和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

わかりよるのやろか。

2021-02-26 | 京都
谷沢永一著「十五人の傑作」(潮ライブラリー)の
はじまりは今西錦司。その文中で、谷沢氏は開高健を引用してる。

その引用文は、開高健著「言葉ある曠野」(文藝春秋)の
なかにはいっている「カゲロウから牙国家へ」からの引用とあります。

さてっと、未読でしたが、開高健著「人とこの世界」(中公文庫)は
本棚にあります。今西錦司の「カゲロウから牙国家へ」はそこにある。
読み始めるのですが、その文のはじまりで、もうわたしは先へと、
読みすすめませんでした。はい。ではそのはじまりを引用。

「今西博士の名を知ったのはかれこれ十年ほど以前のことである。
『日本動物記』という本を読んで知った。これはたしか四巻本で、
光文社から出版されたのだったと思う。憂鬱で苦しんで字も書けねば
人にも会えないでいる私に富士正晴氏が手紙で推奨してきた幾冊かの
薬用書籍のなかにそれが入っていた。憂鬱の発作に抵抗するには
鳥獣虫魚とか、失われた大陸とかの本がいいようである。

富士氏は昔から京都のいろいろな学者と接触が深いから今西博士の
人格や業績をよく知っていて私に推奨してくれたにちがいない。
・・・」(文庫p173)


はい。憂鬱な開高健は、これ以上読まないことにして、
ここに登場する、今西錦司への連想を楽しむことに。

思い浮かんだのは、寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)。
ここに、「京ことばに生きる男たち」という文があったのでした。
そのはじまりは、今西錦司らのある座談会の場面からはじまります。
そこで寿岳さんが指摘するのは
「今西、梅棹両氏には方言で話す能力とでも言いたいものが
非常にあらわに存在する。」(p28)と観察して楽しんでおられる。

うん。全文引用できないのは残念ですが、
最後の方をちょこっと引用しておきます。

「・・人はあることに気がつくに違いない。
それは・・学問が、きわめて濃厚な個性をもっている
ということである。その文明論、その研究方法、発想、
人がおぼめかしてひそめていたものを、堂々と白昼明らかにして、
思いがけない方法でみごとな体系につくり上げてゆく力。
それは関西の力とでも言いたいものがある。
・・・・・

いわば大地に足をふんばって、生きている力をフルに発揮する
ところに出てくる学問、たくましい現実を構想する力、
そんなエネルギーがぎらぎらしている感じがある人たちである。
・・・・・・
私は思う、関西のことばを大切にし、時には第二標準語論にまで
発展するくらいの気構えと誇りで勝負するこの人たちは、
すなわち、京都弁でものごとを考えている人たちである。
絶対に共通語の語り口からは生まれない何ものかがあるのではないか。

いわば土地のことばによる土着の思想の世界に実ってゆく学問
と言ってよいであろう。ほんとうは私はそんな世界にあこがれて
いるのである。・・・・」(p37)

はい。あこがれがあれば・・。



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京都人の性質。

2021-01-21 | 京都
入江敦彦著「読む京都」に、こんな箇所。

「差し引きすれば仏様に貸しがある――
これほどまでに京都人の性質を表現した諺はない。

宗教都市と呼ばれる古社古刹が犇めく街の住人の本音がこれである。
お供えを欠かさず、事あるごとにお布施をはずんでも、
カミサマ・ホトケサマから返ってくる御利益や御功徳は僅かなものだ
・・・という現実主義。ゆえに期待してはならぬという自戒。
そんな気持ちを言葉にして見せる諧謔とシニシズム。

それでいておそらくはどこの都市よりも神仏への畏怖を忘れぬ崇敬心。
京都人の貸しは嵩むばかり。だが、それでいいと彼らは考えている。
借金から逃げ回る人生よりも余程マシ。」(p158)


昨日は、妻のお父さんの三回忌。
仏壇の前に、住職を入れて4人。
曹洞宗でした。皆で読んだのは、
「魔訶般若波羅蜜多心経」
「修証義 第一章総序」
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」
だったと思います。
最後は住職が、御詠歌のような節回しで
たしか『南無地蔵菩薩』という言葉がはいっておりました。

わたしは、修証義を住職の読経にしたがって、
久しぶりに声を出して読んでおりました。
その修証義第一章のさいごの方をすこし引用。

「今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、
善悪をわきまえざる邪見のともがらには群すべからず、
おおよそ因果の道理歴然として私なし、
造悪の者は堕ち、修善の者はのぼる、ごうりもたがわざるなり
 ・・・・・・  」

はい。第一章の最後はというと

「仏祖の道を修習するには・・・
業報の理をならいあきらむるなり
しかあらざれば 多くあやまりて邪見に堕つるなり、
ただ邪見に堕つるのみに非ず悪道に堕ちて長時の苦を受く。

まさに知るべし今生の我身二つ無し三つ無し、
いたずらに邪見に堕ちて虚く悪業を感得せん惜しからざらめや、

悪を造りながら悪にあらずと思い、
悪の報あるべからずと邪思惟するによりて
悪の報を感得せざるにはあらず。」
(注:引用はところどころ漢字をひらがなにしました)


ちなみに、
「読む京都」の先に引用した箇所は
「«貸しがある»人々の宗教本」と題する章の
はじめにありました。その題の文のなかに
気になる箇所がありました。

「しかし京都で本当に重要なのはやはり
偉人の生い立ちや足跡を辿ることではない。

名もなき人々、市井に生きて死んだ町衆たちの行動原理
から湧いてくるもののほうに、より濃厚な醍醐味がある。

救済のシステム論ともいえる眞鍋廣濟の『地蔵菩薩の研究』や
婆娑羅=異類異形の研究をまとめた網野善彦の『異形の王権』
といった隠れた名著は数多い。
京を京足らしめたのは秘仏や名僧ではなく、
日常を見守る路傍仏であり蔑まされてきた異端者なのだ。」(p162)

はい。つぎにひらいてみたい本が決まりました。



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『京都を利用してやろう』

2021-01-18 | 京都
入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社・2018年)。
この本を、私は、テキストにして、今年読むのだ。

はい。遅くなりましたが、新年の抱負。

この本の「まえがきにかえて」のなかに
「・・・京都人ほど平気で京都の悪口をいうし、
お上にも逆らうし、『京都ぎらい』なんて本も書いちゃう。
だけれども、どんなにエライ先生でも・・作家でも、
その目的が金でも名誉でも自己承認欲求でも
『京都を利用してやろう』という性根がちらとでも覗くと、
とたんに牙を剥く性質があるのだ。
それが京都人の責任感の表れである。」(p16)

はい。関東圏に生れ、そこで住んでいると、それはもう、わたしなど、
『東京を利用してやろう』という発想が、前提として染みついている。
何で、それがイケないのかと、すぐに反応してしまうほど、
私など体臭としてプンプンさせて、歩いているようなものです。

「行政は『産めよ増やせよ』的に観光客を集めようと躍起。
有名社寺のライトアップや秘仏公開を寺院に要請している。
だが、そんな客寄せパンダ目当てより、
みうらじゅん、いとうせいこうの名著『見仏記』を読んで
普通に御開帳されている仏像を拝みにやってくる人たちの
ほうがよほどこの都市を涵養してくれる。
彼らはキョートランドに興味はないし、
それらを避けるアンテナもある。」(p18)

「まえがきにかえて」は、その最後を
こうしめくくります。

「本書を捲っていただけば京都に興味のある人たちが
手に取るべき百読が必ずや発見できる。
一冊一冊ではいかな名著であれ怪物のごとき身体を持った
千年の古都の、その一部を照射するにすぎない。
が、それらを複合的に熟読してゆけば必ずやなんらかの像を結ぶ。
ひとりひとり見えている像は異なるけれど、
それが≪あなたの京都≫なのである。」(p19)

はい。さいさきの良い本にめぐり合えました。
この本に、私はどれほどチャレンジできるのか。
なあに【棒ほど願えば、針ほど叶う】というじゃありませんか。
今年が楽しくなりますように。

うん。本文からも、パラリとひらいたこの箇所を引用。

「現役組だと写真集を得意とする『光村推古書院』や
茶道関係書籍の元締め『淡交社』、『京都書院』の志を
継いだようにアーティスティックな『青幻舎』などなど、
それぞれが良書と評してかまわない本を作っている。ただ残念
ながら、そこには京の失われた出版社が持っていた香気はない。
気概はあっても経済行為として出版を続けていこうとしたら、
やはりおもねる必要があるのだろう。きぐしねいです。

現在、在京都で京都についての書籍を最も多く手掛けているのは
『京都新聞出版センター』だ。地元の利を活かした緻密な本作りは、
ときに読者を想定(マーケティング)していないのではないかと
笑ってしまうくらいマイナーなネタも活字にしてしまう。
そういう観点からも京都らしい京都の出版社といえるだろう。」
(p125~126)

はい。行先を指さすように、
巻末に、6ページの「書名さくいん」。



はい。『注』として追記しておきます。
東京堂出版の「京都語辞典」(昭和50年)をひらくと

『きぐしねい』はありませんでしたが、
『キズツナイ』があります。以下そこを引用。

「キズツナイ(気術無い)≪形≫気づまりな。
『えらいキーツコー(気使っ)てモロて キズツナイことドスナ。』
大阪・大津・和歌山も。キガズツナイとも。
ズツナイ(術ない)はつらい、せつない意。」(p41)
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今西錦司でなければ。

2021-01-15 | 京都
私の京都の最初の案内本は、
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書・昭和62年)でした。

こんど、入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社・2018年)を
ひらくと、梅棹忠夫氏と並んで今西錦司氏が登場している。
うん。これなら今西錦司を読み始められるかもしれない。
そう思える箇所がありました。ちょこっと引用。

「・・・三人目の今西錦司。
梅棹忠夫のお師匠さん。生態学者、文化人類学者として
数々の金字塔的研究を打ち立ててきた学者だが、
わたしの知る限りでは京都についての著作はない。
・・・・・

けれど、やはりここは今西でなければならぬ。
なぜならば京都語が森羅万象に敬語で接するように、
彼にはいわば学問対等意識めいた感覚があったからだ。
命題を探る手段として今西錦司という知性は自然科学にも
社会科学にも人文科学にも均等に接することができた。
学問の世界でかくも京都人的であれたのは、
すんごいことである。

京の老舗は格式が高いほど、名代の改良改善に余念がないものだが、
変化を恐れず、自らの説に固執することなく学問する姿勢もまた
見事に京都人の作法と一致する。
『今西錦司全集』(講談社)の後半、十から十三あたりは
学術的だと敬遠せずに読んでみる価値は大あり。
はっきりいって杉本秀太郎よりも読みやすいと思うし。」
(p198~199)

そのすこし前に、入江氏は「梅棹忠夫の京都案内」をとりあげ、
こう記すのでした。こちらも引用。

「・・白眉は、それこそ京言葉についての省察。
たとえば京都人が誰に向かっても、それが年下や身内、ときには
敵や犬猫にさえ敬語表現を使うのは無階層的、市民対等意識という
基本原則があるからではないかとする推論には感動した。
ああ、この都市の言葉はそんなふうに考えていけばいいのか
という指針にもなった。」(p198)

はい。今西錦司を、わたしは読めずにおりました。
京言葉からの視点でなら、読み始められるかもしれない。
さっそく、今西錦司全集の指摘されている巻を古本注文。

今西錦司を、今年読み始められますように。
そんな、思いをこめて、本を注文しました。




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200円の京都。それ以上の京都。

2021-01-14 | 京都
200円~300円くらいで、京都に関連する古本を
楽しみにして、ネットで購入しております(笑)。

ということなのですが、今年になって
入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社・2018年)をひらき、
そこに、格好の水先案内人と出合った気分になりました。
その「まえがきにかえて」で、こう指摘してます。

「ただ京都の場合、問題は百冊ではなく千冊、万冊の書籍が
あるってことだ。千冊の中から、どこを百読するか査定するのが
難しい。しかもかなりの割合で粗製乱造された本も混じっている。
百読どころか百毒である。」(p14)

うん。やはり高い古本も必要なのだ。

ということで、「読む京都」から気になった箇所を引用。
「『劇場型言語』の妙味」と題する数ページがありまして、
そのはじまりは

「京言葉は演技を前提としている。わたしは手前味噌の
造語だけれど【劇場型言語】と呼んでいる。」(p71)

「シェイクスピア戯曲はイギリス英語だからこそ
生命を吹きこまれ得たし、『源氏物語』は共通語の
言語領域からは決して生まれてはこなかったろう。・・・」

このあとに、『京料理のこころみ』(柴田書店)をとりあげて

「『京料理のこころみ』が京都という都市/文化を読み解くうえで
最も重要なテクストのひとつだと考える理由は、そこで紹介される
料理の技法や哲学、美意識以上に著者である6人の名料理人が交わす
会話を余さず収録しているところにある。

『生粋の京都人』などという表現が陳腐に聞こえるほど
骨の髄まで京都的な彼らの丁々発止は無形文化財に指定
したくなるほど面白い。・・・」(p72)

はい。この言葉を頼りに、ネット古書を検索すると
ありました。あるにはあったのですが、安くても
4000円~5000円。けれどもあった。
検索すれども見あたらない古本はあるのですから、
ここは、腹を決めて買うことにします(笑)。

うん。無形文化財に指定したくなるほどの丁々発止を
ぜひとも読みたくなりました。

そうだ、京都 読もう。





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ウサギ追いしかの山。

2020-11-18 | 京都
「京都みちくさの景色」(京都新聞社・1999年)は
文・中村勝/写真・甲斐扶佐義。はい。もちろん安い古本。

パラリとひらくと、はじめのほうに
「うさぎ ウサギ」と題する箇所があるので引用。
はじまりから

「昔の京都の中学校では、学校行事でウサギ狩りがあった。

一中の卒業生である松田道雄さんが
『ウサギ狩りちゅうの、ありませんでしたか? あのころ』
というと、一商の天野忠さんが
『ああ、学校から連れて行かれました』と応じている。

『行きましたね。京都の近所・・・・
山科だとか北山だとかねえ。下から勢子が声をあげて追いあげるのを、
上で網をはって待っててねえ』
(1980年、本紙連載鼎談『洛洛春秋』・・・)

 ・・・・・・

松田さんの学校では冬の年中行事で、
朝まだ暗いうちに出発してウサギ狩りに行った。
奥山にえさがなくなって、畑に近い山に移動してくるのを狙うのだが、
50人のクラス全員で1時間か1時間半かかって一山を追い上げても、
一羽も獲物がないこともある。3つか4つの山を狩ると、
もう日は暮れかけていて、学校へ帰って
みんなで食べるウサギ汁はおいしかった、という。

大正時代のおはなしである。
平成のいま、『ウサギ追いしかの山』は童謡の
なかの話だと思っていた・・・・」(p15~16)

へ~。これ大正時代は全国的にあったのでしょうか?
学校でなくても、うさぎ狩りというのはあったのでしょうね。
うん。はじめて知りました。

文章はつづきます。

「数年前、能登半島沖の無人島で放された二つがいのカイウサギが
300羽にまで異常繁殖して話題になった。・・・・

同じ石川県の金沢市で1995年春、カイウサギ20羽が郊外の森に
放される事件が起きたが、こちらは夏までに全滅した。
キツネにやられたのだろう、という。・・・・

このカイウサギ、もともとアナウサギと呼ばれる野性の一種を
長い年月かけて飼育し改良したもので、日本には
約450年前に入ってきた外来動物。
現在、150を越える品種があるといい・・・・・ 」(p16)


はい。松田道雄さんや、天野忠さんが生きていらっしゃったら、
近頃の若い者は、ウサギ狩りも知らないと言ったかどうか?



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花鳥風月と枕草子。

2020-09-24 | 京都
うん。徒然草と方丈記は読んだのですが、
枕草子を、きちんと読んだことがなかった。
短いのだし、今度最後まで読んでみよう(笑)。

伊東静雄は、先生で学生の庄野潤三へと語った言葉に、
『枕草子は、その書きぶりが賢そうで嫌いだったけれども、
書いてあることは非常に大切。日本の美感の源泉で、
これを知っているといないとでは大へんな違いとなる。』
(p118・庄野潤三著「前途」講談社・昭和43年)

うん。日本画の花鳥風月を味わうには、枕草子かもね。

せっかくなので、『前途』からあらためて引用。
庄野潤三が伊東先生のお家へ行った場面でした。

「・・・配給のお酒を一緒に飲む。
『全部飲んだらいけませんで』と云われる。
晩、先生も元気が出てきて、文学の話が弾んだ。
 ・・・・・・
話は国文学の読みかたに移る。先生はこう云った。
和文脈の中心となるものは、先ず
源氏物語、伊勢物語、枕草子、徒然草、倭漢朗詠集の五つ、
日本の美感はこれに尽くされている。
このうち源氏物語が大本であるが、全部読むのは面倒ゆえ、
好きなところを引っぱり出して読めばいい。特に大切なのは
枕草子と徒然草で、これは是非とも読む必要がある。
 ・・・・・・・・
自分が書きたいと思うことがあると、
昔の人はそれをどう書いてあるか、すぐに見てみる。
こうなると、文学の本道に入って来たと云ってよい。
・・・・・・
たとえば菊のことを思えば、すぐ菊のところを
枕草子でも徒然草でもいい、引っぱり出して読んでみる。
通読しなくてもよいから、気の向いた時、
すぐ出して、そこだけを読む。
・・・・
枕草子は、その書きぶりが賢そうで嫌いだったけれども、
書いてあることは非常に大切。日本の美感の源泉で、これを
知っているといないとでは大へんな違いとなる。」


はい。最近、京都は京都でも、
日本画への興味がつのります。
その花鳥風月は、枕草子なのかもしれない。


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余生の一期一会。

2020-09-08 | 京都
山崎正和氏が亡くなり、その新聞の評伝で、氏の代表的な本として
山崎正和著「柔らかい個人主義の誕生」(中央公論社・昭和59年)が
あがっておりました。

はい。読んだことがないと、古本で注文。
江戸川草古堂から届く。1円+送料350円=351円。
目次をめくっていると、本文の最後に
「『一期一会』の消費」とある。
はい。そこをまずひらく。
本文の最後を途中から引用。

「・・・・またしても可能性としてではあるが、
この『無常』の状況が逆にひとびとを動かし、
ひとつひとつのものに深く執着して、
それをたんねんに味はふことへと導くことも考えられる。

さういえば、かつての日本において、
他人とともにものを味わうことに精神的な意味を見いだし、
『一期一会』といふ金言を生んだ時代は乱世であり、
言葉の本来の意味において『無常』の時代であった。
俗に『末期の眼』はものを美しく見せるといふが、
それは必ずしも現実の死にのぞむまでもなく、
ものとの触れあひが慌しく過ぎて行くときにもなりたつものであろう。

いはんや、現代は高齢化の時代であり、
現実に老後の時間が延びるとともに、
ひとびとが『余生』の時間を深く味はひ、
それをいつくしむ時間も延びることになった。

運命の偶然と環境の流動を痛切に感じる時間のなかで、
ひとびとは孤独な自己の姿を見つめなほす機会を増やし、
それと同時に、他人とともに満足を味はふ、
幸福な自己の姿を確認する機会をも求めるはずなのである。」

うん。本が届いたのだけれど、
私は、この最後しか読まないかもしれないなあ。
う~ん。
「『一期一会』といふ金言を生んだ時代は乱世であり、
言葉の本来の意味において『無常』の時代であった。」

はい。その時代の京都を、また読んでいきたいので、
山崎正和著「室町記」を、あらためてひらくことに。
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京都の路地というのは。

2020-09-05 | 京都
山折哲雄著「早朝坐禅」(祥伝社新書・2007年)に
京都のことが出てくる。

「・・・さらに、私が二週間に一度ぐらい足を運んで
お参りするのが、西本願寺だ。岩手県の花巻にある実家が、
浄土真宗西本願寺派の末寺だった関係で、私は学生時代、
京都までやって来て西本願寺の御影堂で得度を受けている。
10日間の研修を受け、最終日には頭を剃って墨染めの衣を着て、
当時の門主さんからおかみそりの儀式を受けた。
その西本願寺に散歩の途中に立ち寄り、本堂の畳に坐って
本尊の阿弥陀如来を仰ぎ見ていると、頭のなかに自分自身の
半生がふっと浮かび上がって来る。・・・・・そのなかに、
いまの生き方を考える上で味わい深い発見があるのだ。」
(p102)

このあとに、小見出しがあって
「京都の本質は、『路地』を歩かないとわからない」。
そこを引用。

「・・京都散歩の味わいは、そういった名所旧跡にだけ
あるわけではない。綾小路通での生活を始めてから
気づいて驚かされたのは、路地のそこかしこにささやかな
祠が祀られ、花が供えられていることだ。京都の路地というのは、
だいたい50メートルから100メートルごとに小さな祠があり、
地蔵や観音像などが祀られている。ただの石がひとつ、
ポンと置かれて祀られているような祠(ほこら)も少なくない。

その祠に、地元の人々が毎日欠かさず花を供えている。
生活のなかに、昔ながらの信仰心が根づいている何よりの証拠だろう。
花だけではない。どの祠も例外なく、きれいに掃き清められ、
水が打たれている。これは本当に感心させられた。

・・・私も、
京都には以前から頻繁に足を運んでいたにもかかわらず、
下京区に住むまでそれに気づかなかった。・・・」(p103)

ちょっと坐禅のことが気になってパラパラとひらいたら、
何のことはない、京都のページに目がいきました。

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太夫の花車。

2020-09-02 | 京都
古本を買うと、注意しなければいけないのは、
安いと、ついつい、あれもこれもと購入してしまう。

淡交社「写真集成 京都百年パノラマ館」(平成4年)。
これが新刊定価が6800円。古本で700円。
百年前の京都の写真が盛りだくさんの255ページ。
うん。あれもこれもの購入品の一冊。

さてっと、本代じゃなくて、本題に入ります。
山崎正和著「室町記」に

「・・・・下京の町衆たちが帰依する六角堂・頂法寺の
僧侶であった。豪商や振興武士の支持を受けた池坊の生け花は、
宗教的な供花をたちまち人間の眼の娯しみに変えて行った。
いろいろな法要の機会に池坊専慶が花を飾ると、
ひとびとはこれを見るために争って押しかけたという。・・
この頃、多様な生け花が互いに交流していたことが明らかであろう。」
(単行本p62)

ここに、「ひとびとはこれを見るために争って押しかけた」
という雰囲気は、イマイチ、ピントこなかったのでした。
はい。そこで「写真集成京都百年パノラマ館」。
ぱらぱらとひらいていると、「鴨川をどり」の写真のあとに
「島原の太夫道中 島原大門」の写真があるのでした。
道中では、大きな和傘を後ろから、花魁にかざして
道の両脇の人達が見守る中をすすみます。
気になったのは「島原大門」での写真でした。
『太夫と禿(かむろ、遊女に仕えた少女)と花車』と
写真下に解説が一行ありました。
着飾った太夫のすぐまえに花車があり、
太夫の身長の倍くらいの立花が大きく活けてあり、
それを木の車で6人の少女が綱をこれから引いてゆく場面です。
写真で見れば、太夫より、先導する花車の立花が鮮やかです。

うん。思う浮かぶのは、うちらの地元の山車。
地区によりさまざまなのですが、山車をひっぱる前に
金棒さんという小・中学生女子が二人歩く場合があったり、
竹竿に提灯を飾って前を持ち歩く場合だったり、
竹竿に紙の花飾りをひろげて、先頭を歩いていたり、
地区によっていろいろです・・・・。

その道中の写真では、太夫と大きな傘を中央に、
道の両脇を、明治のころですからほぼ和服の人たちが
大勢で見ているのでした。ああこれかもしれないなあ、
「ひとびとはこれを見るために争って押しかけた」場面。

太夫の道中では、残念ながら花車は写っていませんでした。

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「一期一会」の孤独。

2020-09-01 | 京都
山崎正和著「室町記」(昭和49年)に
花を語った箇所があり印象に残る。

「茶の湯と生け花は今日も日本の伝統を代表する芸能と
見なされているが、いうまでもなく、このふたつはともに、
室町時代の『社交文化』の産物であった。

・・・にちに八代将軍・義政の時代になると、
力を失った将軍にとって、社交ということが
ほとんど唯一の政治手段になったといっても過言ではない。
そうしたサロンの『もてなしの芸術』として生れた茶と花で
あるが、このふたつがいずれも、社会の多様な階層から
同時多発的に生み出されたということは面白い。・・・」

はい。ここでは生け花をとりあげて引用してみます。

「そのなかでもっとも画期的な人物は池坊専慶であろうが、
彼は下京の町衆たちが帰依する六角堂・頂法寺の僧侶であった。
豪商や新興武士の支持を受けた池坊の生け花は、
宗教的な供花をたちまち人間の眼の娯しみに変えて行った。
いろいろな法要の機会に専慶が花を飾ると、
ひとびとはこれを見るために争って押しかけたという。
やがて彼は宮中や青蓮院門跡にも招かれて美技を見せる・・・

精神的な意味を含みながら、しかも感覚的に華麗な花というものは、
貴族と民衆のこうした交流のなかからこそ生れるにふさわしい
芸術だったといえる。
それにしても、茶の湯はもちろん、生け花というものも、
芸術としてははなはだ風変りな存在である。それはどちらも
『もてなし』の芸術であって、一回のもてなしが終ればあとには
形を残さない宿命を持っている。・・・・・

・・・・・生け花の場合も花と花器だけが作品ではなくて、
それが置かれた部屋の全体が客を楽しまさなければならない。
枯れやすい花はそれだけ多く主人の配慮を要求するわけで、
むしろその心づくしが客の眼を喜ばせることになる。

中心になるのはあくまでも茶や花を楽しむ人間の関係であって、
それは移ろいやすく、指さしてどこにあるとも示し得ない
ような対象である。そういうものに形式をあたえて芸術化しようと
いうのは奇妙な努力であるが、考えて見ればいかにも室町時代に
似つかわしい努力であったかもしれない。

都会化と社会の動乱のなかで人間は深く孤独を知り、
それを裏返した熱心さで、一瞬の社交を重く、手応えのあるもの
にしようとした。『一期一会』というのは後世の言葉であるが、
日本人は長くこの孤独を忘れることがなかったようである。」
(第五章・乱世が生んだ趣味の構造・もてなしの芸術化(一))

うん。忘れられない箇所となりました。
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うつりやすし。

2020-08-29 | 京都
法然の言葉に
『凡夫の心は、物にしたがいてうつりやすし、
たとえば猿猴(えんこう)の枝につたふがごとし。
まことに散乱して、動じやすく、一心にしづまりがたし』
(p357「増谷文雄著作集⑨」)

これは、「法然と親鸞」と題した文にあるのですが、
ここに、サルが出てくる。
そういえば、長谷川等伯や海北友松の襖絵に
手長猿が描かれている場面があるのを思い浮かべます。

どちらも、サルが木の枝にぶら下がっている図です。
うん。『まことに散乱し、動じやすく、一心にしづまりがたし』
の象徴としての猿が描かれているのなら、
これまた、襖絵の見方がかわってきます。

そういえば、
竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社・昭和40年)に
長谷川等伯の襖絵を見ている場面が登場するのでした。

「ここにすわると、思わず息を呑む。・・・・
芸術家の精神はここに老松と猿の姿を借りてあらわれ、
われわれを日常には思いもかけない次元へと誘う。」
(p202)

そのあとに、こんな箇所があるのでした。

「この絵は、静中に動あり動中に静ありというふうで、
猿の一瞬の動作と・・・永遠を暗示するものとが対比している。
・・・何も描いてない部分は、
無限に広くしかも充実した空間であるが・・・それは・・
むしろ見る者が喚起されて自分の精神をもって満たす場所である。
一匹の猿と一本の枝によって、魔術が行われている。」
(p204)


はい。法然の言葉から、襖絵の猿へ、
移り木(移り気)な連想の引用でした。


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生け花と立花。

2020-08-28 | 京都
山崎正和著「室町記」の第五章にある
「茶と花(一)(二)」を読むと、生け花への、見方がかわります。

ということで、取り出したのは
吉村華泉『龍生派の生花と立華』(講談社・1982)。
私の妻の亡くなった母が、この派を学んでいて、
当然のようにこの本が本棚にありました。
はじめてひらきます。
最初に「龍生派の生花と立華」という4頁の文があり、
そこを引用してみます。

「・・・・野山に咲く季節の花々をとってきて、
その美しさをすこしでも長く保存させるために、
花瓶やありあわせの器に水をいれ、それに挿して
屋内の飾りとする、また、花の美しさを歌に詠じ、
その花を髪に飾るということなど、われわれの祖先は
感覚的に自然を生活のなかにとけこませる術にたくみ
だったといえるのです。

こうした風土のところに、中国から仏教が渡来してくると、
生活のなかの素朴な飾りとしての花々は、宗教的な儀式としての
『供華(くげ)』という形式のなかに、別の用途を見出すことに
なったのです。

この『供華』には、花盤(けばん)に花を短く盛る方法、
花弁を一枚ずつにして器に盛り、これを手で散らす散花(さんげ)の方法、
そして花瓶に花を立てて供える方法などがありましたが、このなかで
最後の方法が、のちに『立花(たてばな)』という、
いけばなの最初の様式に連繋していくことになるのです。

『供華』は仏にたてまつる花として、純粋に宗教的、
儀式的な意味をもったものでしたが、年月を経るにつれて、
それらの意味あいはあいまいになり、むしろ人々の鑑賞に供する
『座敷飾り』としての傾向が強くなります。
三代将軍足利義満が好んで催した『七夕御法楽供養の花会』などは、
そのような事実をうらがきしています。

そうした傾向はさらにすすんで、室町中期には
花そのものの美しさを観賞するだけでなしに、
そこに立てられた花、つまり、いけばなの作品が
問題にされるようになります。そこでは、明らかに、
自然の花の美しさを愛でるというよりも、
その花を挿し、立て、いけるといった、人間の行為のほうに
興味の中心が移ってきたことを示しているのです。

ここに、いわゆる『立花(たてばな)』の様式が確立するのですが、
これを育てたのが、八代将軍義政の同朋衆や禁裏の雑掌たちであり、
応仁の乱以後はそれが京都頂法寺の僧侶たちにうけ継がれていく
ことになるのです。

当時の『立花』は、自然描写的なものが多く、素朴なものだった
ようですが、安土桃山時代になると、時代の好みを反映して、
豪華雄大な規模のものが立てられるようになり、この時代の末に、
名人池坊専好が、ひきつづき江戸時代初期には二代池坊専好が
輩出するにおよんで、立花は『立華(りっか)』としての
様式を確立し、その最盛期を迎えることになるのです。

立華様式が確立した頃、村田珠光、千利休といった人々に
よって、簡素な精神を旨とする『侘茶』がはじめられ、
同時に茶席の花として『茶花』が創成されました。
これはいわゆる抛入花(なげいればな)といわれるもので、
花器も花材もすべて簡素なものを用いました。

一方、立華様式は次第に定形化し、自由な創意を失い、
形式的な技法の形骸を伝承するだけのものになっていくのです。

このような立華のあり方に疑問をもち、また反発していく立場から、
さきの『抛入花』が注目されはじめ、やがてそれは変革していく
時代感覚のなかで、新しい様式のいけばなとして考えられるように
なるのですが、これが『生花(せいか)』とよばれる、
より庶民的ないけばなだったのです。

立華様式にくらべて形式ばらず、手軽にいけれる点、
時代の好みに合致した点など、人々の興味はこの新しい
いけばな様式に強く集まって急速な流行をみせることになり、
生花は立華に代わって江戸時代を代表するいけばな様式へ
と発展していったのです。・・・・」


はい。はじまりの箇所だけを引用してみました。
へ~。65歳を過ぎると、こういうことへも興味がもてる。
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つかれた私達の目を。

2020-08-24 | 京都
「新版 私の古寺巡礼・京都 (下)」(淡交社)。
これが古本で届く。207円+送料300円=507円。
出品者は「日々感謝」とあります。

あれ。井上章一氏が書いており読んでみる。
「法界寺」をとりあげているのですが、
脱線したように語る『庭』の考察が印象に残る。
ので、その箇所を引用。

「けっきょく、京都の寺へやってくる観光客は、
美術や建築をもとめていないのだ。・・それよりは、
美しい庭にいやされたくて、でかけているのだと思う。

じじつ、京都で観光にわく寺々は、
たいてい庭園を売り物にしている。
庭の樹々や石、そして池がおりなすたくみな空間演出で、
拝観者をあつめている。ふだんの日常生活をわすれ、
いっときなりとも庭園美に酔いしれる。たいていの人が、
京都の寺にもとめているのは、けっきょくそれだろう。
  ・・・・・・・・
その意味で、多くの観光寺院は、庭園を舞台とする
テーマパークじみたものになっている。

余談だが、そういう寺院経営でもうかっている寺を、
京都では肉の山、肉山(にくさん)とよぶ。
身入りのないところは、肉がなくて骨ばかり、
それで骨山(こつざん)と称される。・・・・・・


どうして、あそこまで庭にこだわるのか。
仏教のどこに、ああいう美しさをもとめる、
宗教的な必然性があるのか。そのことを、
いぶかしく感じるのは、私だけでもないだろう。
仮説じみたことを、あえて書く。

京都の美しい庭は、その多くが室町時代以後に、
かたちづくられた。そして、戦国時代末期から、
どんどん洗練されていくようになる。

おそらく、それらは
室町将軍家や有力大名のありかたとも、つうじあっていただろう。
殺害をつとめとする。明日は、戦場で死ぬかもしれない。
そんな武人たちを、もてなしなぐさめる。美しい庭の数々は、
そういうもとめにおうじて、いとなまれたのだろう。

仏教が、庭の美をはぐくんだのではない。
戦士たちの殺伐とした心が、美しい庭を欲望した。
そうしてできた庭園の管理に、あとから僧侶たちが
なったのだと思う。そして、その同じものが、
現代文明につかれた私達の目を、今いやしているのである。」
(p184~186)


はい。あらためて、
上田篤著「庭と日本人」(新潮新書・2008年)を
本棚から取り出してみたくなる。それにしても、
殺伐とした心が、京都の庭を欲しているのだ。
そう、繰り返して、つぶやいてみる。

追記。
さてっと、ここまで書いたのを読み直していたら、
「もうひとつの『風塵抄』・司馬遼太郎・福島靖夫往復手紙」
(中央公論新社)の箇所が思い浮かぶのでした。

1994(平成6)年3月24日の司馬さんからの手紙。

「それにしても朝鮮半島人の誇り高さは、
人類のなかでもめずらしいのではないでしょうか。
『朝鮮人(韓国人)は、なぜああも誇り高いのでしょう』
と、井上靖氏にきいたことがあります。
『風濤』のなかの朝鮮漢文の激越さについての話題のときです。
『誇るべき何物ももたないために誇り高いのでしょう』
おだやかなはずの井上靖氏にしては、
息をのむようなきついことばでした。

われわれはニューヨークを歩いていても、パリにいても、
日本文化があるからごく自然にふるまうことができます。
もし世阿弥ももたず、光悦、光琳をもたず、西鶴をもたず、
桂離宮をもたず、姫路城をもたず、源氏物語をもたず
法隆寺をもたず幕藩体制史をもたなかったとしたら、
われわれはオチオチ世界を歩けないでしょう。・・・

それにしても、韓国・朝鮮史の空虚さは、悲惨ですね、
六百年、朱子学の一価値しかなかったための空虚だったと思います。
個々にはすぐれた人が多いのに、いまでも、社会的な発言となると、
反日一本ヤリです。朱子学一価値時代とかわりがないように思います。
・・・・・」(p277~278)


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カボチャに向き合う。

2020-08-21 | 京都
古本で300円だったので買ってあった
求龍堂の澤木政輝著「京の美 都の響」(2011年)は
「京都芸大百三十年の歩み」と脇に書かれています。

うん。人物を絵画写真とともに紹介しているので、
パラパラと事典でもひらくような楽しみがあります。
はい。せっかく買ってあったので紹介(笑)。

草間彌生さんの箇所が、わたしに印象に残る。

「長野県松本市の旧家に生まれた草間は、
幼いころに強迫性障害を患い、物体の周りにオーラが見えたり、
動植物の話す言葉が聞えるという幻覚・幻聴を体験しながら、
次々に浮かぶイメージを記録するようにして絵を描いてきた。
 ・・・・・・
1948(昭和23)年、19歳で美術工芸学校4年に編入学。
絵画科に籍を置いたが、伝統的な日本画教育に嫌気が差し、
毎日部屋にこもって、カボチャを描いて過ごした。
カボチャは子供のころから造形的に魅せられた素材。
この時以来現在まで、草間の重要なモチーフの一つとなっている。
草間は京都で過ごした2年間を、『カボチャに向き合う日々』と
振り返っている。

やがてニューヨークに渡り、空腹と寒さに耐えながら
制作の日々を重ねた草間は、1957(昭和34)年10月、
十番街のブラタ画廊で開いた個展で衝撃的なデビューを果たす。
巨大なキャンバスに、無限に続くモノクロームの網を描いた作品は、
爆発的な反響を巻き起こした。世界が草間を発見した瞬間である。
・・・・」(p287~288)
はい。こんなふうに紹介されてゆきます。
うん。そんな方だったのですね。知らなかった。
隣のページには南瓜1994年ベネッセアートサイト直島での、
渚にどかんとカボチャのオブジェの写真。海岸と島々と空が、
背景で彩をそえています。

なんだか御伽噺の世界が、現代に展開されてゆくような、
「ちょっとそこまで」とニューヨークへ出かけたような。
はい。300円で垣間見る、美術の世界(笑)。
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