和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「安房郡の関東大震災」余話⑩

2024-08-09 | 安房
とりあえず手にとった各町村史をひらくと、
震災とか関東大震災の関するページは、だいたい10ページほどの
スペースがさかれております。
はい。つまりそこだけならば、簡単に拾い読みできる。
そうすると、いろいろ比較ができちゃう。

やはり、正確に「安房震災誌」や「大正大震災の回顧と其の復興」からの
引用があったり、吉村昭の「関東大震災」からの引用があったりしてます。
それに、各町村の会報からの震災回想の引用が独自色を出しておりました。

すこしそれらを引用。
「三芳村史」(昭和59年9月20日発行)編纂委員長は君塚文雄。
「富浦町史」(昭和63年11月3日発行)監修君塚文雄。

この二冊には、どちらも「安房震災誌」に載った図
「安房郡震災被害状況図(安房郡役所調査)」の図絵が載っておりました。
ちなみに、この図絵は、安房震災誌に掲載した際に、
各町村名が手書きであったの対して、その名を活字に代えてありました。
手書きを活字書きにしたので、すっきりして各町村名を読み易く、
分かりやすくなっております。

はい。よくあることなのですが、こういう時に、
間違って活字化されることがあります。
三芳村史では、絵図の村名に3つ明らかな間違いがありました。
富浦町史では、ひとつの町名が消えいて、各村の境界線がなかったり、
なんだか、こういうわかりやすい絵図の中での間違いがあるのでした。

おそらく、文章の校訂には、何回も注意をはらうかわりに、
こういう、絵図に関する箇所は、簡単で見直ししなかったのかもしれない。

この村史と町史とどちらも、君塚氏の名前があり、その方針からか、
どちらにも、「安房震災誌」からの被害状況図が載っておりました。
そのたびに、絵図はわかりやすく、一目で様子がすんなり飲みこめる
絵図になっています。ですが、その担当の方の不注意が両方にあった。

こういう絵図のちょっとした間違いを思うにつけ、
そこで思い浮かぶのは、徒然草の第百九段でした。

『 過(あやま)ちは易き所に成りて、必ず仕(つかまつ)る事に候 』

はい。第百九段を、島内裕子訳で紹介しておわります。

「木登りの名人と言われた男が、人を指図して、高い木に登らせて、
 梢を切らせた。非常に危なく見えるうちは何も言わずに、
 下りる時に、軒の高さくらいになってから、
 『 怪我をしないように。気をつけて下りよ 』と言葉をかけたので、
 私が、『 これくらいの高さになったら、飛び下りたとしても、
    無事に下りられるでしょうに。なぜ、そんなふうに言うのですか 』
 と申したところ、

 『 そのことでございます。目もくらむような高さにまで登って、
   枝も細くて危ない時には、自分自身が恐れていますので、
  私からは何も申しません。怪我というもは、
  もう安心だと思う所になって、必ず起こすものでございます。 』
 と言った。・・・・・・」
    ( p217~218 島内裕子校訂・訳「徒然草」ちくま学芸文庫 )


校正というのも、まさかの所でミスしやすそうです。



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「安房郡の関東大震災」余話⑨

2024-08-07 | 安房
安房の和田町にある「震災記念碑」は
関東大震災の翌年大正13年9月1日に
「南三原村民一同建之」と碑文の裏面に刻まれております。
そこには、直下型地震をもろにうけた記述が記されており、

   松田 海発 下三原 沼区 最激震
   白渚 中三原 一部被稍軽微

と、区ごとの激震までもわけて記してあります。
そのあとに 『 海岸一帯隆起四尺餘 』とはありますが、
津波が来たとは、碑文のどこにも記されてはおりません。


興味深いことには、戦後の昭和26年11月に建てられた記念碑
「 南三原千歳村耕地整理記念碑 」には、そのはじまりに
関東大震災に触れての記述がみられるのですが、こうあります。

「・・・・当時本県ニアツテハ安房郡ノ被害ガ最モ激甚デ
 ワガ南三原村ハ海岸ニテ二米ノ隆起ヲ見為メニ海辺ノ様相ハ
 一変シ津波ノ襲来ヲ案ジテ村民悉ク避難スル状態デアツタ・・ 」

以下には、被害状況が記されているのですが、
さて、今の私たちが、これを読むときに気をつけなければいけないのは、
実際に津浪が来たのではなくて、地震が起ると津波が来ると案じて
「 村民悉ク避難スル状態デアッタ 」ということなのでした。

この碑文にも、決して津浪が来たとは記されていないのですが、
それでも「 津波の襲来を案じて 」というのは事実なのでしょう。

その津波への恐怖を味わったことが、戦後の昭和26年の記述となって
この碑文にあらわれたということは、十分にわかるのでした。

わかることと、実際に津浪が来たこととは別なのですが、
この恐怖心が時に、津浪の有無にとってかわることもあります。

はい。そんなことを思い浮かべておりました。
もしも、震災の一年後に建立された『震災記念碑』を知らずに、
この昭和26年の『記念碑』だけを読んだとすると、
私みたいなオッチョコチョイは、津浪の恐怖だけが印象づけられます。

これを経験していた世代は、津波の事実よりも、
なんだか津浪への恐怖心が充満していたことがわかるような気がします。

「安房郡の関東大震災」は、一部に津浪はありましたが、
それよりも、正確を期すならば、それは直下型の地震であった。
ということであります。

その直下型の地震をもろに味わったのが他ならない安房郡だった。
ということを、今回の講座で指摘できればと思っております。



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講座参考本⑯

2024-08-05 | 安房
「大正大震災の回顧と其の復興」上下巻(昭和8年・千葉県罹災救護会)

さきに、「安房震災誌」を紹介しましたが、
「安房震災誌」は、大正12年4月1日に郡制度廃止が決定し
郡長および郡役所は残務処理のために大正15年7月1日まで残置された
のでした。その際、安房郡長・大橋高四郎は震災の翌年に
「安房震災誌」の編纂を白鳥健氏に一任して、おりました。
その編纂が完成したのが大正15年3月30日発行の「安房震災誌」でした。
編纂兼発行者は安房郡役所となっております。
思えば、郡役所の残置までに間に合わせたのでした。

さて、それをふまえて、
「大正大震災の回顧と其の復興」上下巻をひらくならば、

この編者・安田亀一氏の「編纂を終へて」に語られておりました。

「本縣で震災誌編纂のことは震災直後に定った方針であるらしい。
 が、種々の支障から今日まで之を完成してゐなかった。

 既に県の書類なども保存期間が切れて廃棄処分をしたものもあり、
 又やがてその期間に達するものもあって、時の経つと共に、
 だんだん資料が散逸し、折角貴重な文献が喪はれて行く虞があるので、
 誰も早く記録を取纏めて置き度いとは思ひつつも知らず知らず
 時期を逸した態であった。

 尤もその間に、編纂委員が出来て、材料の取纏めに取りかかてゐたが
 中絶し、その後に又、専門に擔当する嘱託(高月頼章氏)が入って
 起稿し始めたが、編史の進行難やら一身上の都合やらで、
 折角同氏が予定した計画をも実現するに至らずして辞された。

 ・・・・・・・結局私にお鉢が廻って来た。・・・・
 それは昭和6年の9月、秋風の立ち初むる頃であった。

 ・・・・急務は先づ材料の蒐集整頓であると思った。
 これより先、市町村から材料を蒐集すべく高月氏が
 事項を定めて照会を発して呉れてあったから、
 徐々その回答も纏って来るし、岡課長その他が
 安房、君津、市原の三郡で震災地の町村吏員を集めて、
 記録の所在や当時の事情の聴取ことから、
 町村からの提出材料も漸次増加して来た。

 だが肝腎の県の記録がなかなか纏らない。
 そこで私は、先づ大震災当時応急活動に従事した人々で、
 現に在庁又は在葉する人々を日赤支部楼上へ集まって頂き、
 私の予定したプランに依って座談会を開いた。
 この座談会から私は多くものを得た。・・・・   」

 ( p978~989 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻・昭和8年8月発行 )


はい。このようにして、編纂がならずに完成もしなかった本が外に
あることを知ることがあると側聞いたします。
まずは、これを現在、紐解けることを
そして、参考本として紹介できるのを喜びたいと思います。
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発火於薬品全焼

2024-08-04 | 地震
安房郡の南三原村に、関東大震災から一年後
『 震災記念碑 』が建立されております。

そこに
    縣立農學校舎 発火於薬品全焼

という文字が記されております。
震災の年に、安房農学校の校舎が完成し、
学校授業に必要な、さまざまな備品が完備したことでしょう。
当時の農学校の塚越赳夫先生の記録があります。
そこから火事の場面を引用。

「ふと後を振り返ったら二階建ての寄宿舎は北側へ引っ繰り返っていた。
 その直ぐ隣の理科室は半潰れになっていた。とその中に火が見えるでは
 ないか。・・・斜めに傾いた窓から白煙濛々と立ち上がり、
 理科室の内部はみるみる内に真赤な火焔が一杯ではないか。

 ・・・火の廻りが非常に早かった事である。それは火元である
 薬品戸棚と壁一重隣りの実験室の天井がペンキ塗りであった 
 ためであろう。折からの烈風にあふられて半潰れの校舎は
 忽ち火に嘗められた・・   」

薬品火災については、吉村昭氏の指摘が印象深いので
以下には、その箇所を引用しておわります。

吉村昭氏は、関東大震災後に出た『震災予防調査会報告』を
語っておりました。こうあります。

「『震災予防調査会報告』は、関東大震災後、当時の一流の学者たちが、
 それぞれの専門分野で震災について徹底的な調査研究を一年半に
 わたって推し進め、まとめた報告書である。」

「私のような素人ですらそれを入手し書架におさめてある」

さて、火災についてです。

「報告書でこの火災について取組んだのは、理学博士中村浩二であった。
 まず発火原因について、中村博士は、薬品の落下によるものが44個所 
 もあると指摘している。
 学校、試験所、研究所、製造所、工場、医院、薬局等にあった
 薬品類が、棚等から落下して発火した。

 ことに学校からの出火が最も多く、
 東京高等工業学校、日本歯科医学専門学校、明治薬学専門学校、
 陸軍士官学校予科理科教室、東京帝国大学医学部等、
 17箇所から出火した。
 中村博士は、発火性の薬品が、震動で棚等から落下せぬように
 工夫することが絶対に必要だ、と強調している。

 昭和53年6月12日、マグニチュード7.4の宮城県沖地震が起った。
 ・・・・・テレビをつけると、東北大学理学部の建物から煙が
 出ているのを眼にした。私は、瞬間的に薬品の落下による
 出火だ、と思った。

 この短文を書くにあたって、東北大学に問い合わせてみると、
 『 地震と東北大学化学教室――宮城県沖地震の被害とその教訓 』
 と題する櫻井英樹氏の論文をFAXで送って下さった。

 それによると、出火原因は薬品の落下で、
 櫻井氏はその落下を防ぐよう工夫することが肝要だ、と記している。

 関東大震災当時よりもはるかに薬品の多くなっている現在、
 東北大学理学部の出火でもあきらかなように、
 中村博士の警告は今でも生きている。・・・」

(p98~99 「吉村昭が伝えたかったこと」文芸春秋平成23年9月臨時増刊号)

それにしても、震災記念碑に、無駄をはぶきながら記したなかに
「発火於薬品全焼」という細部を記したことの慧眼を思います。
こういう細部をおろそかにしない記述が、後世の人への参考になります。



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安政地震

2024-08-02 | 地震
「安房震災誌」の第二章は
「過去の地震と安房」と題して日本に記録されていた
古文書等をひもといている箇所がありました。

ついつい、その箇所は端折って、実際の安房の
関東大震災への記載の方ばかり見ていたのですが、
あらためて、『過去の地震』のページをひらいてみる。
はい。安政の地震についても触れられておりました。
そこを引用。

「安政2年10月2日、江戸大地震。いはゆる
 江戸時代に於ける三大地震中の最後の大地震である。

 時代の新しきだけに、地震の詳細を記したものに乏しくない。
 が、此處にはその概要を挙げやう。

 江戸府内で震害の最も劇烈を極めたのは、
 何といっても地盤の柔弱な地域である。
 即ち深川、本所、下谷、浅草の地であった。

 今名主からの届出の数字を見ると
 深川に868名、本所に385名、下谷に372名、浅草に566名
 の変死者を出してゐる。

 山の手の土地の堅硬な場所には、震害は比較的軽かった。
 同じ下町でも、日本橋、京橋、新橋付近の如きは、
 被害が割合に軽かった。

 それから、地震の直後に府内30余箇所から火事が起こったが、
 当夜は幸にも常よりは風が静かであったので割合に火勢弱く、
 火消人足の少なかったに拘らず、
 暁近き頃までに大方は消し終せたのであった。
 全く鎮火したのは翌三日の午前十時頃であったと伝へる。
 焼失総面積は約14町四方即ち一哩平方であった。

 浅草五重塔の九輪曲り、谷中天王寺の九輪は落下したが、
 塔はどちらも無事であった。

 品川沖の二番台場の建物が潰れて出火があった守衛の会津藩士
 16名即死した。中川沿岸の逆井では、地面裂け、平井灯明寺の
 山門傾き、鳥居倒れ行徳の行徳寺は大破損であった。

 江戸近郊で最も震度の烈しかったと伝へるのは、亀有である。
 此處は田畑が一時に隆起して地面が小高くなると同時に
 附近に反対に沼を生じたといふことである。

 此の地震は、亀有から、亀戸、本所、深川の一帯が
 震源地であったと伝へる。幸に津浪はなかったが、
 それでも東京湾の海水が動揺して、
 深川蛤町、木更津の海岸などには、津浪に類似したものがあった。
 余震も可なりつづいたさうである。
 
 小石川の水戸の屋敷などは、館舎築地など、悉く潰れて、
 藤田東湖、戸田忠太夫等、此の時に震災の厄にかかった。
 
 ・・・・・・・・

 此の地震に、我が安房地方は如何なる被害程度のものであったか、
 特にそれを詳知することが出来ないのは遺憾である。
 が、時代の新しいだけに、地方にはそれを記したものもないとも
 限るまいと思ふ。しかし安房総体としてのものを知ることは、
 今日まではまだ出来ずにゐる。・・・・ 」(p49~52)


はい。引用がつい長くなりました。
こうして残念ながら、残っていない安房の震災記録についても
ふれておられる。何だかその無念さは伝わります(笑)。

 

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家屋転覆

2024-08-01 | 安房
大正13年9月1日。つまり関東大震災から1年後に
『 震災記念碑 』というのが安房郡南三原村に建立されております。
原稿用紙(400字)一枚ほどの漢字が彫られている石碑で、
櫻翁 加瀬駒太郎 撰」とある(撰とは、詩や文を作ること)。

その文中に『 家屋転覆 』とあるのでした。その前には
『 突如地大震 山野鳴動 黄塵濛冥 』とありました。

うん。船が転覆するように、家が転覆したという表現でしょうか。
『 安房震災誌 』の、「家屋其の他の被害」のページをひらくと
各町村からの被害報告が、数値とともに、文として語られております。
そこから、当日の直下地震が、どのように表現されているかを引用。

     稲都村にては初め微弱なる震動を感じて後
     僅か10数秒にして急激なる震動起り、
     続いて襲来せし激烈なる鳴動に、野も山も、
     大地はあたかも波打つが如く忽ち崩壊、亀裂を生じ、
     家屋其の他の建造物はみるみる中に倒潰し、
     砂塵の中に大音響をあげて、壊滅して了った。・・ (p114~115)


     千倉町に於ては、家屋の倒潰と同時に黄塵空を覆ひ
     余震引きもきらず、人をして世の終焉を想はしめた。 (p123)


     千歳村。人々が慌てふためいて、屋外へ飛び出した頃には、
     どの建物もさながら怒濤に弄ばるる木の葉の様であった。
     またたく間に壁は潰れ、柱は挫け、
     濛々土煙は天地を閉ぢこめてしまった。・・(p124~125)


     丸村・・・突発せる震動は次第に烈しく、
     水平動より忽ちにして上下動に凄まじき激震となり、
     俄然、一大震動来り、轟然たる音響と共に
     忽ち大地波打ち、壁はくづれ、屋根は落ち、堀は倒れ、
     ・・・・   (p126)


はい。 『 大地は恰も波打つが如く 』『 忽ち大地波打ち 』
『 どの建物もさながら怒濤に弄ばるる木の葉の様であった 』
こうして、各町村のありさまの文を並べてゆくと、
『 家屋転覆 』という言葉が、直下地震の現実感として浮んできます。

あとは、神社仏閣などの倒壊をあげておきます。

  北條町。 房州で有名な八幡神社の拝殿も、鳥居も
  其處の紀念碑も、惜いかな此の地震で悉く倒潰に会った。(p106)

  館野村。 有名な国分寺は、地震の為めに全潰して了った。(p114)

  那古町。 房州で有名な那古観音は、坂東三十三観音札所の一であるが、
  地震で山崩れの為め堂宇は大破損を来した・・   (p116)

  船形町。 此處の有名な船形観音が、地震の為めに大損害を
  うけたのは惜しいことである。又西行寺も、地震で倒潰した。(p117) 

  白浜村。 明治2年佛人某の設計に成れる野島崎灯台の倒潰した・・
  この灯台は高九丈八尺、海抜十三丈三尺、十七海里を照す、
  房総南端の航路の標識として、又本村の偉観の一つとして
  明治大正を通じて房州名物の一つに数えたのであった。・・(p123)

  千歳村。 本村の真野寺は惜しむべし、全部潰倒に帰した。(p125)

  大山村。房州の名刹高倉山、大山寺、不動尊、仁王門は倒潰し、
  金剛仁王の像を滅裂せるは遺憾の極みである。(p129)


はい。各町村の神社仏閣はほぼ倒潰しておりました。
その数値も記載されているのですが、ここでは省略しました。

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