和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

高山寺の京都発見。

2020-08-20 | 京都
阿川佐和子さんの高山寺エッセイに、
梅原猛著「京都発見」⑦(新潮社・2004年)からの
引用がありました。
うん。この本⑦は、ちょうど古本でバラで買ってあった。
ということで、梅原さんによる高山寺の文を読むことに、
15頁ほどで、ところどころ印象深い写真も載ってました。
はじまりは

「京都から丹波へ抜ける周山街道を行き、高雄の神護寺を
すこし過ぎた所に栂尾(とがのお)の高山寺がある。
高山寺は二つのことで有名である。
一つは明恵上人がいたこと、もう一つは
『鳥獣戯画』を所蔵していることである。
高山寺は明恵が長く滞在した所であり、
明恵に対する上下の信仰があつく、
かなり栄えた寺であった。しかし、
当時の面影をそのまま伝えている建物は、
場所を移して建てられた石水院のみである。」

うん。15頁に、印象的な写真と文章がつまっているのですが、
ここでは、はじまりだけを引用しておわることに(笑)。

「・・・明恵は神護寺の文覚の弟子である。
文覚は神護寺の再興を念願し後白河法皇に寄進を強要し、
法皇の怒りに触れて伊豆に流罪になる。そして源頼朝の
平家追討の旗揚げを扇動し、頼朝が天下を取るや
平重盛の孫六代をかくまい、後鳥羽上皇の意向に反対して
守貞親王すなわちのちの後高倉院を擁立しようとして二度も流罪になる。
こういう所業を繰り返す文覚は怪僧といわれても仕方がなかろう。
一方、明恵は厳しく戒律を守り、あまねく衆生に慈悲を及ぼす
清僧中の清僧といってよかろう。どうしてこの怪僧の弟子に
このような清僧が出たのであろうか。

この師弟はどこかが似ている。師弟に共通なのは
道を求める狂気の熱情といってよいかもしれない。
文覚の行状を考えれば、彼が狂気の人であることは明白である。
しかし形は違うが、明恵も狂気の人といってよい。
世俗的な楽しみをむさぼる世間の僧を嘆き悲しみ、
欲望を断ち切り仏道への志を確立するために・・・・」

「しかし、いずれも狂気の人といってよいこの師弟は
仏教についての考えがかなり違う。明恵は奈良の東大寺で
華厳学を学び華厳僧になった。・・・・
師の文覚が復興しようとした真言密教はまさに玉体安穏、
鎮護国家を祈る仏教として栄えてきた。文覚はこの真言密教が
衰え、空海の故地である神護寺が荒廃しているのを悲しんで、朝廷や
幕府の加護を得て、七堂伽藍の完備した神護寺を復興したのである。

しかし、明恵はこのような師の仏教のあり方に疑問を持った。
立派な寺院を建て生活が豊かになると、僧は必ず堕落する。
僧たる者は貧乏寺で、かつかつに生きて、
もっぱら道を求めるべきであると明恵はいう。」
(p72~76)

はい。ここまで。
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「高山寺に行きたいね」

2020-08-19 | 京都
淡交社の「新版古寺巡礼京都」全40巻の
巻頭エッセイを読んでみたいと思っておりました。
はい。「古寺巡礼京都」20巻を古本で買って
パラパラひらいていたので興味を持ちました。
けれども、写真入りのこの冊子は古本でも高いので、
なかばは、あきらめておりました。
それでも、未練があって古本検索をしてると、
全40巻の巻頭エッセイだけをまとめて、
上下巻にした本が出ているのに気づく。
うん。好評だったのですね(笑)。

その「私の古寺巡礼京都(上)」淡交社が
古本で届く。もったいない本舗からです。
318円+送料350円=668円。帯つき。
白いカバーもきれいです。

最初にひらいたのは、阿川佐和子さんのエッセイ。
そこから引用。

「初めてこの寺を訪れたのは・・・・
普段、親不孝ばかり重ねている娘が突如、
思い立って両親に申し出た。
『日帰りで京都においしいもんでも食べに行きませんか?
私がごちそうするから』すると父は即座に、
『だったらついでに高山寺に行きたいね』・・・
『お前、行ったことがあるのか』
『ないです』
『どういう寺か知ってるのか』
『そりゃ、あれでしょ。あのほら、鳥獣戯画のお寺でしょ』」

こんな調子で阿川さんのエッセイは始まっておりました。

「初めて訪れた石水院の印象は、予想していたより
ずっと質朴でこぢんまりとした建物だったが、高台にあるせいか、
すがすがしいほどの広さを感じる。南に面した幅広の縁側からは、
清滝川を挟んだ向かい側にそびえ立つ向山の雄姿を望むことができる。」

はい。適宜引用してゆきます。

「明恵はそもそも武家の出であった。
8歳の年に母親を病気で失い、同じ年、
平家方についた父が戦死する。一気に孤児となった
明恵は叔父を頼って神護寺(高山寺のご近所)に入り
16歳で仏門へ入る。その生い立ちの寂しさを克服するがために
己に厳しく生きようとしたのか、明恵の生涯は総じて
ストイックである。
『立派な寺院を建て生活が豊かになると、
僧は必ず堕落する。僧たる者は貧乏寺で、
かつかつに生きて、もっぱら道を求めるべきである‥』
(梅原猛「京都発見」七より)。
栂尾の地は、まさに明恵上人にとって
『待ってました!』の環境だったのではあるまいか。」

鹿の話もでてきます。

「『最近は山から鹿が降りてきて、茶葉をぜんぶ食べちゃうんで
困ってるんですけどね。でも高山寺は明恵上人の強いご意志で
殺生禁断の地となっておりますから、鹿を殺すことも
追い払うこともできません。鹿もそのこと知って
来ているんじゃないですかねえ』
田村執事が楽しそうに苦笑いをなさった。
大樹の間を鳥が飛び交い、澄み切った空気のなかで・・・
高らかな声を響かせる。・・・・
回を重ねごとに私はこの寺が好きになっていく。
ちょうどいい広さ、ちょうどいい静けさ。・・・飾らぬ自然。
明恵上人の心とともに、何時間でもそこらへんに
座り込んでいたい気持になる。・・・」


うん。「古寺巡礼京都」のエッセイだけのエッセンス。
「新版私の古寺巡礼京都(上)」はちなみに2010年初版。
その時の新刊価格は1800円+税でした。

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大文字がとーぼった。

2020-08-18 | 京都
大村しげ著「京都 火と水と」(冬樹社1984年)。
古本で300円。
カバーはシンプルな薄茶色。
見返し表:鞍馬の火祭り
見返し裏:上賀茂神社の境内を流れるならの小川
そこだけ写真がカラー。

うん。今年の京都の大文字は、
要所要所を5~6点で点火しただけだったようです。
それでも、大文字。

1918年の京生まれ、京育ちの大村しげさんの
大文字はと、本をひらく。

「夜空に、一点ぽーっと灯った火がするすると延びて、
やがて、筆太の大の字がくっきりと闇の中に浮かぶ。
8月16日の夜の、お精霊(しょらい)さんの送り火である。
すると、点火を今か今かと待っていた緊張が、一瞬ほぐれて、
あたりにはどっと喊声が上がる。

  とーぼった とぼった
  大文字がとーぼった

こどもころは、どこのおうちでもみんな大屋根の火の見へ上がって、
大文字を見た。火の見は物干し。・・・・・」(p132)

大村しげさんの文はつづきます。

「大文字といっしょに京の夏も往んでしもうて、
いままで張りつめていたのが、ぺしゃんとなってしまう。
わたしが夏が好きやのは、7月は祇園祭で燃えているし、
お祭りがすんでも、まだお盆がある、大文字があると、
それを目当ての毎日やった。それが、大文字もすんでしまうと、
いっぺんに支えがのうなって、暑さがよけいにこたえる。
そして、地蔵盆までの間が、わたしには、夏でもない、秋でもない、
と宙ぶらりんの気分で、やりきれないのである。
それほど大文字は、わたしにとってはびしっと夏と別れる火で、
まぶたに焼きつくほど燃えるのが、かえってさびしさをつのらせる。」

うん。今年はといえば、コロナ禍での、やりきれなさ。
祭といえば、地元の苦労は大変なのですが、
祭のない今年は、のっぺりと過ぎてゆきます。
この機会に、わたしは「正法眼蔵」に目を通すのが目標。



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秋野不矩とインド。

2020-08-13 | 京都
「ほんやら洞と歩く京都いきあたりばったり」
(淡交社・2000年)は中村勝の文・甲斐扶佐義の写真。
町のさりげない人たちの写真にまじって、
今出川寺町付近を散歩する桑原武夫(1978年撮影)。
文は「桑原武夫さんの散歩自慢は・・・・・
自宅の近くをお孫さんと散歩する・・・・
甲斐さんが『ほんやら洞』を根城に、
出町かいわい撮りまくっていたころの一枚だ。
このころ、甲斐さんは『京都出町』という写真集を出し、
桑原さんに贈ったところ
『まあ、よう撮れとりますが、出町の
しねっとしたところが撮れとらんですな』
と評されたそうだ。・・・」(p106~107)
はい。桑原さんは半袖姿で、お孫さんはランニング姿。
夏の一枚ですね。つぎのページには
『出町附近、秋野不矩さん』の写真。
横断歩道を手をとられて二人して渡っています。
着物姿で、手をとられているのか、手をとっているのか、
颯爽と歩いています。

夏には、秋野不矩さんのインドの絵が思い浮かびます。
ということで、京都書院の『秋野不矩インド』(1992年)を
本棚からとりだしてくる。最後の方に
「秋野不矩 1992年夏美山にて」という写真。
不矩さんの着物の立ち姿。
最後に小池一子さんのあとがき。
そのはじまりを引用。

「秋野不矩さんの新作が仕上がり、京都のお寺の本堂で
撮影を行うことになった。不矩さんの6番目の息子さんが
ご住職なので、山のアトリエから作品がそこへ運ばれ・・・・

不矩さんの描いているインドがある。人のいない空間。
雨雲。河。河を渡る水牛。身辺の風物がさーっと退き、
不矩さんはズーム・バックするような目で
インドという地表を描いている。・・・・・」

うん。この画集には、はじまりに司馬遼太郎の自筆を
写真撮影した『菩薩道の世界』が、推敲の跡そのままに
掲載されていて印象深い一冊です。
ということで、司馬さんの文を引用

「世界の絵画のかなで、清らかさを追求してきたのは、
日本の明治以後の日本画しかないと私はおもっている。

いきものがもつ よごれ を、心の目のフィルターで
漉(こ)しに漉し、ようやくと得られた
ひと雫(しずく)が美的に展開される。
それが日本画である。その不易の旗手が、
秋野不矩画伯であるに相違ない。
秋野絵画は上村松園の血脈をひいていると私はおもっている。
詩的緊張が清澄を生むという稀有の系譜である。

画伯は、京都芸大教授であったころ、
インドのビスババーラティー大学にまねかれて、
客員教授になられた。以後、インドに魅かれるようになった。
・・・・・」


うん。暑いときにひらく画集「秋野不矩インド」。
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67歳など駆け出しの若造。

2020-08-10 | 京都
講談社「水墨画の巨匠④友松」(1994年)。
海北友松の絵をパラパラとひらいていたのですが、
ここに執筆されている杉本苑子氏の文を
今日初めて読んでみる。杉本苑子さんの文を
いままで一度も読んだことがない。
それで敬遠してたのかもわかりません。
けれども、読めてよかった、海北友松の縁ですね(笑)。

いろいろと教えられることばかりで、
前に引用した箇所など訂正がいるのですが、
ちょっと、まどろっこしいのでカット。
60歳をすぎてからの海北友松を語った箇所を
ここに、引用することに。

「兵火にかかって衰微していたこの寺の再建に・・・・
建仁寺再建のプロジェクトチームにメンバーとして加え・・・
友松筆の襖絵は52面にものぼる。時間の都合で、半分ほどしか
拝見できなかったけれど、絵の巧拙や好き嫌いの感情を超えて、
私を圧倒しつづけたのは作品の大きさであった。
画境や筆力の丈を言うのではない。文字通り寸法の大きさに
息を呑んだのだ。空間を仕切り、演出する襖は、
開け閉めに従って動き、静止する。
敷居から鴨居までの面積を縦に埋め、
部屋の四面を横に囲むのだから、一枚一枚はもとより、
ひと部屋全体の占有量はとてつもなく広くなるし、
動と静のもたらす視覚からの効果も、
グローバルに見ながら描かなければならない。

この絵画群の制作に当ったとき、友松は67歳だったという。
私(杉本苑子)はいま68歳である。・・・・・

67歳にして建仁寺本坊の巨大空間を、雲を巻く双竜で、
縹渺たる山水で、緊密精緻な人物たちで、生気溌溂たる孔雀で、
事もなげに埋めつくしてのけた友松のエネルギーに、たじたじしたのだ。
・・・私は若者を羨んだことはないが、友松の若さは切実に羨ましかった。

でも、博物館(京都国立博物館)を出てから気づいた。
六十代の友松は、しんじつ若かったのだ。41歳で彼は還俗し、
絵の勉強をはじめて、60歳ごろから一本立ちした。
60を半ば過ぎたあたりで本格的に世に認められ出したのである。
友松みずからは『六十七歳など駆け出しの若造』と思っていたに
ちがいないし、じじつデビューから7年では、まだ画歴は浅い。

・・・・・いかに大器晩成型とはいえ、なんと友松は83年の生涯の、
最晩年に近づいたころあのダイナミックな『花卉図屏風』を描いたのだ。
おどろくべき創作意欲、そして旺盛な生命力・・・・。
まさしく世阿弥の言う『老い木の花』である。・・・・」


はい。読めてよかった(笑)。
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京都の庭に惹かれる?

2020-08-09 | 京都
水上勉氏による天龍寺の解説を読んでいたら、
そこに「夢中問答」からの引用があったのでした
(「古寺巡礼京都④天龍寺」淡交社・昭和51年)。

うん。気になったので、古本で
岩波文庫のワイド版・夢窓国師「夢中問答」と
講談社学術文庫「夢中問答集」とを注文する。

それはそうと、この機会に思い出した本がありました。
本棚から上田篤著「庭と日本人」(新潮新書・2008年)を
とりだす。うん。昨年の台風15号のせいで、新書の下のほうが
すこし水を吸っておりました(笑)。
この新書の帯に「なぜこれほど京都の庭に惹かれるのか」とあります。
うん。新刊で読んでそのまますっかり忘れておりました。
新書の「はじめに」を引用することに

「ある年の暮の寒い日のこと、
一人のアメリカの友人を京都の寺に案内した。
大徳寺や竜安寺などのいくつかの寺をみたあとの
帰りの道すがら、かれはオーバーの襟をかきたてつつ、
わたしに質問をしてきた。
『日本人は、仏さまより庭が好き?』
『なぜ?』 と問うわたしに、
『だって、たいていの日本人は寺にきてちょっとだけ
仏さまを拝むが、あとは縁側にすわって庭ばかり見ている‥』

・・・・いわれてみるとそのとおりだ。
奈良の寺へいくと人は仏像を見るが、
京都の寺ではたしかにみな庭ばかり見ている。
かんがえてみると、奈良の寺にはあまり庭がない・・・

・・・・どうこたえたらいいのか、とかんがえているうちに、
同情するようにかれはつけくわえた。
『わたしたち外人もいっしょ、仏さまより庭が好き。
仏さまはたいていおなじ顔をしているが庭はみなちがう。
どうして石と砂だけの庭があるか。そんな庭は世界中、
日本にしかない。しかも日本の庭は美しいだけではない。
さっき見た庭の石はなにか話している。
近くの石はそっとささやく。向こうの大きな石は演説している。
遠くの石は歌をうたっている。それらにはシンフォニーがある』
・・・・・」(p9~11)

はい。新書「庭と日本人」は、このようにはじまるのでした。
うん。はじめて読んだ時の印象は鮮やかだった。
それなのに、今はすっかり忘れておりました。ちなみに、
新書の「むすび」、バルコニーの話も印象に残っております。

はい。京都を思い描きながら、庭に関する数冊が
むすびついてくるような気がしてきました(笑)。

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一歩手前で立ち止まって。

2020-08-08 | 京都
世界文化社。グラフィック版「徒然草・方丈記」(1976年)は
函入りでしっかりした本。
古典としての、方丈記・徒然草は有難い。
この本は表紙見返しの、きき紙と遊びの両面に、
方丈記の長明の自筆本といわれている大福光寺本の
はじまりが写真でプリントされており、うれしくなります。

カタカナ漢字交りですが、読もうとはちっとも考えず、
そのまま、ボーッとして鑑賞していたくなるのでした。
見開き両ページで44センチ×高さ28センチですから、
方丈記の門前に立ったような、そんな気分です(笑)。

さて次の口絵は、前田青邨の「つれつれ草」。・・・
そうして、徒然草絵巻「世の人の心まどはす事」海北友雪筆
その次は、「御輿振り」前田青邨筆。

「御輿振り」は、青邨の絵巻の一部で、橋の下から
上を通ってゆく御輿を見ている庶民の姿を描いた箇所でした。

うん。その前田青邨の絵巻きが、古い絵巻の中にまじって
載せられているせいか、新鮮で現代的な溌溂さを感じさせ、
印象的です。まるで絵巻の人物が現代語で喋っているようです。

加藤一雄著「雪月花の近代」(京都新聞社1992年)に、
「前田青邨展を見て」と題する3頁ほどの文があります。

そこから引用。

「・・・生々発々の情景を描いて、しかも描く
その墨線はゆるやかに静かであって、決して走ってはいない。
走りつつ歴史というものは語ることができないからである。
色彩はかなり淡く浅く、その淡さを幾重にも積みかさねて
古代中世のこまやかな味を出している。人間の歴史も自然の存在も
また淡く浅いものが積もり積もって成ったものだと、ここに氏は
描き出してみせてくれている。そして、われわれ平均的な生活人も
この堆積の描写には十分納得がいくのである。・・・・・

これだけの抑制と制御を加えながら、それにしても、
この作者の精神の何と活発なことなのだろう。
活発な精神にありがちの誇張と過剰とは
すぐ隣まで来ているのであるが、よく制御がきいて
危い一歩手前で立ち止まっている。・・・・」(p295~296)

うん。しろうとの私が京都の絵を見て感じる
漠然とした「淡く浅い」ことによる物足りなさ、動作の一瞬が
さりげなさ過ぎるのじゃないか思いてしまう感じ、というのは、

加藤一雄氏によれば
「活発な精神にありがちの誇張と過剰とは
すぐ隣まで来ているのであるが、よく抑制がきいて
危い一歩手前で立ち止まっている。」

と読みかえることができるのでした。
うん。だいぶ誇張と過剰とに毒されているかもしれないのだ、
と私の立ち位置を教えてくれているようです。

そうか、こうして京都画壇の絵を観賞してゆけばいいのだと
細やかな絵画への水先案内人に出合ったことのよろこび。

おっと忘れるところでした。
この短文「前田青邨展を見て」のはじまりも
最後に引用しておきます。

「『青邨展』をみてその印象をひと言でいうと、
それは歴史の面白さに堪能したということである。

わが国の古代中世人の生き方がありありと描き出されているし、
彼らの笑い声や泣き声までがそこに聞こえてくるような気がする。

そして、ついに大きく静かな自然が深々と彼らの上に覆いかぶさって
くるという鎮魂の譜までがまた余すところなく描き出されている。

絵というものはひっきょう絵空事ではあるものの、絵空事である故に、
その描き方、語り口によっては見事な別世界にわれわれを誘ってゆく
力を持っているものである。その力を使う鍵ともいうべきものを
青邨氏は十分にもっておられるらしい。・・・・・」(p294)

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京都の古書善行堂。

2020-08-04 | 京都
京都市左京区浄土寺西田町にある
古書善行堂は2009年にオープン。
店主の山本善行氏には、著書「古本泣き笑い日記」
(青弓社)がありました。

ようやく私は、京都絵画へと触手がひろがってきました。
そういえばと、「古本泣き笑い日記」を本棚からとりだす。
ここに、「加藤一雄周辺」(p128~137)とあったのを、
すっかり忘れていて、今頃思い出す。そのはじまりは

「加藤一雄との出会いは湯川書房。1999年10月28日、木曜日、
はじめて京都・三月書房の宍戸恭一さんに連れていってもらった、
その日である。いろいろな話のなかで何度か『かとうかずお』という
名前が出てくるのだけれど、いったい誰だかわからない。
洲之内徹のことから出てきた名前だったかもしれない。
湯川成一さんの話を聞きながら、気がつくと話がなんだか
『かとうかずお』になっている・・・・話が一段落したあとで
尋ねてみると、美術評論家であり・・小説をも書いた人だという。
・・・・帰りに三月書房に寄ると、用美社がなくなったという話のあと、
『加藤一雄の「京都画壇周辺」なんていい本出してたのにねえ…』と
いう話になった。それにしても、今日はみんながみんなどうしたと
いうのだろう。加藤一雄、加藤一雄と、知らないのは私だけかもしれない。
『雪月花の近代』(京都新聞社、1992年)ならあるというので、
これはもう読んでみるしかないと思い、買って帰った。・・・・・・・

最初に読んだ『雪月花の近代』は鉄斎、麦僊、華岳といった
日本画家のことを扱った随筆集なのだが、ほとんどなんの知識もない
私が、よくもその魅力を感じることができたものだと思う。
これだけの文章の書き手を知らなかったとは。
とにかく、このときから加藤一雄への旅が始まったのである。
いま考えても『雪月花の近代』にはそれだけのものがあったと思う。」

はい。こうしてはじまっておりました。
おもむろに、『加藤一雄』を読む好機到来。
『雪月花の近代』から読みはじめます(笑)。
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京都・天龍寺。

2020-08-02 | 京都
もともと京都のお寺に興味はなかったので、
天龍寺といっても、竜安寺と同じ寺かもなあ、
と思っていたぐらいでした(笑)。

淡交社「古寺巡礼京都・④天龍寺」(昭和51年)は、
そんな私に、よき入門書となりました。
水上勉氏の10頁の文が、格好の水先案内書となっております。
はじまりは

「ぼくは14歳から19歳まで、
天龍寺派別格地等持院で小僧をしていたので、
本山天龍寺へゆく用事があってよく出かけた。・・・
本山行事はもちろんのことだったが、塔頭でも、何やかや
人寄せ事があって法類小僧が応援に出る慣習があった。
だから、いま本山の風景一つを思いうかべても少年時に
かさなって格別の思いである。・・・・」

こうして夢窓国師の『夢中問答』も引用されておりました。

「『白楽天小池をほりて其の辺りに竹をうえて愛せられき。
其の語に云く、竹は是れ心、虚ければ我友とす。
水は能く性浄ければ吾が師とすと云々。
世間に山水を好み玉ふ人、同じくは楽天の意のごとくならば、
実に是れ俗塵に混ぜざる人なるべし。・・・・
これをば世間のやさしき人と申しぬべし。
たとひかやうなりとも若し道心なくば亦是輪廻の基なり。
或は此の山水に対してねぶりをさまし、つれづれをなぐさめて、
道行のたすけとする人あり。これはつねざまの人の
山水を愛する意趣には同じからず、まことに貴しと申しぬべし、
しかれども、山水と道行と差別せる故に、真実の道人とは申すべからず。
・・・・・・・・・・・
然らば則ち山水を好むは定て悪事ともいふべからず、
定て善事とも申しがたし、山水には得失なし。得失は人の心にあり』
 ・・・・国師の山水観はこの抜書で足りよう。
熟読して身を洗われたが、さかしらに、庭に向かって
物をいうことは控えねばならぬ。・・・・」


はい。このあとに、
『天龍寺は、夢窓国師が、足利尊氏・直義の兄弟を説得して
建てられた』ことのいわれを文を引用しながら説明されておりました。
ですが、ここはカットして、水上勉氏の文の最後を引用してみます。
ちなみに、この文の題は「天龍寺幻想」となっておりました。

「ぼくは子供のころ、等持院の庭で芙蓉の池畔に散る落葉を
掃いていて一服した時、無数といってもいい石が、気ままに置いて
あるとみえたものが、じつはそうではなくて石はそれぞれ場所を得て
坐っていて、それぞれのありようが摩訶不思議に思えた。・・・・・

物の本によると、京には阿弥という庭師のむれがいて、
卑しい人々だったともいう。国師のさしずで、人々が汗だくで、
石を置き、置きかえたりして、長い日数をかけて、完成されたのに相違ない。
そう思うと、柔和な頂相どおりの国師が、本堂裏にすわって、
褌一つでもっこをかつぐ阿弥たちを指図していらしゃる姿がうかぶ。
等持院だけではないのだった。この思いは天龍寺の規模壮大な
曹源池畔に立ってもやはりうかぶのだ。・・・・・
思うのは、国師が尻はし折りしてあれこれ阿弥を使い走りさせながら
自ら池泉を歩きまわられる姿である。・・・・」

え~と。だいぶ端折りましたが、
水上勉氏の文の最後はこうなっておりました。

「この庭を、夢窓さんの鎮魂の庭とみるのも、
草木と共に腐ちんとされた気概の庭とみるのも、
それは現代人の自由である。ぼくはいずれにしても
大勢の人が死んだ建武・暦応の昔の騒音を思い、
上層階級の人々の魂の痛みを、いつも
この庭の奥ふかくから耳をすませて聞くことにしている。」

うん。まるっきり知らなかった天龍寺なのですが、
はじめての案内を、水上勉氏の文章で読めてよかった。
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京都の「ちょっとそこまで」

2020-07-27 | 京都
山崎正和について、何か本棚にあるかなあと見てみる。

司馬遼太郎が亡くなって特集が各雑誌に掲載された際の、
そのひとつに「司馬遼太郎の跫音(あしおと)」(中央公論)と
いう追悼特集があったのでした。その雑誌のなかに
「再録・司馬遼太郎名対談選」とあり、その再録のひとつに
山崎正和氏との対談『日本人と京都』があったのでした。
はじまりは司馬さんでした。

司馬】 ちかごろ嵯峨野について書く必要がありまして、
あれこれ調べていますと、明治の東京の知識人は京都に対し、
拍子ぬけするほど関心がなかったようですね。・・・・

こうして、夏目漱石と正岡子規のエピソードを引用したあとに

司馬】 ・・・ともあれ、明治末期に京都大学のできた意味は大きいですね。
東京をはね飛ばされた学者たちがやって来て、初めて京都を認識する。
また、国家事業ですから、何千人もの給与生活者が集まり、その給料が
町に落ちて、経済的にも京都を活気づける。そこからでしょう、
復興し始めるのは。・・・・・

あとは、飛び飛びに引用してゆきます。

山崎】 私の祖母は生粋の京都人でしたが、思い返してみますと、
彼女の話題には、宇治の平等院も苔寺も竜安寺も、
およそ代表的な観光地はでてきたことがありません。
また、信仰していたお寺といえば、知恩院は別格として、
あとはどのガイドにも載っていない小さなお寺ばかりです。

司馬】 そうでしょうなあ。

この対談は、いろいろな京都が語られていて、
目移りするのですが・・・・
大阪と京都ということで引用すると、

山崎】 ただ、大阪の人は京都を支援することがある。・・・・
ところが、京都人は一向に大阪に関心がない。・・・・・

司馬】 まったく・・・(笑)。京都で飲んでいて、
こちらが小説家だとわかると、『杉並どすか』(笑)。
『いや、大阪や』というと、もう馬鹿にして(笑)・・・。
神戸でもそうですがね。『東大阪や』なんていったら、
他の大阪人までが優越感を持つ(笑)。
しかし、そういう東大阪の居住者だからこそ
よけいに京都のよさがわかる面もあるんです。・・・・


司馬】 自分の考えをある時間まとめて述べるのは
明治の東京から興ったものですが、今でも土俗というか方言は、
やりとりが基本ですね。『司馬さん有難う』『何がですか』
『この間ああしてこうして』と続く。京都弁でも大阪弁でも、
漫才のようなやりとりをして初めて言語的雰囲気が生まれます。
もし東京の人が何かの交渉で京都に来て、長々と
基調方針演説をしたとすると、まず誰も聞いていませんな。
『何か御仕着せのことをいうてはる』という感じです(笑)。
あとの座談になってからものをはっきりさせようと思っている。

山崎】 座談会という形式を思いついたのは菊池寛だそうですが、
たしかにあの人は京都大学で学んでいる。(笑)

山崎】 しまいには内容がなくてもいいことになる(笑)。
こういう笑い話があるでしょう。京都では町内を歩いていると
『どちらへ』と声を掛けられる。

司馬】 あれは必ず聞きますな。

山崎】 京都人なら、近所だろうとニューヨークだろうと、
『ちょっとそこまで』と応える。それでいいんです。
ところが江戸っ子は『よけいなお世話だい』と怒る。(笑)

司馬】 『南座の顔見世に行きますのや』などといったら、
もう野暮になってしまう。やりとりの雰囲気だけで十分なんですね。


司馬】 ・・・・京都での記者生活を終える日に、
京都を足もとから観察してみようと思って祇園に出掛けたんです。
ちょっと歩いて気が付いたんですが、あそこにはゴミ箱がない。
昔はどこにもよくあったでしょう、モルタール塗りの・・・・。

山崎】 ええ、東条英機が開けて歩いたやつ。

司馬】 祇園の人に尋ねたら、
『そんなきたないもんが大阪にはおすのか』と(笑)。
知ってるくせにね。そこで祇園を一巡してみたら、
二十軒に一軒ぐらいは玄関先にありました。
ただ、それは並のものじゃなくて、お金のかかった
見事なゴミ箱なんです。他人様を不愉快にしちゃいけない
という配慮でしょう。そういう市民意識がここにはある
と思いました。・・・・・・


うん。この対談は、また読み直してみたくなります。
(初出 『新潮45』昭和60年4月号)

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広隆寺の半跏思惟像。

2020-07-24 | 京都
淡交社の「古寺巡礼京都⑬」(昭和52年)は広隆寺です。
矢内原伊作氏の文が掲載されている。
そのはじまりは、
「久しぶりに京都を訪れて、今日は太秦に行くのだと言ったら、
宿の女主人に『へえ、映画村にお行きやすのどすか。』と
言われてこちらが驚いた。ちかごろは、広隆寺よりも映画村の
ほうが有名になっているらしい。」

この矢内原伊作氏の文では、仏像を語る箇所が印象深い
ので、その箇所を引用してみます。

「宝庫は、しかし実際は、倉庫のようなところに収められている。
寺の当事者はおそらく最大限の努力と苦心と注意を払って霊宝館
を管理し、そこに仏像その他を陳列しておられるのだろうから、
それを倉庫などと言っては申しわけないが、来歴不明の、
さまざまな時代のさまざまな性格の仏像が雑然とならべられている
この殺風景な建物の内部からは、正直なところそんな印象を与えられる。

仏像はそれぞれ、それがあった場所を失い、
身にまとっていた空間を失って、いわば裸にされているように見える。
しかし、嘆いてばかりいるには及ばない。裸にされることによって、
美しいものがいっそう美しくあらわれ出ることもあるのである。
宝冠弥勒半跏思惟像の比類のない美しさはまさに
そういう美しさではなかろうか、と私には思われる。」(p71)

「霊宝館には、この像とならんで、わが国の仏教美術史の各時代
を代表するすぐれた作品が所せましとばかりひしめいている。
実際、このせまい館内を一巡すれば、われわれは奈良、貞観、弘仁、
藤原、鎌倉、という風に展開する仏像彫刻の時代様式の変遷のあとを、
それぞれのすぐれた作例について容易に見てとることができるのである。
・・・・霊宝館の入口を入ってすぐ左の壁際にならんでいる十二神将の像、
私はこれが殊のほか好きである。
・・・・とりどりの武具を手にし、思い思いの姿勢で忿怒をあらわしている
十二神将にはまた独特の不思議な魅力がある。忿怒をあらわしていると
いっても、優美を特徴とする藤原時代の作だけあって、顔貌は静かで、
怒っているというよりはむしろ、戦わなければならないのを悲しんで
いるかのようである。体軀もまた静かで、リズミカルな躍動感はありながら、
力強いというよりはむしろ優雅な身のこなしである。甲冑など細部は
精巧でありながら煩わしさがなく、すっきりとして爽やかである。
木彫十二神将像の最古の作例であり、またおそらく最も美しい作品である。」
(p74)

ここに、「怒っているというよりはむしろ、
戦わなければならないのを悲しんでいるかのようである。」
と矢内原氏は指摘されております。
それでは、宝冠弥勒半跏思惟像を矢内原氏は
どう語っておられるか。そこを引用してゆきます。

「・・救いがたい衆生をいかにして救うかが、この菩薩の『思惟』の
内容であろう。しかし広隆寺のこの宝冠の半跏思惟像は何かを
考えているようには見えない。考えているというよりは、むしろただ
夢みているように思われる。・・・半跏思惟像はただ微笑している。

・・・もっとも、微笑にもいろいろある。・・・・・
法隆寺の釈迦三尊や百済観音にはきびしい神秘的なものがある。
あの端麗で慈愛にあふれた中宮寺の弥勒像の微笑もまた、
仏から人に向うものだ。ところが、この広隆寺の思惟像は人間に
向って微笑みかけているのではない。自らの内部からあふれ出る
精神の生命が微笑となっているといった感じである。
眠っている幼児がときおり無心に微笑むことがあるが、
この像の微笑はそれに近い。
それは、いかにして人間を救うかを考えている姿ではない。
それ自身が救いなのだ。無心の歓喜に指はほとんど踊っている。
 ・・・・・・・・・・・・・
・・・・・広隆寺像にあっては、
指先と頬とのあいだに3ミリか4ミリの空隙がある。
ということは、この像はもともとこの空隙を埋める程度に、・・・・
厚く漆で塗りあげられ、その上に金箔がおかれていたものであろう。
・・・・・とうてい想像もできないが、今日見られる像が直線的抽象的で
あるのに比して、もっと曲線的で肉づきの豊かなものだったであろうし、
今日の像が人間的写実的であるのに対して、
もっと超人間的神秘的だったであろう。
これは私の想像にすぎないが、しかしこのように想像してみてはじめて、
今日のわれわれが見るこの像の類のない純粋さの秘密の一斑が納得される
のではないだろうか。これは、その上に漆を塗って仏像として造形される
以前の、彫刻の素型のもつ清純さである。つまり裸の美しさである。」
(p73)

うん。こうして引用してくると、
矢内原伊作氏の文の最後のしめくくりまでも
引用しておきたくなります。以下はその最後の箇所。


「・・・街の騒音はここまでとどき、隣の映画村からはマイクで呼びかける
声がしきりに聞こえてくる。竹藪のむこうに殺風景なコンクリートの建物が
迫ってきていて、それは撮影所の建物なのだった。・・・・・・
われわれの現代の文化と過去の文化、
それが何の関係もなく小さな塀ひとつを隔てて隣りあっているというのは、
いたるところにあることではあるが、思えば奇怪なことである。
何の関係もないということはあるまい。関係がないとしたら、
そこに関係をつけ、美しい古いものを現在と未来に生かしていくことが
われわれの責務ではないだろうか。そんな風に私は思ったが、
思っただけで難問が解けるものでもない。
難問がどうであれ、美しいものは美しい。それはそうだが、
美しいものはわれわれが難問にたちむかい、われわれ自身の
現実の課題を解決するのを求めてやまないように私には思われる。
それが美しいものの力であり生命であるように思われる。」(p76)

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都踊りはヨイヤサアー。

2020-07-22 | 京都
清水誠規著「京洛物語」(昭和56年丸善京都支店出版サービス)。
はい。こんな古本を買いました。あとがきは娘さんなので亡くなって
出版にこぎつけたような感じです。

そのあとがきに「父が商家の跡取りでさえなかったならば・・・・
今も惜しまれるけれど、文を書く愉しみが愉しみであるためには、
これでよかったのかも知れない。・・・」とあります。

うん。こういう本に出会えるのですから、
古本は愉しみです(笑)。

「人の世はまことそらごとまざる故
  史(ふみ)見るほどに面白きかな  誠規 」

こうあってから、次の頁が目次でした。
ここには、最初の文『都踊り』から引用します。
ちなみに、『京都』誌所載とあるので、
雑誌に掲載されていた文をまとめて本にしたようです。
『都踊り』は昭和45年4月号所載とあります。

「・・・・・都踊りの歴史は古い。
明治維新で東京に遷都となって、一千年来の都が廃され、
京都は一ぺんに虚脱状態に陥った。主上や公卿、政府諸機関が
全部、東京に移ったので、それに従って人口も七分の一に減じ、
火の消えたような寂れ方だった。
『このままでは京都は田舎になる』と京の人達は誰もが長嘆息した。
ちょうどこの時、東京政府から明治6年にフランスのパリで開かれる
万国博に、古くから種々な古美術の在る京都からも出品せよとの通達が来た。」

はい。めずらしいでしょうから、
詳しく引用してゆきます(笑)。

「時の京都府知事は長谷信篤で、この人は公卿出身であるが、
その下に大参事として槇村正直という敏腕な行政官が控えていた。
この人は後、知事となって新京極を開くなど、京都の発展のために、
大いに進歩的な政策を示した人である。彼は早速当時の京都の富豪で、
維新の際、私財を献納した功労者でもあった三井八郎右衛門・小野善助・
熊谷直孝(鳩居堂主人)を集めて相談の上、出品物を集めることにした。

何しろ京は古い王城の地である・・・・そこで一策を考えて、
京都にもまだこれだけのものが残っているぞと人心を鼓舞激励する意味
にも、これらをパリに出品する前に一般に公開することを思い立ち、
明治4年の秋、西本願寺の白書院で展観した。・・・・・・・

予想外の利益を挙げることができた。これに当時者達はすっかり
気をよくし、パリ博の了ったあと、翌年、明治5年3月7日から5月30日迄、
これらの集った品に、さらにガラス細工、外国貨幣などを加え、計485点
を西本願寺、建仁寺、知恩院の三ヶ所で公開出品することにした。
これが日本で初めての『博覧会』である。

しかし何分にも今度は会期が二ヶ月にもわたり、京都だけでなく、
日本全国から来てもらわねばならぬので、この間、観覧者の足を
引きとめるには、単に品物を見せるだけでは興がなく・・・・・・・

これまで武士や富豪などの特権階級だけの占有物で、
普通庶民にはなかなか見られない祇園・宮川町・下河原の
美妓連の中から、選りすぐった名手の踊りを見せることとなった。
今でいうアトラクションである。

祇園新橋松の家席で三代井上八千代(片山春子)が踊り33人
地方唄11人・噺子10人・計53人を率いて、初めての試みである
京舞の集団舞踊をやることになった。さあー大変、京都の市民は喜んだ。
『祇園の芸者の総上げや』と肝心の博覧会はそってのけで、わあーと
ばかりに押し寄せた。これが『第一回の都踊り』となり、
以後年々隆盛になっていった。
  ・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・

なお都踊りの基調である京舞は・・・・
近衛家の所作・行儀・壬生狂言の所作・能楽の良いところを採り入れて、
舞の振付を編み出したもので、動きの少ない、静かな、それだけ上品な
舞として定評があるが、この都踊りに初めて伊勢音頭の形式を採り入れ、
地方(ぢかた)を正面の後列に、噺方をその前にならべ、左右の花道から
踊り子が出てくるという華麗な舞台を現出した。

当時の歌詞の題名は『都踊十二調』で
作詞は粋人槇村大参事と伝えられる。
また『都踊り』の名称はこの片山春子が命名したものである。
『都踊りはヨイヤサアー』今日も華かなその歌声が聞こえてくる。」


はい。古本を読む愉しみは、こんな文を出版サービスセンターから
出されていることで、京都の愉しみは、ここにもありました。




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山崎正和の京都。

2020-07-20 | 京都
山崎正和氏は「洛北、洛東に生まれ育った」とあります。
一時「少年期の数年を大陸で過した」ともあります。
その山崎正和氏の京都。

「・・銀閣寺の門前町で産湯を使ひ、長じては、高校から大学院までを
吉田界隈で暮らしたのだから、私はまづ、一応の京都人といふことに
なるのだろう。・・」

こうはじまるのは、「洛南遊行」と題する文です。
「昭和27年の1年間を・・・宇治分校」へ通ったと記したあとに、

「洛北、洛東に生まれ育った私にとって、国鉄京都駅から南は、
それまで訪れる機会も必要もない、異郷だったのである。

もっとも、京都はそれだけでひとつの完結した『世界』であるから、
京都人にとっては、もともとこの町はいくつもの異郷に分かれて
ゐるといへる。私の場合、京都とはせいぜい、東山の山裾から
西は烏丸通りまで、北は下鴨一円から南は七条通りにいたる、
細長い長方形のなかに限られてゐた。・・・・・・・・
中京の商家も、西陣の織物街も、東西本願寺も、祇園の色街も、
私の生活には縁のない、何やら異様な風俗の別天地であった。

そして、おそらくこれは程度の差こそあっても、大部分の京都定住者が、
お互ひのあひだで感じてゐる実感であるやうに思はれてならない。
西陣の工人にとっては、京都大学近辺は不可解な異邦であろうし、
祇園の芸妓にとっては、上賀茂の農村はもの珍しい別世界にちがひない。
伝統的な町には、たぶん伝統的な空間感覚が残るのであって、
典型的な京都人なら、たとひニューヨークに移住することはあっても、
京都の内部を転々と移り住むことは、あまり考へられない。」

はい。こうして京都の歴史を紐解いてゆかれるのですが、
そこは、カットして、あと一か所引用。


「気候風土の点でも、また、人びとの気風の点でも、京都は今日でも、
北陸、山陰の末端としての性格を残してゐる。万葉時代から、
京都文化はまづ日本海側に向かって伸びてをり、室町時代まで、
京都を落ちのびた敗軍の兵は、琵琶湖西岸を通って北陸へ抜ける
ものが少なくなかった。面白いことに、京都の代表的な食用魚は、
鯖、鰈、鱈の塩干物であるが、かうした海産物すら、
瀬戸内海や太平洋からではなく、日本海から山越えで
運ばれて来たことは注目に値ひしよう。

京、大阪の距離は、俗に十六里といはれるが、江戸時代においても、
その間の心理的な距離は大きく、文化的には、ほとんど京都と江戸の
へだたりに匹敵するものとさへ見なされてゐる。
当時の歌舞伎役者の心得書きを読んでも、江戸、京、大阪は均等に
質の違ふ三都であり、観客の気風も、その間で同程度に違ってゐる
と感じられてゐたことがわかる。明治以後の百年を見ても、
新興の神戸と大阪間がたちまち発展して、芦屋、西宮の住宅街を
生んだのにたいして、京阪間の茨木、高槻などが成長を見せたのは、
やうやく第二次世界大戦後のことだったのである。」


以上は「山崎正和著作集④」(中央公論社・昭和57年)から
引用しました。この④に「室町記」も入っておりました。
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グラフィック版「方丈記」

2020-07-19 | 京都
堀田善衛著「方丈記私記」を読んだ際に、
ついでのように買った古本がありました。
世界文化社のグラフィック版「日本の古典」シリーズの
一冊で、日本の古典⑧「徒然草方丈記」。
この方丈記を、堀田善衛氏が担当されていた。
もちろん、安かった(笑)。
表紙の見返しの、きき紙と遊びの両方のページに、
方丈記の原文と一応されているカタカナ漢字交じり文が
写真印刷されており、その文字だけで見ごたえがある。
この世界文化社のグラフィック版は函入りで
サイズは、28㎝×23㎝。ページ数は167頁。
しっかりとした表紙の一冊です。
ちなみに、グラフィック版とヴィジュアル版とがあるようで、
後発のヴィジュアル版は、軽装版で写真が豊富なようです。

本棚からとりだして、パラパラと
ページをめくって楽しめました。
絵と写真が豊富で楽しめます。
なんせ、現代画家から絵巻物まで、そして写真も
お寺から花の写真まで、手の込んだ味わいがあります。
はい。文章なら最後まで読まない私でも、
これなら、パラパラ見ていても楽しめます。

絵巻物も、徒然草絵巻・一遍上人絵伝・
平家物語絵巻・春日権現霊験記・平治物語絵巻
飢餓草紙・春日験記・年中行事絵巻・東北院歌合
親鸞上人絵伝・石山寺縁起絵巻・賀茂競馬図と、
ほぼ毎ページに絵が載っております。しかも、
そこに前田青邨・海北友雪・小杉放菴・下村観山の
絵があったり、写真は写真で、仁和寺の五重塔・
琵琶とその撥(ばち)・宇治市日野の長明方丈石
さらには、むかご・岩梨・芹・茅花の写真まで。

わたしは古い絵巻物の場面とともにならぶ、
現代の前田青邨の絵に惹かれました。
ページごとに目移りしてしまう楽しさです。

古本で買って、そのままに
本棚に眠っていた一冊。

ここに載る堀田善衛の方丈記に関する文からも
引用しておかなければ(笑)。
堀田氏が方丈の居を構えた場所を訪ねます。

「・・・日野山であるが、所は言うまでもなく
山城国(京都府)宇治市日野にあり、ふもとの
法界寺薬師堂から細い畦道のような道を歩いて
山道にいたり、清冽な流れに沿って20分ものぼって行くと、
濃い茂みのなかに、水成岩による巨大な、凸凹の巨岩に
行きあたる。その岩の上に、江戸時代の儒者岩垣彦明が
建てたといわれる方丈石の碑石が建てられているのである。
・・・・・・・・
西にひらいた谷戸(たにのと)の奥だから風当りも少い。
住居の専門家として、余程細心の注意を払って
の調査の上で、場所を選定したものと思われる。
さほどに山深いというものでもなく、
里が遠いというのでもない。
しかし、場所はここでなければならぬ、
とどうしても思ってしまうのである。
しかも、京の市中まで歩いて半日くらいのものであり、
京に住んでいる旧知の連中には、宇治日野山のあたりに
妙な奴が住んでいて、という、長明の側からしていえば
睨みも利く位置なのであった。おれはここに、いるぞ!
という・・・・・。

そうして日野山をめぐっては、
もう一つ二つ歴史的な大事があった。ふもとの
法界寺薬師堂の地は、実に親鸞誕生の地なのであった。
それからこの法界寺薬師堂の建立者である日野氏そのものは、
代表者としての足利義政の妻、日野富子、南北朝時代の
日野資朝(すけとも)などを出した豪族一家であり・・・・」
(p127~128)

このように方丈記の説明中にあるのでした。
絵巻物のさまざまなカットと前田青邨の絵と、
それから長明方丈石のある風景写真と。
最後の見返しにも、方丈記の文が
表紙見返しと同じように載っております。
はい。活字より、そちらで私は満腹です。


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遁世者(とんぜもの)吉田兼好。

2020-07-18 | 京都
山崎正和著「室町記」をひらく。
室町の時代を、一望に臨める案内板をひらいている感じ。
と言ってみても、通じないですよね(笑)。

パラリとひらいた兼好法師の箇所を引用することに。
うん。2頁だし、鮮やかなの後味が残ります。
題は「最初のジャーナリスト 兼好法師」。

「高師直が塩治判官の美しい妻に懸想したとき、
その恋文の代筆に呼ばれたのが兼好法師であった・・・
『太平記』によるとその首尾はさんざんであって、
兼好は香をたきしめた紙に言葉をつくして達筆をふるったが、
せっかくの手紙は開封もされずに庭に捨てられてしまった。
師直は怒って、
『いやはや、ものの役に立たぬのは書家といふやつだ。
今日から、その兼好法師とやらを近づけてはならぬ』と
出入りをさしとめにしてしまったといふ。

『徒然草』といへば今ではたいていの教科書にのってゐる古典だが、
その著者が、生活のためにときにはかういふ悲哀も味はってゐたと
思ふと、なんとなく面白い。無知な田舎侍に『ものの役に立たぬ』と
ののしられ、報酬も貰へずに帰った兼好の気持ちは『徒然草』には
書かれてゐない。だが、さう思って読むとあの王朝趣味の名文の裏には、
いかにも乱世にふさわしい生活の匂ひのする知恵がちりばめられてゐる。
たとへば彼にとって、友とするに悪いものは第一に『高くやんごとなき人』
であり、続いて『猛く勇める兵(つはもの)』『欲深き人』などが並び、
逆に良い友達の筆頭は『物くるる友』だといふのである。
 ・・・・・・

いふまでもないことだが、当時の観念のなかには、
まだ『随筆家』などといふ分類はなかった。
法師とはいふものの僧として偉いわけでもなく、
吉田神道の家につながりがあるといっても
神官として身を立てたわけでもない。
和歌は『四天王』のひとりに数へられることもあったが、
あいにく二条、京極、冷泉といふ伝統ある家柄に官職を持つ
専門家として遇されたわけではなかった。
 ・・・・・・・・・・・

彼のやうな人間は当時『遁世者(とんぜもの)』と呼ばれたが、
この乱世はまたかういふ人物を現実世界のなかで生かして
使った時代であった。師直はたまたま兼好をののしったが、
彼ですら一度は兼好のやうな教養を必要と感じる時代でもあった。
そしてこのとき以来、日本社会はつねにその時代の『遁世者』を、
現実世界の内側でうまく生かして使って来たやうである。」


はい。山崎正和著「室町記」(朝日新聞社・昭和49年)には
カバー写真は、薬師山より東山を望む『京の夜明け』。
最初の2ページに写真が4枚。どちらの写真も井上博道。
本の後ろには、守屋毅氏の『室町生活誌』と『室町記』年表と
が掲載されていて味わいのある多面的な一冊。

このあと、朝日選書にはいり、講談社文庫にはいり、
そして、講談社文芸文庫へはいったようです。
わたしは、朝日選書と講談社文芸文庫は手にしておりません。
あとで、安い古本で見かけることがあったなら買うかも(笑)。


そうそう、単行本のあとがきは2ページで、
講談社文庫のあとがきは4ページでした。
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