古本の「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)が
200円であったので、買ってしまう(笑)。
全集でも読めるのですが、単行本は
カバーの「都錦織壁掛『山鉾巡行図』」が
明るくってきれいです。
さてっと、
「梅棹忠夫著作集」第17巻には、単行本の
「梅棹忠夫の京都案内」「京都の精神」「日本三都論」。
この3冊がまとめられた巻です。
その「第17巻へのまえがき」から引用。
「・・わたし自身は京都にうまれ、京都にそだった。
幼稚園から大学院までの全教育課程を京都でうけた。
わが家の先祖は、もともと近江湖北の出身であるが、
初代は文政年間の生まれで、天保年間に京都にきた
ものとおもわれる。わたしが四代目で、すでに京都に
150年間すんでいたことになる。京都にはもっとふるい
家がいくらでもあった・・・自慢にならない。しかし、
それなりに都市生活にまつわるさまざまな伝承が
うけつがれてきた。そのような民俗学的背景のもとに、
わたしの知識と意識は形成されているのである。・・」
ここに四代目とある。
そういえば、「梅棹忠夫の京都案内」に
「完全な、京都の人間になろおもたら、
三代かかるといわれております。」
(p216~227「梅棹忠夫の京都案内」角川選書)
という箇所があるのでした。
それはそうと、「京ことば」について、
梅棹さんは、こう指摘されております。
「町衆文化の系譜をひく京都市民の言語生活について、
いくらかその特徴のようなものをさぐってみましょう。
第一にあげるべき特徴のひとつは、
京都のひとはたいへんおしゃべりだということでしょう。
京都の人たちは、男性も女性も、
じつによくおしゃべりをします。
ほうっておいたら、いつまででも、
ながれるような調子でしゃべっています。
このことは、日本文化のなかでは、
あまり一般的とはいえない特徴です。
日本全体をみますと、やはり
武家の文化的伝統がつよいものですから、
多弁というのはむしろいやしめられていたようです。
おしゃべりというのは、京都のように、
武家の文化が完全に欠落した都市において
発達した文化的特徴であるといえるでしょう。
京都では、じょうずにしゃべれるということは、
あきらかにひとつの美徳になっています。
口べたのひと、訥弁のひと、寡黙のひとは、
『どこぞおかしいのとちがうやろか』
ということになります。
不言実行のひとなどというのは、
いつ不意討をくわせられるかわからない
油断のならぬ人物として、警戒されるだけです。
京都では、とにかくつねに流麗で
豊饒な会話をたのしむことが肝心です。
ここで、
じょうずにしゃべるとはどういうことか、それが問題です。
京都の場合、じょうずなしゃべりかたというのは、
論理的に相手を説得するとか、ことばたくみに同調させるとか、
そういう実用的効果を問題にしているのではありません。
むしろ、内容よりは外面的な美学を優先します。
会話は、なめらかでないといけません。
ことばにつまったり、とつとつとしゃべるのではだめです。
よどみなく、リズミカルで、十分に抑揚をつけて
はなさなければなりません。」
これを引用していると、わたしなど
『油断のならぬ人物』の典型です(笑)。
さてこのあとに、祇園の舞妓さんの
ゆっくりとした京ことばは、お座敷における
お客をよろこばせるために特別に発達をとげた
ものであると、指摘しております。
まだ続きます。
こんなことは、他では聞けないかもしれないので
まだまだ引用していきます(笑)。
「京都市民の言語生活における特徴のひとつとして、
外交辞令の発達ということをあげなければならないでしょう。
京都においては、つきあいは、すべて外交なんです。
むこう三軒両どなりといえども、けっして
なれなれしいことばをつかってはいけません。
それらの人たちも、無限にとおい距離にあるひとと
おもってつきあわなくてはなりません。
ことばづかいはどこまでもていねいでなければならないのです。」
ながいので、すこしカットして、
ここは引用しておきたいという箇所を以下に、
「ていねいなことばづかいは、
ふつうは身分の上下関係とむすびつけて
かんがえられることがおおいのですが、
京都の場合はそうではないようです。
身分の上下に関係なく、
市民のあいだの対等のつきあいにおいて、
ひじょうにていねいなことばづかいをします。
もともと京都の市民は、むかしからの
町衆社会における対等性を前提にしていますから、
身分の上下関係なんか、あるわけがないのです。
ことばづかいのぞんざいなひとは、
市民社会における基本的なルールをしらぬひと、
つまり行儀しらずということになって、
うとんじられることになります。
ことばづかいのていねいさは、
日常の家庭生活においてもみられます。
親子、兄弟、夫婦のあいだでも、
よそのひととはなしているのとおなじくらい、
ていねいなことばではなしていることもまれではありません。
よそのひとがきいていたら、とてもひとつの家庭内の
会話とは信じられないようなことばづかいをしている
ことがおおいのです。
もうひとつ、京都市民の言語生活の特徴をあげますと、
ステロというのでしょうか、紋きり型というのでしょうか、
会話において型のきまった表現が
ひじょうに発達していることです。・・・・」
はい。全文引用したくなりますが(笑)、
このくらいにとどめておきます。
これは『京ことばと京文化』という題で
ありました。
(p168~176「梅棹忠夫の京都案内」角川選書より)
この「梅棹忠夫の京都案内」の「まえがき」で
最初のページに、こうあります。
「『京都案内』のたぐいは、数百年のむかしから、
それこそ数かぎりもなく出版されている。
そのうえにさらに一冊をくわえるわけだが、
この本はその風味において、他のものとは
ひとあじちがうものになったのではないかとおもっている。」
はい。一回では、この風味を味読できず、
読み返すのが、たのしみな一冊です(笑)。
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