書簡文の心得」として
一「もっとも大切なのは真情の流露」
二「じかに会って話す気持ちで」
三「事柄を明瞭に」
四「簡潔に、平易に」
五「手紙はまめに出す」

と続くのです。まだね。
どれも簡潔で、印象深い。
たとえば、三「事柄を明瞭に」の全文を引用。

「対話ならば不明な点を聞き返すことができるが、
手紙ではそれができない。不明瞭な手紙は
相手の人を精神的に苦しめることになる。
相手の立場に立って細かに考え、
不明な点を残さないように注意する。」

うん。五「手紙はまめに出す」の全文は

「手紙がおっくうになるのは、
りっぱな長い手紙を書かなければならないと
思うからである。
簡単でよいから出すべき手紙はまめに出す。
特に返事の手紙は時期をはずさないよう。」


こんな感じで続く8頁。

はい。これからは、
手紙を書く時には、常に脇に置きたい、
とても、ありがたい日用字典。
値段もリーズナブル。
と、思わぬ収穫でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

独学と修養のすすめ。

2017-06-27 | 手紙
WILL7月増刊号「追悼 渡部昇一」に
平川氏が追悼文を寄せておりました。
そこには
「私も弔意を表する機会を失してはならぬと思い
・・・別れのご挨拶に代えさせていただく。」
との言葉がありました。

すると、今日の産経新聞正論欄に
その平川祐弘氏の文が掲載されている
見出しは「『正道』示した渡部昇一氏を悼む」。
今日のなので、容易にどなたでも、
産経新聞を買って読むことができます。

ということで、私はその一部だけを引用。

「・・・あのころ講和をめぐる論戦が
『文藝春秋』誌上で交わされた。
全面講和論とはソ連圏諸国とも講和せよ、
という一見理想主義的、その実は
容共左翼の平和主義的主張で、
私は南原繁東大総長のそんな言い分が
正しかろうと勝手に思い込んでいた。
それに対し米国中心の自由陣営との講和を優先する
吉田茂首相を支持したのが慶應の小泉信三塾長で、
朝鮮半島で激戦が続き米ソの話し合いがつかぬ以上、
全面講和の機会を待つことは
日本がこのまま独立できずにいることだ。
それでよいか、という。
その小泉氏に上智の学生だった渡部氏は
賛意の手紙を書いた。
すると小泉氏から返事が来たという。
・・・・渡部氏ほどの偉者(えらもの)は
東大にはいなかったと私は観察している。」

はい。
「東大教養学部では教養学科の一回生で
日本で最初の教養学士」である平川祐弘氏が
東大を観察した結論として、
偉者(えらもの)渡部昇一氏への
最新追悼文は、本日の産経新聞で全文読めます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これぞまことの。

2017-06-24 | 手紙
古本購入の新月通正著「親鸞の旅」(法蔵館)。
そのはじまりをひらくと、こうありました。

「愚禿(ぐとく)親鸞ーーその名を教えてくれたのは、
確か、中学校の歴史の先生であった。
太平洋戦争のさなか、旧制高校生のころ、
文科系の連中が、片時も手を離しがたくしていたのは、
西田幾多郎博士の『善の研究』と、
あの『歎異抄』だったような記憶が残っている。

戦後、しばらく京都に住み、ご多分にもれず古寺巡礼をこころみて、
東西両本願寺に親鸞の法灯を訪ねたりした。
東本願寺の外堀をぶらついていると、
アメリカ空軍機が誤って爆弾を落した跡だ、
とえぐれた大きな穴を指す人がいた。・・・・」

と、ここで私はつまづき、先を読み進めない(笑)。

太平洋戦争と歎異抄といえば、そういえば、
と司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文藝春秋)を
本棚からとりだしてくる。
「学生時代の私の読書」と題した小文。
そこに、歎異抄が出てくる箇所がある。


「・・・・やがて、学業途中で、兵営に入らざるを
えませんでした。にわかに死についての覚悟を
つくらねばならないため、岩波文庫のなかの
『歎異抄』(親鸞・述)を買ってきて、音読しました。
・・・『歎異抄』の行間のひびきに、
信とは何かということを、
黙示されたような思いがしました。
むろん、信には至りませんでしたが、
いざとなって狼狽することがないような
自分をつくろうとする作業に、
多少の役に立ったような気がしています。
みじかい青春でした。あとは、軍服の生活でしたから。
ただ軍服時代二年間のあいだに、
岩波文庫の『万葉集』をくりかえし読みました。
『いわばしる たるみのうへの さわらびの
 もえいづるはるに なりにけるかも』
この原初のあかるさをうたいあげたみごとなリズムは、
死に直面したその時期に、
心をつねに拭きとる役目をしてくれました。」


せっかく本棚から司馬さんの本を持ってきたので
ついでに、数冊を取り出していました。

司馬さんと林屋辰三郎対談『歴史の夜咄』。
その「フロンティアとしての東国」のなかで

司馬】 『歎異抄』の成立が東国ですね。
『歎異抄』という優れた文章日本語をあの時代に持って、
いまでも持っているというのは、
われわれの一つの幸福ですね。
非常に形而上的なことを、あの時代の話し言葉で
語られたというのは坂東人の偉業だったと思いますね。
 (p171・小学館ライブラリー)

もう一冊は
梅棹忠夫編著「司馬遼太郎との対話 日本の未来へ」(NHK出版)

そこに「司馬遼太郎さんとわたし」という
梅棹さんへのインタビューが載っておりました。
そこからも、引用。

梅棹】 非常に思いやりがある。
個人的にもそういう場面が何度かありました。
私が目が見えなくなったというのに、彼は手紙をくれるんです。
『完全に失明したんじゃない。少し見えているらしい』
というので、手紙の字が五センチ角ぐらいの大きな字で
書いてある。あれはちょっと感激しました。それでも
私には見えなかったですけれどもね。大きく書けば
読めるかと彼は思ったんでしょう。
愛情を感じましたなあ。


梅棹】 やっぱり、思いがこもっているんですよ。
ひとつはね、こういうことがあったんです。
今西錦司先生が92歳で亡くなったとき、
その追悼文を『中央公論』に書いたら、
司馬さんからすぐ手紙が来て、
『これぞまことの文学』というほめ言葉で
激賞してもらった。そういうことがあった・・・・
(~p214)

つぎは「これぞまことの文学」を読む番。

中央公論1992年8月号の
「ひとつの時代のおわり 今西錦司追悼」を、
あらためて、読まなきゃ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五分間で

2016-12-25 | 手紙
来年こそは、
日記を書こう(笑)。
といつも思うのでした。

KOKUYOのCampusノートに
weeklyDiary2017というのが
あったので購入。

そのはじまりは2016年12月26日から
来年の一週間前からの始まりになっていました。

「一年の計は、元旦にあり」
というのは、やめて
「一年の計は、今でしょ」。

板坂元氏は「永遠の差がある」といいます。

「『明日の朝から』というのは
場合によっては『今から』とは
十時間足らずの違いなのだが、
現実には永遠の差があるものなのだ。」
(p23「発想の智恵 表現の智恵」)

こうもありました。

「慣れれば人を待つ五分間で
ハガキ一枚くらい書くことができる。」(p16)



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人としてのイロハ。

2016-01-31 | 手紙
正論3月号に
小川榮太郎氏が
「吉永小百合さんへの手紙」と題して書いておりました。

そのなかから、この箇所を引用。


「例へば渡部謙さんが安保法制騒ぎの最中の
八月一日にかうツイートしてゐる。
『ひとりも兵士が戦死しないで七十年を過ごして
きたこの国(憲法)は、世界に誇れると思う。
戦争はしないんだ』と。
或いは笑福亭鶴瓶さんも、八月八日の東海テレビで
『あの法律も含め、今の政府がああいう方向に行つ
てしまふつていふのは止めないと絶対だめ』と発言し、
対談相手の樹木希林さんが
『七十年も戦争をしないで済んだのは憲法九条が
あるから』と応じてゐます。
竹下景子さんも、安保法案反対アピールに名前を連ね、
『日本が戦争する国になれば、被害者であると同時に
加害者にもならざるを得ません』
七十年間日本人の戦死者がなかつたのは、
世界に戦争がなかつたからでも、
日本への過酷な脅威がなかつたからでもありません。
拉致被害者は厳然と存在しますし、
そもそも、憲法九条といふ紙切れ一つで地球の中で
日本だけが特殊な楽園であり続けられるかどうか、
この人達は一度でも考へた事があるのでせうか。
・・・・・・・・
『平和』が大切だといふ声を挙げる事と、
特定の法案に反対する事は全く意味が違ひます。
法案に反対するのであれば、
その法案が本当に平和を脅かす根拠と、
新たな立法措置を取らずとも我が国の平和が守られ
続けるといふ根拠を持たねばならない。
これは、俳優とか知名人とかいふ事以前に、
人としてのイロハではないでせうか。」

ここに、「人としてのイロハ」とある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お礼とお詫び。

2015-12-19 | 手紙
新潮45の1月号が発売。
さっそく買う。

まずは、
辣椒(らーじゃお)の「中国亡命漫画家」を
ひらく。抗日劇にまつわる事実。
「抗日劇は、中国が日本の侵略戦争に
抵抗するストーリーのTVドラマです」
とはじまり、その具体例が展開します。

次が、雑誌の最後の方にある
「記者匿名座談会」をひらく。
こちらは、日本のテレビの
内情を披露。

そして次に読んだのは
「新発見! 江藤淳への手紙」平山周吉解説。
贈呈本へのお礼の手紙だったりが
並ぶのですが、その差出人の顔ぶれ。

たとえば昭和43年の林達夫氏からの
手紙は、こうはじまります。

「こんな機会でないと、中々手紙を書けそうもないので、
ペンを執りました。先づ、ご本をいただいたお禮や、
『季刊藝術』に書けなかったことのお詫びを申させて下さい。
あなたのものも、大江健三郎氏のものも、いわば
重きを置いているので、大きなコンテクストの中で
なくては言えず、却って筆が渋るのです。・・・」(p167)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とんぼとぶとぶ。

2015-08-03 | 手紙
郵便局の「かもめ~る」。
その宣伝文句に

 この夏、
 一番伝えたいこと。
 「かもめ~る」で送ろう。

ブログを更新はしても、
恥ずかしながら、不義理ばかりで、
手紙を書かない私です。
そういうことも、すっかりと、
忘れているわけですが、
句集を読んでいたら、
出会う手紙の句。

久保田万太郎に

 手紙書くひまのできたる単衣かな

 よみにくき手紙よむなり花曇



「定本 種田山頭火句集」より

 ひなたへ机を、長い長い手紙を書く

 大根漬けてから長い手紙をかく

 

 しぐるるや郵便やさん遠く来てくれた

 こほろぎそこで郵便函で鳴いてゐる月夜

 今日も郵便が来ないとんぼとぶとぶ

 赤きポストに都会の埃風吹けり

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文章のイロハ。

2015-06-29 | 手紙
どこで、
見たのか。読んだのか。

開高健が文章が書けなくなって、
井伏鱒二氏へ、どうしたらよいかと、
尋ねる場面がありました。
井伏氏。その言葉を受け止めて、
いろはを、書いていればいいのです。
というような返事をされていた。
うる覚えで、
その場面をテレビで見たのか、
文章で読んだのか、思い出せない。
ですから、言葉も正確ではなく、
思い込みかもしれません(笑)。

話題をかえて、
イロハといえば、
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)に

「文章のイロハを学びたいという方は、
いろいろなチャンスを利用して、精々、
手紙を書いた方がよいと思います。
電話で用が足りる場合でも、
手紙を書くべきでしょう。

面倒だ、というのですか。
いや、本当に面倒なもので、
私にしても、毎月の原稿が
一通り済んでから、まるまる一日を使って、
何通かの手紙を書くことにしています。
原稿料とは関係ありませんが、
実際、手紙を書くのは一仕事です。
しかし、それも面倒だ、というようでは、
文章の修業など出来たものではありません。」
(p68)


はあ。
「まるまる一日を使って」
手紙を書いたことなど、
ここ何年もない私です(笑)。

そういえば、カント。

「カントは四時間とれなければ
 ものを書かなかった。」

という引用をしているのが
渡部昇一氏の2頁の文でした。題して
「受動的知的生活と能動的知的生活」。
そこから引用。


「ところが、いざ能動的知的生活に
入ろうとするならば、最低四時間以上
とれない場合は、何もはじめないほうがいい。
カントは四時間とれなければものを書かなかった。

私の場合なら、夜の十一時ごろから
翌朝の五時、六時までの五、六時間あれば、
ペラの原稿用紙四十枚ぐらいは書きあげるが、
もし日中の二時間くらいしか時間がないとすれば、
同じ枚数を書くのに一週間か十日かかっても
できないかもしれない。
溶鉱炉の火は消すなである。
いったん消してしまうと、再び必要な温度に
達するまでに時間がかかるのと同じように、
頭脳が熱くなって生の情報や知識が溶けて
くるまでには、必らず一定の時間がかかる
ものなのだ。四時間から五時間で材料が
溶けると、ようやくその人のものとなって
出てくるのである。・・・・
ようやく油がのりかかってきた二時間目に
時間がきて筆をおくと、翌日も同じことの
くり返し。能動的知的生活に入るには最低
四時間は外部からのインターラプションなし
に没頭できる状況をつくり出すことが大切である。」
(p104~105「わたしの知的生産の技術」講談社)


うん。
文章のイロハと、
最低四時間以上。

わかりました。
私の文が引用ばかりなのは、
溶鉱炉で溶け出す以前の段階なんだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文通・面会・談話・遊戯・会食・贈答等。

2015-02-19 | 手紙
伊藤正雄著「文章のすすめ」(春秋社)は
前篇が、文字の知識。
後篇が、言葉の智恵。
となっての2冊。

たとえば、前篇をぱらりとめくると

「社会学者清水幾太郎氏は、学者に似合わぬ
達文家である。その著『論文の書き方』と
『私の文章作法』(潮新書・昭和46)は、
自己の体験を土台とした文章論で、
私の知る限り、最も若い人に推奨したい良書といえる。」(p16)

なんて、さりげなく出て来る(笑)。

さてっと、後篇に手紙の章がありました。
そこから一部を引用。

「福沢諭吉は書簡の名人で、どんな相手にも
手紙を出すことを怠らなかった。『福翁百話』にも、
社交上文通の必要な事を力説し、次のように
戒めている。
『人に交はるの法甚だ多端なれども、
これを簡単に約して云へば、
文通・面会・談話・遊戯・会食、
また品物の贈答等に過ぎず。(中略)。
以上述べたる交際法は、易きやうにして
決して易からず。心身活発にして万事に
行き届き、あくまで根気よき人にして
始めて能くすべし。天下の大人は細行を顧みず、
など称して独り自得し、用事もなき人には
文通せざるは勿論、要用の来書に対して
返事せざる者さへ多し。本人の不利のみか、
社会の全面を殺風景にするものと云ふべし。
(58話「交際も亦小出しにす可し」)
・ ・・・・・・・
歴史家の森銑三氏などは、私の本が届くと、
とりあえず受取ったという簡単な礼状を寄越され、
それから暫く後に、改めて読後の感想を詳しく
書いて来られるのが常である。礼状一つで
人間の値打ちが分るのだから、
ゆめゆめ疎かにはできない。」(p262)


ここに、森銑三とある。
さてっと、伊藤正雄氏が森さんへと
送った本は、これかもしれないと
思える箇所がありました(笑)。

「新版忘れ得ぬ国文学者たち」(右文書院)
この解説を坪内祐三氏が書いております。
その解説のはじめに「森銑三は、こう書いていた」
という文を引用しておりました。
その引用箇所を引用しておきます。

「戦後岩本素白翁を通して知った伊藤正雄氏から、
『忘れ得ぬ国文学者たち』一冊を贈られた。
その『国文学者たち』というのは、上田万年・・・
の八人で、岩本翁もまたその中にはいっている。
そしてまた、翁よりも先に亡くなったけれども、
翁同様に私には忘れ難い人となっている沼波先生も、
またその中にある。それで私は、飛びつくように、
まず、沼波、岩本両氏に就いて記された部分を
読んだ。そして他の先生方についての各章は、
読むのをしばらく見合せたままで、
私だけの感慨に耽っている。」


こうして、感慨が綴られたであろう、伊藤正雄氏への
礼状を思い描いてみるのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする