和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

町衆の系譜をひく市民感覚。

2019-12-21 | 京都
今年は、エイヤアと
梅棹忠夫著作全集を古本で購入しました。
よし。読むぞ。と意気込んだのですが、
けっきょく数冊どまり。
もう12月も21日(笑)。

エエ~イ。こういうときは、
しなかったことを語るよりも、
ちょっと知りえたことを語りましょう(笑)。

そういえば、梅棹忠夫著作集第22巻の巻末コメントに
小山修三氏の文「ゲゼルシャフトへの志向」があった。

その小山氏の文の最終頁に、

「梅棹は学問遍歴以外の個人史を語らない。
だから私的な生活についてはほとんど
うかがい知ることができないのである。
しかし、人間の精神形成にとって、
幼・少年期の家族や友人との社会生活の
ありかたは青年期以後の外からの刺激を
受け取るためのプレコンディションとして
重要だと思う。

わたしは、・・・志向の源として、
梅棹が西陣の商家の出であることが
大きな要因となっていると思う。
 ・・・・・・・・
マスコミへのデビュー作が日本人の
笑いの意味についてであったことを思いだす。
愛嬌を擁護する学者などあまりきいたことがない。
この町衆の系譜をひく市民感覚が
つちかわれたのは幼少期以外にないと思う。

梅棹が日本を代表する思想家の一人として
大きな位置を占めることになった現在、
個人史を欠落したままおくわけにはいかないだろう。

いつか誰かが手をつけるはずだ。
梅棹の哲学はよくわかるのだが、
それでも私的な部分はまずその人自身に
語ってもらいたいと思うのはわたしだけだろうか。」
(p572)
 
こう小山氏は文章を結んでおりました。
うん。『いつか誰かが手をつけるはずだ』
というのが、気になった一年でした(笑)。

さてっと、これに関する資料ということなら、
ちょこっとですが、すこし引用できそうです。
『いつか誰かが』の手助けになるように。

たとえば、梅棹忠夫著「山をたのしむ」(山と渓谷社)
には、小山修三氏との対談があり、そこに

梅棹】・・・わたしも、子どもの時から、
その洗礼を受けています。うちの親父が
修験道の先達(せんだち)でした。
先達というのは山ゆきのリーダーで、
二、三派があるけれど、親父は聖護院派でした。
うちの玄関を入ったところの上に、
先達の菅笠と錫杖が飾ってあった。
親父は大峰山へせっせと行っていました。

小山】お父さんから、山登りの話を聞いていましたか。

梅棹】聞いています。
誰もそうは思ってないだろうけれど、
わたしにはそういう『血統』があるな。

小山】ああ、そうか、
山伏の養分も入っているのか(笑)。

梅棹】中学校時代は、日本アルプスには行きません、
という方針でした。それで近畿の山ばっかりせっせと歩いた。
大峰山は、中学四年生の時に仲間と縦走した。
大峰山の奥駆けというのがありますが、
南の熊野から入って、大峰山脈にとりついて、
縦走して、最後が山上ケ岳。そこから、
洞川(どろがわ)へ降りる。
奥駆けを一回やると、先達の位が上がる。
わたしらは高見山から大台ケ原山、
それから大峰山系にとりついた。
たいしたもんやろ、大先達や。

小山】何考えてるんだろう、この中学生は(笑)。

梅棹】親父に言ってたんです、
わたしの方が偉いんやぞって(笑)。

小山】困ったガキだな(笑)。

梅棹】ほんまにそうや。よう行けたもんやと思う。

(p317~318)

さてっと、
当ブログは、今日から数日数回にわけて、
年末マイブーム特集、『梅棹忠夫の京都』。
ということでいきます(笑)。









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