和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

梅棹忠夫のアフガニスタン。

2019-12-22 | 京都
梅棹忠夫著作集第4巻(中央公論)。
ここにある著者による
「第四巻へのまえがき」には、

「1955年、
わたしは京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊の
一員として、パキスタンおよびアフガニスタンにおもむいた。

西ヒンズークシ山中にすむモゴール族とよばれる人びとの
村にすみこんで、調査研究をおこなった。そののち、
アフガニスタン領トルキスタンをとおって、首都カーブルに
かえった。カーブルからは、ふたりのアメリカ人とともに、
一台の車でパキスタンおよびインドを横断して、
カルカッタまで旅行した。

アフガニスタンのモゴール族の調査は・・・・・
その戦後における最初のエクスペディションの経験は、
わたしにまったくあたらしい視界をもたらした。わたしは
イスラーム文明およびインド文明に
いやおうなしに目をひらかされた。
わたしが比較文明論などという、とほうもない
領域に足をふみいれることになったのも、
この旅行がきっかけである。・・・」

梅棹忠夫年譜によると
1955(昭和30)年。梅棹忠夫35歳のとき、
5月にこの学術探検隊出発、11月11日帰国。
とあります。
この第4巻に「モゴール族探検記」があります。
ちなみに、この本は岩波新書として手軽に手に入ります。

さてっと『モゴール族探検記』のなかに、
「祇園祭・ハモの切りおとし」の幻影が語られる箇所がある。

第六章「作戦会議」の小見出し「わたしは日本人になった」
というなかにありました。以下に引用。

「・・そのころは、わたしは日本食をたべたい
などとはすこしもおもわなかった。・・・・・・
しかしこんどはどうしたのだろうか。
わたしはあきらかに日本食をこいしがっている。
・・・・このあいだ、祇園祭もすんだなとおもったとたんから、
ハモの切りおとしの幻影がちらついているのだ。
それから、じゅんさいのおつゆ。

・・・・10年まえ、あのころわたしはまだ二十四、五歳だった。
わたしはまだ、完全な日本人にはなりきっていなかったのだ。
・・・・状況しだいでは、わたしは世界じゅうの
どこの国の人間にもなることができただろうし、
コスモポリタンにさえ、なれたかもしれない。
その後10年のあいだに、
わたしはすっかり日本人になったのだ。
わたしの趣味、わたしの価値体系は、いまや
日本的なものに固定してしまっているのに気がついた。
わたしはこの10年間に、日本文化を身につけたのだ。」


はい。梅棹忠夫35歳。
それでは、ここに、
秋山十三子さんの短文「はも」の
ほぼ全文を引用しておきます(笑)。

「けんらんとした鉾が四条通りにたち並び、
祇園ばやしが夕風に流れだすと、
わたしはじっとしていられない。

17日の前夜が宵山で、京都中のひとが浮き足立って、
鉾と山をまぐりそぞろ歩く、赤い長刀鉾のおもちゃを
だきしめ、人波のなかをはぐれまいと、小走りに歩いた
幼い日の耳に残る鉦の音。涼しげに、
  『コンコンチキチン、コン、チキチン』

祇園祭のごちそうは、はも・はも・はも。
はも一色である。お膳の上には切り落とし、
はも焼き、はもの子と落ちこの炊きあわせ、
はもまき、はもずし、はものお吸物。はもきゅう等々。

はもの切り落としというのは、
骨切りしたはもの切り身を、
熱湯のなかへ落とし、湯通ししたもの。
白いぼたんの花弁が、重なって
こぼれたような風情がある。
つめたい防風か、穂紫蘇を添え、
二杯酢か、わさびじょうゆで、梅肉を
つけるのが好きやというひともある。
京都では普通ただおとしとだけいう。

はも焼きにつかうはもは、おとしのより大きい。
丈を半分に切り、金串を四本うつ。
地焼きをこんがりとしてから、
かけじょうゆを二度かけて、香ばしく焼きあげる。
これに添えるのは、薄紅のはじかみか、
青とうがらしの小ぶりなもの。

このはも焼きを細かく切って、
芯にして巻いた卵のだしまきが、はもまき。
うまきよりあっさりして、夏祭りでは
子どもが一番好物である。

  ・・・・・・・・

京の夏は、しっかりと暑い。
暑いけれど気持ちよい。

鉾は夏空にシャンとそびえている。
汗くさい気配など、みじんもみせないように、
かいがいしく表に打水し、
お祭りのちょうちんに灯を入れるのである。」
(p170~171・「京のおばんざい」光村推古書院)

うん。これだけで終わってもいいのですが、
もどって、
「梅棹忠夫著作集」第4巻の最後には
コメント1・コメント2が載っておりました。
そのコメント2は板垣雄三氏の
「『モゴール族探検記』の語るもの」という題の文。
そのはじまりは

「光のあて方や見る角度をほんのすこし変えるだけで、
宝石からは違った輝きがほとばしり出る。それと同じように、
時や環境の移り変わりにつれて新しい魅力が湧きだし、
人々に味読の驚きを与えつづけるのが、名著だとすれば、
梅棹忠夫『モゴール族探検記』は、まさしく名著の名にあたいする
作品だと言ってよい。もし仮に、梅棹のあまたの著作の中から、
どうしてもただ一点だけを選ばなければならぬ羽目になったら、
私はあれこれ思いめぐらしたあげく、結局は、やはり
『モゴール族探検記』が好きだ、と言うだろう。」(p621)

はい。こう言い切る板垣雄三氏の文から、
以下の箇所を、最後に引用しておきます。

「『モゴール族探検記』は人間探求の書であった。」(p627)

「・・・・冷静な観察眼のほうは、
外部のものになどなかなか窺い知ることのできぬ
『しがらみ』でがんじがらめになったいる上に、
利害と打算と反目とだまし合いで動いている
人々を相手とする以上、いやが上にも用心深くなる。
非友好的態度の奥に潜む人間的親切は
見きわめなければならないが、たえずどこかで光っている
敵意に満ちた冷たい目を意識しないわけにはいかない。

ユーラシアの歴史を貫く残忍さ、酷薄さをおもえば、
なおさらだ。闇から突然現れた一行の中の兵士に
ひっぱたかれて道案内させられる男もあれば、
結婚式の翌晩に夜警にかり出される花婿もある。
だから、ジャポニの探検者も、いったん買い取った
腕輪の値上げ要求は断固はねつけるし、
休み休みで日当かせぎをねらう馬方たちには
月夜の行軍を強いるのだ。村民大衆には、点が辛い。
 ・・・・・・
もちろん、孤島のような村落にも、すぐれた人々がいる。
神学論争で梅棹をうち負かし、広い世界に聴き耳を立てて
いるハジの息子ゾバイル『僧正』が、そうだ。
山崎さんの仕事を脇で見ていてローマ字を覚えて
しまったアブドル・ラーマンの長男も、そうだ。
 ・・・・・・・
きびしい部族間の対抗や軋轢をかいくぐり、
みずからの未来をきりひらいていくのは、
彼ら自身でなければならないのである。
梅棹は、局外者としての自分をつよく自覚している。
住民たちの複雑な心理関係の渦の中で、
政府がわの人間と通じ、それに守られている以上、
ごくごく初歩的なこともまだ分からないでいるはずだ。
パシトゥーンのインテリ、通訳のアーマッド・アリだって、
梅棹のつかみ得た内幕を教わる始末である。
非情なまでの距離感を維持しつつ認識にはげむ、
そこからこそ逆に人間的共感が強まったということを、
『探検記』は証言している。」(p628~629)










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