和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

通読しなくてもよいから。

2017-01-29 | 道しるべ
學燈社「対談・古典の再発見」に載っていた
庄野潤三・吉田精一の対談を読んで、
興味を持ち、
庄野潤三著「前途」(講談社・昭和42年)を注文。
日記風の書き方をした本でした。

伊東静雄先生が登場する箇所をパラパラとめくる。

まずは、こんな箇所がありました。

「午後、伊東先生のお家へ行く。
久しぶりに二畳の書斎で話をする。
先生は、近頃いろいろ憂鬱なことが重って、
神経衰弱気味だったが、昨夜、宿直の時に
お酒を持って行って、ひとりで弁当のお菜と
一緒に飲み、気持よく酔って、ぐっすり眠り、
それで大分よくなったそうだ。やはり、
お酒を飲まなかったのがいけなかったと云われる。
折よく人からくれたかしわですき焼きをして、
配給のお酒を一緒に飲む。
『全部飲んだらいけませんで』と云われる。
晩、先生も元気が出て来て、文学の話が弾んだ。
これからの新しい文学は、自分の心理や何やらを
ほじくったりするものでなく、また身辺小説でもなく、
ひとつの大きな歴史に人が出交すそのさまを、
くどくどしたことは書かずにそのまま述べてゆく
(源平盛衰記、平家物語などのように)、
そんなのがいいと云われた。
理屈や心理のかげ、自己探求などちっともない、
壮大な筆致が必要だということ。

話は国文学の読みかたに移る。
和文脈の中心となるものは、
先ず源氏物語、伊勢物語、枕草子、徒然草、
和漢朗詠集の五つ、日本の美感はこれに尽されている。
このうち源氏物語が大本であるが、全部読むのは面倒ゆえ、
好きなところを引っぱり出して読めばいい。
特に大切なのは枕草子と徒然草で、
これは是非とも読む必要がある。
・・・・・・・・・・
自分が書きたいと思うことがあると、
昔の人はそれをどう書いてあるか、すぐ見てみる。
こうなると、文学の本道に入って来たと云ってよい。
これが文学に史感――歴史のみかたの史観でなくて、
歴史の感覚と書く方の史感ですが――の生れる道なり。
史感のない文学は駄目。
たとえば菊のことを思えば、すぐ菊のところを
枕草子でも徒然草でもいい、引っぱり出して読んでみる。
通読しなくてよいから、気の向いたとき、
すぐ出して、そこだけを読む。
こんな本を(と伊東先生はそのあたりに積んであった
本の中から受験生用の薄い『奥の細道』を取り上げ)、
注釈書のようなものでも、小さいのでも、何でもいいから
見つけ次第、買って来ておく。そして、どんどん読み散らす。
知っていればいるだけ得という風な態度で読めばいいのです。
枕草子は、その書きぶりが賢そうで嫌いだったけれども、
書いてあることは非常に大切。日本の美感の源泉で、
これを知っているといないとでは大へんな違いとなる。
・・・
今度の先生の詩集の題は、『春のいそぎ』に決められたそうだ。
伴林光平の、
  たが宿の春のいそぎかすみ売の重荷に添へし梅の一枝
による。
春のいそぎとは、春の支度のこと。
自分の歌も誰かの宿の春のいそぎに添える梅の一枝で
あるという意味。・・」(p117~119)
コメント
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