和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

茶室の掛物。

2020-03-06 | 京都
芳賀幸四郎著「禅語の茶掛 一行物」(淡交社)を
古本で300円にて、以前買ってあったのを本棚から
とりだしてくる。
単純な興味で買ってあったのですが、
後で読もうと思って、そのままでした。

こんかいあらためて取り出してくる(笑)。
さてっと、後ろをめくると、
昭和48年初版で、もっているのは
昭和62年16版とあります。
うん。売れ行きがよかったのですね。
禅語一行物の掛物の写真入り。
うん。ビジュアル的にも、解説的にも、
興味深いものです。
好評で、続編があと3冊ほど出たようです。
さてっと、紹介。最初に「禅語一行物について」と
簡潔な紹介文がうれしい。

「江戸時代になって墨蹟尊重の風がすこぶる高揚し、
ことに大徳寺派禅僧の筆になる一行物が茶室の掛物
の主流をなすようになったことは、かくれもない事実である。
 ・・・・大きな原因として、つぎの事情が考えられる。
すなわち江戸時代になって茶の湯がいよいよ普及し、
茶会が頻繁に開催されるようになり、
それだけに掛物に対する需要が増加した。
しかし中国伝来の絵画や墨蹟はもともとその数は多くなく、
それにその大部分は将軍家や大名、あるいは豪商らの占有に
帰していたため、それらに代る掛物の出現が強く要求されていた。
そしていわばその代用品として登場してきたのが、
一つは折からの和様趣味にも投じた歌切の類であり、もう
一つが当時の大徳寺派の禅僧の書、わけても一行物なのであった。」
(p11)

はい。11ページの文で、端折るのは
もったいないですが、あと一カ所だけ引用。

「一行物をふくめて墨蹟というものは、
書道については素人ともいうべき禅者・道人が、
書法や筆法などにとらわれず、それらを高く超越した
境涯から、禅機のほとばしるままに自由に筆をふるい、
自己を表現したものである。そのような禅者の書を、
専門の書家の書を鑑識する場合の基準に照らして
評価し、書としての巧拙を論じたとしたら、
それは墨蹟の鑑賞としては邪道といわねばならない。

禅者の書とても、書法・筆法にかない、芸術的にみて
美であることは望ましいことではあるが、それは
墨蹟の場合、第二義、第三義の条件にすぎない。

墨蹟の鑑賞においては、それを生みだした筆者の
道力のたくましさと、禅機の豊かさとを深く味わい、
筆者の気魄と風格とに触れ、自らの未熟さを反省し、
心を洗うことを第一義とすべきものである。」
(p15)

はい。私が興味を示した箇所のみ、
引用させていただきました。

コメント
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