映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

映画「燃ゆる女の肖像」アデル・エネル&ノエミ・メルラン&セリーヌ・シアマ

2020-12-05 20:10:00 | 映画(フランス映画 )
映画「燃ゆる女の肖像」を映画館で観てきました。

これは傑作だ!
エンディングに向けてのつくり込みはすばらしく心にジーンと残った。


「燃ゆる女の肖像」は18世紀のフランスを舞台にお見合いするための肖像画を依頼された女流画家が孤島に暮らす貴族の令嬢の館で過ごす10日間を描く。女性監督セリーヌ・シアマの映画作りの巧みさに感心した。その他大勢の出演者を除く主要な出演者はすべて女性である。

上野千鶴子先生の推薦文があるので女性映画との触れ込みを感じて一瞬行くのか迷ったけれども思い切って行ってみたら観客の8割が男性だった。フェミニストやLGBT映画的ないやらしさはまったくない。やさしいフランス語で語るので内容は自分にもしっくりくる。

物語は複雑でなく、むしろオーソドックスだ。でも、海や古い館を映し出すカメラアングルと照明設計が見事である。女同士のむずばれない愛を美しく絵画のように描いていてすばらしい。むしろ女性よりも男性が好む映画じゃないかな?


18世紀フランスのブルターニュ地方、ある伯爵夫人(ヴァレリア・ゴリノ)から、若い女性画家マリアンヌ(ノエミ・メルラン)は伯爵令嬢エロイーズ(アデル・エネル)がお見合いするための肖像画を描くことを依頼された。大西洋に浮かぶ孤島に、エロイーズが住む館があった。マリアンヌが小舟でやって来る。

肖像画を描くということは内緒で、散歩のお相手で短期に滞在という口実であった。5日間という約束で夫人は島を離れ、メイドのソフィ(ルアナ・バイラミ)と3人で広いお屋敷に住み、婦人が帰ってくるまでに肖像画を完成させることとなる。


エロイーズは気難しい女性だった。笑顔をみせない状況がつづいたが、時間を経るうちに親しみを感じてくれるようになる。エロイーズの動きを観察しながらこっそり隠れてマリアンヌが肖像画を完成させる。

伯爵夫人が戻ってきて見せる前に、まずはエロイーズ本人に確認してもらおうとする。しかし、自分の身分を明かし、絵を見せるとこれは気に入らないと拒絶される。落胆したマリアンヌはその時点で島を離れようとしたが、エロイーズからもう一度描いてくれといわれ、母親の貴婦人の承諾を経て島に残ることとなる。

今度は肖像画のモデルらしく、エロイーズは協力してくれる。エロイーズは笑顔を見せてくれるようになり、2人はこれまで以上に心が通じ合うようになる。やがて関係が徐々に一線を越えていくようになるのであるが。。。

1.2人の接近
肖像画を描くために島にきたのはマリアンヌがはじめてではなかった。以前は男性画家が来たことがあった。そのとき描いた肖像画には顔がなかった。肖像画を依頼されたマリアンヌには酷な依頼に思われた。修道院にいたエロイーズはこれまで心を許せる人物がいなかったのであろう。2人は徐々に接近を重ねていく。いったんは関係が終わってしまいそうだったが、改めて接近する。


途中まではきわどいシーンを連想させなかった。しかし、2人に性的欲求が生まれる。ノエミ・メルランとアデル・エネルがともにヌードをみせる熱演で2人の衝動を映像にみせてくれる。この映画の照明設計はすばらしく、美しく芸術的に表現する。ここでは令嬢エロイーズが豊潤に生えるワキ毛をみせるシーンがある。このエロさに思わずドキッとしてしまう。アデル・エネルの大胆さに目を奪われる。

2.18世紀の中絶事情
伯爵夫人が島を留守にした後でエロイーズとマリアンヌのお世話をするメイドのソフィが残って3人になる。あるとき、マリアンヌにソフィがいう。「生理が3ヶ月こないの」どうも妊娠してしまったようだ。当然望まぬ妊娠なので、中絶したい。海辺で走ったり、宙づりになったりしたあとで、お産婆さんらしき女性の元に行き中絶の処置をする。まさに18世紀の中絶手術だ。そのときのシーンで中絶するときにソフィの横に赤ちゃんが横たわって一緒に映るショットがある。不思議な気分になる。


3.音楽の使い方の巧みさ
音楽のない映画だ。島に荒々しく打ち寄せる波や風の音以外にあまり多くはないセリフがあるのみだ。これはこれでいい。そう思ったときにマリアンヌがハープシコードの元に行き、音楽を奏でる。音色を聴いていると、無造作に弾いている曲が徐々にヴィヴァルディの「四季」だということがわかる。これでエロイーズがはじめて笑みを浮かべマリアンヌと2人の関係が急激に接近する。


焚き火の粉が舞うなか、祭りに集う地元の女が清らかな歌声が響く。これが2つめの音楽だ。幻想的にマリアンヌとエロイーズを映す美しいシーンである。
結局この2曲と思ったときに最後にあっと驚くシーンをみせる。
さすがにそのときは自分の背筋に電流が走った今年いちばんのエンディングかもしれない。
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映画「パピチャ 未来のランウェイ」リナ・クードリ

2020-11-03 22:29:53 | 映画(フランス映画 )
映画「パピチャ 未来のランウェイ」を映画館で観てきました。


「パピチャ」はアルジェリアで暮らしたことのあるムニア・メドゥール監督が自身の体験も踏まえて製作した映画である。90年代イスラム教国アルジェリアで、政府とイスラムの急進派との争いが激化する中で、女性の服装が制約を受けることに反発をしてファッションショーを開催しようと奔走する女子学生にスポットをあてる。

もともと女性主導の映画でフェミニストが好きそうな印象があった。でも、アルジェリアでのロケということで、往年の名作「望郷」に映るカスバの街並みが急に頭に浮かび今のアルジェの町を見たいという欲求に気がつくと映画館に足を運ぶ。テロ的な場面が予想よりも多く、アルジェの景色はさほど楽しめない。景色を楽しんでいる場合じゃないだろということかも。

考えてみるとイスラム国家はコーランの教義に忠実なわけで、女性進出とは両立がむずかしい。その中でのへそ曲がり女子大生に焦点を当てるわけだから本国で公開されるはずはないだろう。無宗教の日本で日本の女性もみんなよかったねと思わせる映画だ。

1990年代、アルジェリアの首都アルジェ、学生寮で生活する大学生ネジュマ(リナ・クードリ)はファッションデザインが好きで授業中もデッサンを描いている。夜になると同室のワシラ(シリン・ブティラ)と寮を抜け出し、郊外のナイトクラブに行き遊びまくって自作の服も注文を受けている。だが武装した過激派のイスラム主義勢力の台頭によりテロが頻発する首都アルジェでは、ヒジャブの着用を強制するポスターがいたるところに貼られている。それにはネジュマは強く反発していた。


そんな時、ネジュマの仲の良い姉が急進派の女性にいきなり殺されてしまう事件が起きる。ネジュマは落胆するが、なんとか立ち直ろうと、伝統的な衣装布である5m四方のハイクをつかってファッションショーを企画する。黒いヒジャブをかぶった保守的なイスラム教徒の女性の妨害をうけながらも開催に持ち込もうとするのであるが。。。

⒈アルジェリア内戦と宗教の恐ろしさ
そのもののアルジェリア独立戦争のことは知っていても、同時代だったにもかかわらず“暗黒の10年”と呼ばれる90年代のアルジェリア内戦のことはよくわからない。反政府の急進イスラム勢力が台頭して内戦を起こし、相当数のアルジェリア国民が亡くなったという。この映画の中でも、悲劇的結末を迎えた人が多い。宗教は恐ろしい。


⒉イスラム教の女性蔑視
イスラム教の聖典コーランでは女性は男性より劣位にあり、保護される存在だとされる。資力がなければ成立しないが、一夫多妻もありうる。これをもってイスラム教は女性蔑視の宗教とされるが、世のフェミニストはこれをどのように思っているのであろうか?

一夫多妻というのは医療事情のレベルが低いことで、男子を残すために長い歴史を通じて究極の提案だったのであろう。日本だって明治の初期は医療事情が悪く、明治天皇は多数の女官と床をともにして大勢生まれたのにもかかわらず、まともに育った男子は女官柳原愛子が生んだ大正天皇くらいなものだった。発展途上にある国々の医療事情は一昔前の日本レベルの可能性だってある。


この映画でも女性の服装や行動は強制されている。髪を黒いヒジャブで包むことを強要する。コーランでは男女それぞれの立場にそってというその記載は科学が進んでいない時にはある意味合理的な部分もあると思う。今われわれが普通に代数をつかっている数学はファーリズミーによるものでイスラム諸国で生まれているし、本来はもっと現代的になってもいいのに毎回コーラン原理主義に押し戻された可能性もある。

3.ネジュマの恋と矛盾
主人公ネジュマは、理解してくれる若者メディに恋をした。フランスへ行く彼から求婚を受けているシーンがある。もうこの国にいても仕方ないから一緒について行ってくれと言われる。でもネジュマは拒絶する。「自分はこの国が好きだし、知らない国には行きたくない」といってその場を去る。

でも、これって監督矛盾していない??と感じる。だって、アルジェリアはほとんどイスラム教徒である。その教義に沿って生きていくのが自然で逆らうならイスラムを棄てて行くしかないのだ。そもそもネジュマがおかしいし、そのくせ結局監督はアルジェリア逃げ出しているんでしょ。なんかこれって変だと思う。


最後に向けてはこういうシーンが用意されているとは思わなかった。単純に終わらせないところはお見事だ。

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映画「スペシャルズ」ヴァンサン・カッセル

2020-09-16 20:04:50 | 映画(フランス映画 )
映画「スペシャルズ 政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たち」を映画館で観てきました。


自閉症の題名が入っているのが気になり映画館に向かう。ヴァンサン・カッセルは韓国通貨危機の話「国家が破産する日」でIMFの高官を演じていた。「スペシャルズ」は実話に基づき自閉症児も出演しているのでドキュメンタリー的な要素を持つ。一般的な自閉症のイメージでいくと、ここでの自閉症患者はかなり重症である。

自閉症のレベルによっては、通常の義務教育に通えるレベルの子が多い。でも、このレベルだと養護学校でないと対応は無理であろうし、普通のところでは手に負えない子たちばかり扱っているというセリフもある。

ブリュノ(ヴァンサン・カッセル)は、自閉症の子供たちをケアする団体〈正義の声〉を運営している。支援している青年の一人ジョゼフが、電車の非常ベルを鳴らして鉄道警察に取り押さえられたのだ。緊急地域医療センターへと向かうと、重度の症状から6か所の施設に受け入れを断られたヴァランタンという少年の一時外出の介助を頼まれる。完全に心を閉ざしていたヴァランタンは頭突き防止のヘッドギアをつけて、一人で立ち上がることもできない。


会計士から、監査局の調査が入ることになり、不適切な組織だとジャッジされれば、閉鎖を命じられると忠告される。赤字経営で無認可、法律の順守より子供たちの幸せを最優先するブリュノの施設は、役人に叩かれれば山のように埃が出る状態だった。

ブリュノはヴァランタンの介助を、マリク(レダ・カテブ)に相談する。ドロップアウトした若者たちを社会復帰させる団体〈寄港〉を運営するマリクは、教育した青少年をブリュノの施設に派遣していた。マリクは遅刻ばかりでやる気のない新人のディランを、ヴァランタンの介助人に抜擢する。

そんな中、調査員が関係者との面談を始める。まずはジョゼフの母親が、無認可の組織の落ち度を探られるが、彼女はいかにブリュノが親身で熱心かを力説し、「認可なんて関係ない」と言い切るのだった。ジョゼフの勤め先を見つけようと、1万通メールしても断られ続けたブリュノだが、ようやく試しに1週間雇ってくれる洗濯機工場が現れる。だが、それも長くは続かなかった。一方、運動に連れ出されたヴァランタンも、遅れてきたディランの鼻に頭突きをしてしまう。直前まで手を握っていたのにとディランは憤然とする。

調査員は次なるターゲットのマリクに、大半の支援員が無資格だと詰め寄るが、マリクは資格があれば暴れる子を抑えられるのかと鼻で笑う。緊急地域医療センターの医師も、3か月で退院しなければならない患者を無条件で受け入れてくれるのは、ブリュノだけだと証言する。
調査員は称賛の声にも耳を貸さず、無秩序で怪しげな団体だと決めつけるのであるが。。。(作品情報より引用)

症状が重いのはヴァランタンという少年だが、もっともよく出てくるのがジョゼフという青年だ。ようやく引き取ってくれる工場が見つかり、電車に乗って行こうとするが、なかなかたどり着かない。しかも、電車に乗ると非常ボタンを押してしまい、電車を止めてしまう。常習犯で同じことを何度もやる。ようやく工場で働くようになったら、同僚の女性に寄り添って離れない。ある程度寛容の気持ちで見てもらっても工場も嫌気がさすのだ。

1.忙しい主人公ブリュノ
ヴァンサン・カッセルもいろんな役を演じているけど、今回ばかりはかなり疲れたんじゃないだろうか?まさに重症の自閉症患者を取り扱うほど面倒なことはない。

携帯電話はたえず鳴りっぱなし。預かっている子どもが手に負えないほど面倒なことを起こすのに加えて、誰からも見放された子がいるので頼むから引き受けてくれという電話も病院その他からガンガンかかってくる。ブリュノは独身でお見合い的紹介を受けてビシッとスーツで決めて、携帯の電源を切って相手の女性と会う。これも行方をさがしてきた同僚に追われて、話はまとまらないのだ。


2.自閉症
hors normeという仏語題の日本語訳はと調べると「並外れた」である。確かにそうだ。ダスティンホフマンがアカデミー賞を受賞した「レインマン」をはじめとして「自閉症」を扱った映画は意外に多い。でも、ここまでの重症患者は出演していなかった。統合失調症と診断されて薬を飲まされる羽目になったというセリフもある。その診断自体も変だとは思えない。

自分の子どもは、幼稚園にあがるころまで言葉があまりしゃべれなくて広汎性発達障害の疑いがあるといわれた。あたふたして、児童相談所や障がい施設にはずいぶん行ったことがあった。それもあってか、ここで見るのはとびきりハードな自閉症児のように思える。


許認可を受けていないし、無資格者が障がい者を取り扱っているとなるとフランス厚生省当局が監査をするのは職務上当然であろう。営業停止となるのも常識的である。でも主人公が調査員に言う。「どこの施設も、誰も面倒を見切れない重症者ばかりなんだ。いいからそちらで預かってください」と。そう言われても、当局は引き取りようがない。見放されると途方に暮れる子どもたちばかりだから、妥協したということなんだろう。

3.インターナショナルな出演者
ドロップアウトした若者たちを集めた施設を扱っているマリクのところには、アフリカ系、ヴェールをかぶったイスラム系、アジア系と人種のるつぼになっている。


マリク自体イスラム教徒だとしている。エマニュエル・ドットの本で読んだのであるが、最近のフランスは無宗教国家になりつつあり、凶悪なテロ事件を受けてイスラム教徒がフランス国民から相当いやな目に遭っているという。今回のこの映画もそういう影響を受けている感がある。
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映画「ドリーマーズ」ベルナルド・ベルトリッチ

2020-07-18 21:07:58 | 映画(フランス映画 )
映画「ドリーマーズ」は2003年のベルナルド・ベルトリッチ監督作品


暗殺の森「ラストエンペラー」という傑作を残したベルナルド・ベルトリッチが3人の若者をクローズアップし、マーロンブランド主演「ラストタンゴインパリ」ばりに激しい性描写の映画を撮る。アメリカからの映画好きの留学生がパリで双子の姉弟と奇妙な三角関係の同居生活をするという設定である。ジミ・ヘンドリックスのしびれるギターが冴える「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」をタイトルバックに流しながらエッフェル塔を上下にカメラが捉え、気がつくと映画人救済のデモの中にいる若者3人を映す。

その後もジャニス・ジョップリンのパンチのあるボーカルやボブ・デュランの名曲、日本でも流行ったミッシェル・ポルナレフの歌が次々と流れる。2人一緒に裸で寝る近親相姦すれすれの恋人同士のような双子の姉弟のもとにアメリカ人の若者が居候する。若き性の興奮も手伝ってか、行為がだんだんエスカレートするのをベルナルド・ベルトリッチが追いかける。

1968年、パリの街は5月革命の嵐が吹いていた。19歳のアメリカ人留学生マシュー(マイケル・ピット)は、映画遺産の文化施設シネマテークフランセーゼの創立者アンリ・ラングロワが文化相から罷免されたことへの反対デモに出くわす。そして、映画ファンが多数参加するデモの集団の中でイザベル(エヴァ・グリーン)とテオ(ルイ・ガレル)という双生児の姉弟の2人と出会う。3人は意気投合し、マシューは、姉弟の両親がバカンスで留守にするアパルトマンに泊めてもらう。一つのベッドに裸で寝ている姉弟の姿にマシューは戸惑いつつ、3人の奇妙な同居生活が始まる。


若い3人は大好きな映画について語りあう日々を過ごすが、やがて性的な結びつきができていく。3人はアパルトマンにこもりっきりで昼夜の区別がつかない生活を送るようになる。ある夜、家の中に用意したテントの中で、3人は裸で仲良く横になっていた。翌朝、バカンスから戻ってきた姉弟の両親が彼らを見つけるのであるが。。。

1.映画マニアの3人
3人は映画マニアである。生活のすべてが映画のシーンにつながる。映画人の固有名詞にもこだわる。近年の作品だけでなく戦前のマニアックな映画も数多く話題になる。マシューがニコラスレイの特集をすべて見ていたことをテオとイザベルは知っていた。マシューとテオはチャーリー・チャップリンバスター・キートンのどっちが上かという議論をしたり、フレッド・アステアがタップダンスをする映画は何かというクイズを出したりする。

ゴダール映画「はなればなれ」で出演者が9分45秒でルーブル美術館の中を一周するシーンがある。実際にやってみようと3人が9分28秒でルーブルを駆け抜けるのは実に痛快なシーンだ。


2.エヴァグリーンの豊満なバストを囲む男2人
長身で顔立ちも垢抜けているエヴァグリーン演じるイザベルは、あまり似ていない一卵性双生児の弟と裸で一緒に寝ている。それをそっと覗き込んでマシューが驚く。姉が弟に自慰を強要する場面が出てきて徐々に3人の動きがエスカレートする。気がつくと、シャンソンの名曲「ラ・メール」に合わせてイザベルが脱いで全裸になる。そこには大きなピンクの乳輪の形の良いバストが隠されていた。


現在も活躍するエヴァ・グリーンの裸体には思わず興奮してしまう。その後で、古典的映画のある場面に関するクイズの罰ゲームでイザベルとマシューはメイクラブすることになる。その時、テオは目玉焼きを料理しながら同じ部屋にずっといた。行為が終わると、彼女の下半身に血が流れている。見ているこちらは生理中なのかと思ったけど、どうやらイザベルは処女だったのだ。


やがて、3人は部屋の中ではほぼ生まれたままの姿で生活するようになっていくのだ。エヴァグリーンの興奮させられる裸体を映すだけでなく、男性の竿もカメラが捉えていく。なかなかこれはきわどい映画である。


3.毛沢東の崇拝者とポスター
1968年という年は世界中が何かに反発していた。米国ではベトナム戦争への反戦運動、パリでも五月革命でドゴール政権への反発が繰り広げられていた。日本でも学生運動がピークに達して、翌年の東大入試は中止になった。

その頃、中共こと中華人民共和国では文化大革命の名の下、毛沢東が権力奪還しようと資本主義化に寄った政策をとる共産党幹部を毛沢東語録を手に持った紅衛兵を使って糾弾していた。しかし、言論統制もあり、中華人民共和国に関する情報は極めて少なかった。そういう中、時折日本のTVに映る天安門広場の中央に立つ毛沢東はいかにも中国人民のトップという姿を全世界に見せつけていた。自分も幼心にすごい人なんだと思っていた。


文化大革命に関する悪い情報が伝わらず、世界の至る所に毛沢東信者がいたと言ってもいいだろう。イザベルとテオの部屋にも毛沢東のポスターが貼ってある。パリの五月革命に関するネット情報を見ると、パリにも多数毛沢東信者がいたようだ。最後に向けて、デモの中に飛び込んでいくイザベルとテオの姿を映す。なんてバカな奴らだと思ってしまう。


自分は1970年代中頃、高校の倫理社会の授業の中で、思想家の誰かを選んで要旨を授業で発表するという課題があり、迷わず毛沢東を選んだ。ニクソン大統領毛沢東主席が歴史的な対面をしたあと、田中角栄首相主導で日中国交回復が成立した。毛沢東「実践論」、「矛盾論」という著作を残している。内容については今でも共鳴することが多い素晴らしい本である。管理職になってから仕事でもかなり役に立っている。

ただ、劉少奇元国家主席をはじめ文化大革命によって失意の中亡くなった人は多い。しかも、文化大革命は中国の経済発展のスピードを20年以上遅らせた。そういった意味では権力にこだわり結果的に混乱させた毛沢東の罪は重いと言えよう。ベールに包まれまったくわかっていなかった。毛沢東の動きが次々と変わって一番困ったのは日本の左翼系知識人であろう。彼らをを先導させた岩波書店にも問題は多い。

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映画「男と女 人生最良の日々」 ジャン=ルイ・トランティニャン&アヌークエーメ&クロード・ルルーシュ

2020-06-19 08:45:02 | 映画(フランス映画 )
映画「男と女 人生最良の日々」は2019年公開のフランス映画

今回この映画「男と女 人生最良の日々」の存在を知ったあと、あの殺人的美貌を備えたアヌークエーメが現在こんなにも年をとってしまったという顔を見て、これはやめといたほうがいいかと決断する。しかし、レンタルDVDがあるのを知ると、やっぱり怖いもの見たさに思わず見てしまう。

年老いてしまったので2人をめぐる映像はさすがにキレイとは言えない。でも、1966年「男と女」の感動を思いだしながら見ていると、何か自分にも通じるところがあるのに気づく。

結婚できなかった女の子でいつまで経っても心に残る女性っているものだ。本当に年老いてしまった ジャン=ルイ・トランティニャンの姿に、人生の最終場面に差し掛かった時にむかし愛情を寄せた人と会える喜びが感じられる。

設定としては、アンヌを忘れられないジャンルイの息子が彼女を探し出し、ジャンのいる施設を教えてアンヌに声をかけてもらうという設定である。1966年の男と女を知っている人はジャンの息子とアンヌの娘を含めて4人で落ち合っているのは知っている。その海辺の懐かしい映像は何度もこの映画で流れる。正月に見た寅さん映画を連想する部分もあるが、80代半ばをすぎこの撮影に臨む2人は実際に今でも生きている。これにはおそれいったという感じである。

ある海辺の施設で余生を送っている男ジャン・ルイ(ジャン=ルイ・トランティニャン)、かつてはレーシング・ドライバーとして、一世を風靡する注目を集める存在だった。ところが、いまでは徐々に過去の記憶を失い始め、状況は悪化するばかり。そんな父親の姿を心配したジャン・ルイの息子アントワーヌ(アントワーヌ・シレ)は、あることを決意する。それは、ジャン・ルイが長年追い求め、愛し続けてきた女性アンヌを探すことだった。ある日、アンヌの居場所を突き止めたアントワーヌは、アンヌが経営するお店を訪れる。そこにはアンヌの娘と孫娘がいた。ジャン・ルイの近況を説明すると、「もう一度、父と会って欲しい」と申し出る。

後日、アンヌはジャン・ルイのいる施設を訪れ、久しぶりの再会を果たす2人。しかし、相手がアンヌだと気が付かないジャン・ルイは、アンヌへの思いを話し始めるのだった。そこでいかに自分が愛されていたかを知ったアンヌは、ジャン・ルイを連れて思い出の地であるノルマンディーへと車を走らせる。
(作品情報 より引用)

⒈カーレーサーも今は?
女性は必見なんて1966年の男と女を評する人もいる。でも、レースシーンが思いがけずにも多く、女性にはつまらないんじゃないかと想像する。郊外にある子どもたちが通う寄宿舎の最寄り駅で別れた後に、猛スピードで飛ばしてパリの駅で落ち合うなんて女性には感激と思しきシーンもある。でも、この映画がいいという人は自分が長く生きた中では男性の方が多い。

今回はシトロエンCV2という小さな車をアヌークエーメが運転して助手席にジャンルイが座る。ジャンルイは根っからの女好きぶりを発揮して、看護婦に何度も寝ないかといったり、アヌークエーメにもこの施設から一緒に脱出しようという。お茶目といえばお茶目だが、死ぬ前のあがきといった感じだ。

そんなこの映画になぜかイタリアの美人女優モニカ・ベルッチが登場する。相変わらずきれいだけど、何で出てくるのか?これがよくわからない。


⒉パリを疾走するシーン
これには驚いた。まったく先入感なしで見ているだけになおさらである。映画のラストに向かって回想シーンと合わせて登場する。夜明けのパリの街をスピード出して走っているな、凱旋門の周囲を廻っているなという感じで見ていると、そのままレース並みの超高速でシャンゼリゼ通りを走り、コンコルド広場に向かう。何だこれは!!と映像を追う。

もしかして、信号無視じゃないと気付く。スゲエ!と興奮する。パリ高速観光案内といった感じだ。細い道もぶっ飛ばす。いつ交通事故が起きてもおかしくない。これって1976年クロードルルーシュ制作の短編映画ランデヴーが挿入されている。これを知っただけでも価値があった。コンプライアンス社会とはまったく相容れない世界だ。


さすがにもう次作はないだろう。クロードルルーシュもいい年だ。自分の正体を示さずにアヌークエーメ演じるアンヌが旧友ジャンルイの前に現れ、かわす会話の質は高い。いつの日か自分にもこういう時が訪れるのであろうか?
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映画「去年マリエンバートで」 アラン・ルネ&デルフィーヌ・セイリグ

2019-10-30 19:31:28 | 映画(フランス映画 )
映画「去年マリエンバートで」を映画館で観てきました。


1961年の映画である。ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞を受賞している。モノトーン映画だけどスタイリッシュな映像で何これ?という感じで予告編から気になっていた。最初はファッションの広告かと思ったくらいだ。正装に身を包んだ男女が宮殿のような場所に集っている。シャネルのデザインによるファッションに身を包んだ2人が掛け合いの言葉を発する姿は今から58年前の映画と思えぬハイセンスだと思い映画館に向かう。ホテルのバルコニーから映す映像が幾何学的美しさをもつ。


夜が基調の映像と以前あったことありますね?という言葉からデイヴィッドリンチの映画ロスト・ハイウェイのタッチを連想していた。確かにミステリアスな感じはあり、宮殿のようなホテルの中に浮かび上がる映像は美しかった。でも、デイヴィッドリンチ映画的な深みはなく、ロケ地も場所が固定されてしまうので映画の中身はびびっとくるほどいいとは思えなかった。見終わってみて逆に予告編が簡潔にまとまっているという感じを受けた。

バロック風の豪奢で陰鬱な、迷路のようなホテル。夜会服をまとった紳士淑女たちが、演劇やコンサートに無表情に身を沈め、いかさまゲームに興じ、人形のようにワルツを踊り、ナンセンスな会話を繰り返している。そこに、ひとりの男がやってくる。


去年出会い、恋に落ち、そして1年後に駆け落ちする約束をした女(デルフィーヌ・セイリグ)をここから連れ出すために。しかし再会した女は、そのようなことは全く覚えていないと拒絶する。あなたの夢物語でしょうと。まるで、このホテルには過去など、はたまた恋や愛などという概念は存在しないかのように。
彼女は去年の出来事を忘れてしまったのか?忘れたふりをしているのか?それとも、男が嘘をついているのかー?だが、男には確信があるようだが。。。(作品情報より)


ここでの見せ場はあくまでデルフィーヌ・セイリグであろう。ブラックドレスが似合う。夜を映し出すときの光の加減が巧みで、サッシャ・ヴィエルニのカメラもデルフィーヌ・セイリグの美しさを引き立てる。デルフィーヌは「Laisse moi」一人にしてを連発する。パーティ会場にいる男女誰も彼もただ者ではない雰囲気を醸し出す。スローモーションと言うより、出演者の動きにストップをかけたまま映す手法がいい。

仮に1961年の日本に舞台を移したらそのギャップに唖然とするであろう。この映画に映るセンスのいい男女と比較して日本人はまったく垢抜けていなかった。この時代の富裕層がパーティで集う姿を映し出す映画ではミケランジェロ・アントニオー二監督の「夜」をみるとよくわかる。でも映像ではこの映画が上と思える部分も多い。謎めいたままストーリーが進んでいくが、一年前と現在と交互に映していくので頭がこんがらがってしまう。これは二回観た方がいい映画かもしれない。

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映画「パリに見出されたピアニスト」ジュール・ベンシェトリ

2019-10-09 20:24:34 | 映画(フランス映画 )
映画「パリに見出されたピアニスト」


1人の青年が駅の構内にある誰でも使えるアップライトピアノでバッハを弾いている。その演奏を見て才能を見出したパリ国立音楽院の教授が特訓してコンクールに出場させるという話である。ラフマニノフのピアノ協奏曲2番というのは自分の好きな曲、その曲が流れるという理由だけで見た映画はいくつもある。映画「パリに見出されたピアニスト」を観るきっかけである。

主演のピアニストを演じるのは若きジュール・ベンシェトリ「男と女」のジャン=ルイ・トランティニャンを祖父にもつ。英国の名女優クリスティン・スコット・トーマスが出演する映画はいつもながら質が高い。これもそれなりの映画なんだろう?と期待する。でも結果は普通かな。

パリ北駅に「ご自由に演奏を!」そう書かれたピアノがある。一人の青年マチュー・マリンスキー(ジュールベンシェトリ)が華麗にバッハを弾いている。パリ郊外の団地で母親、弟と暮らしている。幼い頃にふとしたきっかけでピアノと出会ったマチューは、裕福ではない家庭で育ったため、正式な音楽教育はうけられない。友人や家族にも内緒で練習していた。

ある日、マチューが駅でピアノを弾いていると、その演奏に足を止めた男が一人いた。パリの名門音楽学校コンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)でディレクターを務めるピエール・ゲイトナー(ランベール・ウィルソン)だった。マチューの才能に強く惹かれたピエールは、声をかけ名刺を渡すが、マチューは逃げるように去ってしまう。その夜、仲間と盗みに入った家でグランドピアノを見つけたマチューは弾きたい衝動を抑えきれず、警察に捕まってしまう。実刑を免れないと言われたマチューに手を差し伸べたのは、ピエールだった。

コンセルヴァトワールでの清掃の公益奉仕を条件に釈放されたマチューは、ピエールからもう一つ条件を言い渡される。それは、女伯爵との異名を持つピアノ教師エリザベス(クリスティン・スコット・トーマス)のレッスンを受けることだった。望まないレッスンに、マチューは反抗的な態度をとる。エリザベスもさじを投げかけたが、ピエールの熱意に動かされてレッスンを続けるのであるが。。。(作品情報 引用)


1.社会の底辺で彷徨う主人公
母子家庭である。小さい弟がいる。ピアノは好きだけどまともな音楽学校に行くような金はない。付き合っている友人は窃盗の常習犯でまともでない。そんな連中と金持ちの自宅に忍び込んで宝飾類をかっ去ろうとする。その家にはピアノがある。仲間が盗んで逃げていくのに、ピアノを弾いて自分の世界に入り込んでしまう。そんなわけで逃げおくれ捕まってしまってブタ箱へ。音楽院の教授が引受人になって公益福祉事業と称した音楽院の清掃作業をやることになる。

最近は日本でも格差社会が問われ、育ちや家庭環境で大きく差がつくことを論じる本が目立ってきた。「ケーキの切れない非行少年たち」という本が最近では興味深かった。その本にもある最悪のパターンに当てはまる育ち方だろう。マチューは絶対音感がある少年である。小さい時に老ピアノストに才能を認められるシーンがある。ディテールがないので つながりがよくわからない。実際にこういったことってありうるか?才能の突然変異ではなかなかそうならないかも?とは思う。

2.黒人のチェリスト
主人公が音楽院でレッスンを受けている時に、黒人の女の子と知り合う。チェリストである。何度も出会っているうちに、彼女から食事しようと誘われるが、その店に入ろうとしてドレスコードで引っかかる。待合せなのに入れない。それでもチャンスは訪れる。2人で中華料理へ行く。そうして2人の距離は接近する。こういう白人と黒人との恋愛という場面が珍しくなくなってきた。

3.コンクール出る前に
ピエールは、マチューをコンクールで上位に入賞させる夢を持ち鍛える。練習はきびしい。マチューの手に痛みが走り、医者に診てもらったらけんしょう炎であることがわかる。3週間は手を動かすなと。コンクールまであと一ヶ月である。しかも、恋人のアンナとはちょっとしたことでケンカする。ピエールの妻はお互い恥をかかないようにコンクールには出ないほうがいいという。一気にやる気をなくす。学校側は万一マチュが出ないことまで想定して、別の人間に練習させている。

映画の筋を盛り上げるために障害をいくつも用意する。ギリギリセーフの状況がつくりたいようだが、ちょっとうっとうしいかな。


4.ラフマニノフのピアノ協奏曲2番
大好きな曲である。かなり多くの映画で使われているが、最も有名なのはデイヴィッドリーン監督映画「逢びき」であろう。有名な第一楽章の主題が2人が出会う駅を機関車が全速力で滑走するスタートの場面で流れる。各場面では三楽章それぞれを全体的にならして、美しいバックミュージックとして流れる。あとはマリリンモンローの「7年目の浮気」もあるが、ラフマニノフの伝記映画をみたときにはこの曲の比較的出番が少ないと感じた。映画「シャイン」ではラフマニノフのピアノ協奏曲3番がキーポイントの曲となる。いずれも難曲である。

この映画を見ていて、改めて和音演奏の難易度が高いことと感じる。
ラフマニノフ自体はものすごく大きな手をしていたらしい。




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フランス映画「ヨシワラ」早川雪洲&田中路子

2019-08-10 06:48:11 | 映画(フランス映画 )


フランス映画「ヨシワラ」を映画館で観てきました。

こんな映画があるなんて知りませんでした。。
1937年フランス公開の映画で、恵比寿GCで古いフランス映画特集の一本として上映。「ヨシワラ」とはもちろん今もソープ街として残る吉原遊郭のことである。早川雪洲と田中路子以外は、出演者はほぼフランス人だけだ。実家の没落でやむなく吉原に身売りせざるを得なかった女とロシア将校との哀しい愛の物語である。


1933年にドイツではヒトラーが政権を握り、1936年にはベルリンで国家の威信をかけたオリンピックが開催され絶頂期だ。翌1937年にはパリで万博が開催されている。ただ、労働者のストライキもあり、必ずしもうまくいっていないようだ。1933年に日本は国際連盟を脱退、1936年に日独防共協定が締結されている。フランスと日本の関係はいいようには思えない。日独合作で早川雪洲も出演する「新しき土」が1937年に公開されている。どういう背景で日本を舞台とするこの映画が製作されたのであろうか。

まず吉原についてフランス語で解説する画面が映る。貧しい家庭の出身者や家が没落して遊郭に売られた者たちがいるところだとする。
明治維新まもないころ、大名だった父親が高利貸しに引っ掛かり破産して切腹する。娘のコハナ(田中路子)は吉原に身売りせざるを得ない。コハナに思いを寄せる車夫のイサム(早川雪洲)は人力車で彼女を吉原まで運び、吉原大門をくぐり娼館に送り出す。コハナはもちろん慣れない。そのころ帝政ロシアの軍艦が寄港する。兵士たちは、吉原で一夜を過ごそうと大はしゃぎである。ロシア将校ポレノフ(ピエール・リチャード=ウィルム)は兵士たちの監督を命じられて同行する。そこでコハナとの運命の出会いをする。

このあと2人の恋愛に元使用人の早川雪洲がからむストーリーが続くのであるが、機密書類の保管をめぐってコハナに嫌疑がもたれるということはわかっても、ちぐはぐで詳細はよくわからない。エロチックできわどいシーンはない。

吉原の大門を開けると、別世界が広がる。日本家屋風の建物が連なっている。格子のある障子とかよく作れたなあ。漢字文字のそれらしい感じの看板もあり、とりあえず日本風のセットにはなっている。娼館のやり手ババアも娼婦もフランス人である。ちょんまげをしているフランス人使用人がいる。日本語のフレーズはしゃべる言葉に出てこない。音楽も欧州風で、オリエンタルなムードは一切ない。奇妙な感じである。


早川雪洲と田中路子いずれもフランス語を話す。早川雪洲はハリウッド俳優だと思ったが、器用に欧州の言葉もこなす。田中路子は細い眉毛が妖気じみている。ここではみんなはゲイシャと呼んでいる。将校にもたれかかる姿は色っぽいが、キスシーンはない。ギターの音色がする三味線を弾きながら、オペラ歌手らしい美声を聞かせる。外人の来訪にあわせて、娼館ではフランス人やり手ババアの指導で一斉にあいさつの練習をしている。アメリカ人には「ハウ・ドゥ・ドゥ」フランス人には「ボン・ソワール」とあいさつの練習をするのがご愛嬌で笑える。

ヨシワラ


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映画「アマンダと僕」

2019-07-03 07:56:28 | 映画(フランス映画 )
映画「アマンダと僕」を映画館で観てきました。


突如のテロに姉が巻き込まれ、24歳の青年が姉の子供を7歳の子供を引き取ることになるという話である。いかにもフランス映画らしく映すパリの美しい背景のもと映画は展開する。主人公ダヴィッドは繰り返し自転車でパリの街中を走りまくる。父と姉弟の父子家庭で育った仲の良い姉が亡くなったという悲痛にくれる暇もなく、姪の面倒をみざるを得ない現実に向かう主人公を映し出している。

身内の不幸で子供を引きとるという設定はときおりみられる。最近では同じく姪を引きとる「ギフテッド」、甥を引きとる「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という名作がある。ある意味その二作にインスパイア―されたと思う部分も多い。「ギフテッド」と同じく姪を引きとる。母親と親権をめぐって争うが、ここでの母親はしばらく会っていない異国に住むアマンドにとっては祖母だ。「マンチェスター・バイ・ザ・シー」の主人公はすぐカッとなりキレやすい便利屋だが、ここでは職業が同じだけど性格は温厚だ。登場人物の「組み合わせ」というか「順列」としてストーリーはうまくつくれるものだ。

夏の日差し溢れるパリ。便利屋業として働く青年ダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト)は、パリにやってきた美しい女性レナ(ステイシー・マーティン)と出会い、恋に落ちる。穏やかで幸せな生活を送っていたが突然の悲劇で大切な姉(オフェリア・コルブ)が亡くなり、ダヴィッドは悲しみに暮れる。そして彼は、身寄りがなくひとりぼっちになってしまった姪アマンダ(イゾール・ミュルトリエ)の世話を引き受けることになる。


親代わりのように接しようとするが、まだ若いダヴィッドには荷が重く、戸惑いを隠せない。アマンダも、母親を失ったことをなかなか受け入れられずにいる。互いに不器用で、その姿は見ていてもどかしく、しかし愛おしい。悲しみは消えないが、それでも必死に逞しく生きようとするアマンダと共に過ごすことで、ダヴィッドは次第に自分を取り戻していく。(作品情報より)

1.ダヴィッドの葛藤
ダヴィッド本人が職業は樹木の「枝切り」だという場面もある。建物賃貸管理のことも含めて何でもやる24歳の若き便利屋だ。姉とは仲がいい。もちろん姪アマンダもおじさんを信頼している。遊びに出た姉が突如のテロに遭遇して亡くなる。たいへんなことだが、姉はシングルマザーで、父は亡くなっている。叔母はいるが実母は2人の子供と別れてロンドンに住んでいる。そうなると、自分が面倒みるしかない。その現実に直面して驚く。仲良くなりそうだったレナもテロ被害を受け、故郷に帰ってしまう。次から次へと落ちていくのである。

しかし、静かに涙は流すが、大暴れをしたりわめいたりはしない。そういう気質なんだろう。アマンダはおじさんといるのが心地よいという感じだ。次第に心が移っていく。



2.ロンドンでのアマンダ

姉が生きているときに、ウィンブルドンテニスのチケットが入手でき、姉弟とアマンダと行く約束をしていた。アマンダとダヴィッドはロンドンのテムズ川(と思われる)のほとりを2人それぞれの自転車で並走している。お前の面倒は少なくとも18歳までは見なきゃいけないといっている。大好きなおじさんと一緒にいれてアマンダは喜ぶ。そして、ウィンブルドンに向かう。実写との組み合わせであろうが、このシーンもいい。


好きな選手が一方的にやられ「エルビスは建物を出た。」すなわち「もう終わりだ」といいつつ涙を流すアマンダの姿が見どころだ。映画のスタートあとにアマンダが姉からこの言葉を教えられてエルビスプレスリーの小粋なロックンロール「Don't Be Cruel」とともに母娘楽しそうに踊るシーンがある。ウィンブルドンのシーンにかぶさり最初のダンスシーンが生きてくる。これこそ伏線そのもの。
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映画「気狂いピエロ」ゴダール&ジャン・ポール・デルモンド

2019-06-29 06:01:18 | 映画(フランス映画 )

気狂いピエロ
ジャン=ポール・ベルモンド,アンナ・カリーナ


映画「気狂いピエロ」はゴダール監督が1965年に撮ったヌーベルバーグの代表作といわれている作品だ。

パリで優雅な生活を送っている男が、昔の恋人に5年ぶりに偶然再会、彼女の兄を捜しに2人で南仏に向かうロードムービーである。流れるのはストーリーという感じではない。アマチュア映画集団が作った細切れ作品のようなドタバタさを感じる。


映像コンテのデパートのように細かいカット割りで数々のパフォーマンスを映す。途中でジャン・ポール・デルモンドが観客に語り掛けたりもしてしまう。カラフルな色彩設計は視覚を刺激する。さすがにこの当時の日本映画とは肌合いが違う。どちらかというと、カフェバーなどでBGM的に大きな画面の映像で流しておくような作品のような気もする。

フェルディナン(ベルモンド)は、金持ちの妻との生活に退屈し、逃げ出したい衝動に駆られていた。そんなある夜、夫婦がパーティに出かけるため、幼い娘のベビーシッターがやって来る。彼女はなんと、かつての恋人マリアンヌ(カリーナ)だった。パーティを抜け出し、1人で帰宅したフェルディナンは、彼女を車で送り、そのまま一夜を共にする。翌朝目覚めると、彼女の部屋に、首にハサミを突き立てられた男の死体が。驚く彼とは裏腹に、平然と朝食を作り歌うマリアンヌ。


フェルディナンは、わけは後で話すという彼女と一緒に、着の身着のままでパリを後にし、マリアンヌの兄がいる南仏へ向かう。お金のない2人は、ガソリン代を踏み倒したり、物語を語ってチップをもらったり、車を盗んだり。はては海岸の一軒家で、ロビンソー・クルーゾーよろしく自給自足生活。フェルディナンは大満足だったが、マリアンヌは欲求不満を募らせ街に飛び出す。そこで出会った小男(カルービ)がまたもハサミで殺され、マリアンヌは姿を消す。(作品情報より)


数々の小道具が映像のアクセントになって観る我々を楽しませる。いきなり映すのは、妻と一緒に暮らす金持ちの悪趣味のような部屋とバスルームに入るジャン・ポール・デルモンドである。そのあと、パーティでは薄い乳輪の裸の女を囲むブルジョア男とわけも分からないセリフを話す映画監督が出てくる。雰囲気はゴージャスである。でも翌朝異変が起き、2人は車に乗って出ていく。無一文で飛び出した後、車を盗んだり、ガソリンスタンドで給油して逃げたりあまり行儀良くない。それでも、ここに映る華奢なアルファロメオのような60年代半ばのフランスの雰囲気が心地よく伝わる。


格言のような言葉が映画の段落の後に発せられる。「絵も映画も見る側が勝手に解釈するものだ」「観光客は現代の奴隷」なんて言葉が印象的。当時、ベトナム戦争が激しくなっていたころである。反戦映画ではないが、ときおり現地ドキュメンタリー映像をまぜている。爆撃でベトコンが110名がなくなった話に対して、それぞれに人生があったはずなのにその一言で終えてしまうのはさみしいなんてセリフもある。日傘をかぶったベトナム女性に変装したアンナ・カリーナがかわいい。
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映画「告発小説、その結末」 ロマン・ポランスキー&エマニュエル・セニエ

2019-02-13 09:04:23 | 映画(フランス映画 )
映画「告発小説、その結末」は2017年のフランス映画である。


ロマン・ポランスキー監督の新作である。2011年日本公開の「ゴーストライター」の不安に満ち溢れた映像には魅せられた。これはその年のキネマ旬報外国映画ベストテンの1位である。「ゴーストライター」に比較すると、ひっそり公開されてあっという間に上映終了した「告発小説、その結末」であるが、個人的には映画終了まで不安心理に追われるサイコスリラー的映像に引き付けられた。

美貌のゴーストライターがベストセラー女流作家に近づいてくる。人付き合いの悪い作家がめずらしく心を許して付き合うが、次から次へと作家の周辺に悪いことが起きる。「シェイプ・オブ・ウォーター」でアカデミー賞作曲賞を受賞したアレクサンドラ・デスプラの不安を掻き立てる音楽でいやなムードを増長させる。美貌のエヴァ・グリーンのストーカーのような存在はその昔の「何がジェーンに起ったか?」でのベティデイヴィスの怪演を思わず連想してしまう。


心を病んで自殺した母親との生活を綴った私小説がベストセラーとなった後、スランプに陥っているデルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)の前に、ある日、熱狂的なファンだと称する聡明で美しい女性エル(エヴァ・グリーン)が現れる。差出人不明の脅迫状にも苦しめられるデルフィーヌは、献身的に支えてくれて、本音で語り合えるエルに信頼を寄せていく。まもなくふたりは共同生活を始めるが、時折ヒステリックに豹変するエルは、不可解な言動でデルフィーヌを翻弄する。はたしてエルは何者なのか? なぜデルフィーヌに接近してきたのか? やがてエルの身の上話に衝撃を受けたデルフィーヌは、彼女の壮絶な人生を小説にしようと決意するが。。。(作品情報より)


最初にサイン会で読者の要望に応じるデルフィーヌは気分にすぐれず、サイン会を中座してしまうくらいむしろ人嫌い。それなのに愛読者だと言って近づいて来た謎の女エルと親しくなる。彼女は向かいのアパルトマンに住んでいるゴーストライターだという。夫とは死に別れたらしい。デルフィーヌの部屋に出入りするようになった後で、家主から追い出しを食らったとエルは同居をお願いする。そうすると、エルの行動はエスカレートする。PCのパスワードを巧みに聞き出し、デルフィーヌのクライアントや大切な友人たちにまで、頼みごとを断るメールを勝手に送りつけてしまうのだ。

1.エルの怖さ
第三者の他人がある家庭に入ってきて錯乱させるというのが、怖いストーカー映画のパターンである。「ゆりかごを揺らす手」の家政婦や「エスター」の同居する女の子などから感じる同居人の怖さは格別である。いずれも大暴れだ。この映画ではエヴァ・グリーン演じるエルが怖さを炸裂させる。007のボンドガールを演じたくらいの美貌を持っているだけに、悪女的ギャップに我々がびくつく。いったいどうなっていくのであろうかと?

主人公デルフィーヌを執筆に向かわせるため、すべての雑音を遮断するという名目を言ってはいる。映像に映る他の悪さはエルがやったとは特定できないが、すべてはエルと付き合うようになってからの出来事だ。デルフィーヌに来たメールに対して相手に失礼な返事を書いたり、フェイスブックのアカウントを勝手につくって炎上させたり現代的な悪さも見せる。


ここでのエヴァ・グリーンは過去に出演した作品とはちがった美貌を見せる。どぎつい化粧がやわらいでいる。インテリ的要素を見せるためか?主人公デルフィーヌが自分をとりまく困った出来事に当惑するのと対照に毅然とした顔を見せ、悪さを働く。いったいどういう結末にもっていくのか?そういう謎づくりがこの映画の面白さだ。

2.ロマン・ポランスキー組
英国首相も登場し政治的な要素も強かった「ゴーストライター」の題材とは全く違うんだけど、同一の撮影者や音楽構成者による不安を観客に感じさせる音と映像が類似している。個人的には好きだが、この映画って「ゴーストライター」の二番煎じ的な部分もある。それでも不朽の名作「チャイナタウン」「ローズマリーの赤ちゃん」といった一時代前の作品から映画に携わっているロマン・ポランスキーならでの観客誘導術は見事である。ここでは小技にこだわるヒッチコックというより観客を突然驚かせて楽しむブライアン・デ・パルマへの類似を感じる。


ここでは自分の妻のエマニュエル・セニエを起用する。もう大ベテランだ。映画「ナイトクローラー」で脚本家出身のダン・ギルロイ監督が自分の妻のレネ・ルッソをヒロイン的に使っていた。年とっても色っぽい女だが、さすがにババア。場末のスナックのママのようだ。ある意味似ているねえ。日本でいえば、やくざ映画時代の深作欣二監督が自分の妻の中原早苗を脇役で使ったのと同じかな。
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映画「かくも長き不在」 アリダ・ヴァリ

2018-08-05 15:04:30 | 映画(フランス映画 )
映画「かくも長き不在」は1961年のフランス映画


かくも長き不在という映画の名前はキネマ旬報ナンバー1になったということで聞いたことがある。dvdがなくご縁がなかった。tsutaya復刻というのはいつもながらありがたい。デジタル化されたせいか、実に映像が鮮明だ。名画座で擦り切れたようなフィルムを見るよりはマシだ。

戦争で離れ離れになった夫が16年の年月を経て、妻の目の前に現れるが夫は記憶喪失になっているという話である。

アルジェリア戦線の話がちまたの話題になる1960年代前半のパリ、カフェを営む女主人エリーズ(アリダ・ヴァリ)は切り盛りよく客をさばいている。まわりには彼女をお目当てにしている男も多い。そんな彼女の店の前を1人の浮浪者(ジョルジュ・ウィルソン)が通りすぎる。たまたま見つけて驚くエリーズ、16年前戦争をきっかけに別れた元夫にそっくりである。 店の女店員に声をかけさせ、冷たいものを飲みませんか?と店の中に連れ込む。エリーズはこっそり隠れて男を見る。どうやら間違いないようだ。と思った隙にいつの間にか飛び出している。


エリーズは男の後をずっと追う。すると、 雑誌や本を街でひろいながら 河のそばの掘立小屋で生活していることがわかる。おそるおそる様子をうかがう。男は毎日のようにエリーズの店の前を通っていた。勇気を振り絞って男に声をかけてもエリーズが誰だかわからない。記憶をなくしているようだ。

エリーズは昔の知人によく似ていると言って男に近づく。 周り人たちはエリーズの動きを奇妙と感じるが、エリーズは賭けに出る。店のジュークボックスにあるレコードをオペラに替える。思い出の曲だ。大音量で鳴らして、男がどう反応するのか?その場には男の母親も同席させるのであるが。。。


アリダ・ヴァリ「第三の男」での美貌が印象的、テーマソングが高らかに流れるなか並木を1人つんと澄まして歩くシーンは映画史上有数の名シーンだ。もちろん面影はあるが、ふっくらしておなかに肉がついた姿は別人のようである。ただ、 熟女ものAV 好きなら見ようによってはエロいように感じるかも?


映画の見初めではおばさんモードが強かったが、元夫に近づくようになるにつれて、若干色づいてくる。この映画は映像が鮮明なので色気じみてくる。変化がくっきりしてくる。元夫を自分のカフェに招待して食事をふるまったり、ダンスをするシーンはなかなか趣きがある。


別れた夫との再会というと、「ひまわり」ソフィア・ローレンの姿を思いうかベる。戦争で別れ別れになった夫とソ連で感動的な再会をするシーンは涙ものだ。同じイタリアのアリダ・ヴァリソフィア・ローレンは雰囲気が似ている。

ネタバレになるので言えないが、最後に向けての展開はなかなかだ。このわずかな時間ですべてを集約してしまうところがすごい。
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フランス映画「めぐりあう日」セリーヌ・サレット&ウニー・ルコント

2017-09-19 21:22:08 | 映画(フランス映画 )
映画「めぐりあう日」は2016年のフランス映画


生みの親を懸命に探すというストーリーは古今東西数多くつくられてきた。「めぐりあう日」「冬の小鳥」で名をあげた韓国系フランス人ウニー・ルコント監督の作品である。「冬の小鳥」は韓国の孤児院から外国人に引き取られる女の子の話であった。今回の主人公エリザは幼くして生みの母親と別れたが、成長して会おうとするが、なかなか会えないという話である。

いわゆる典型的フランス美人セリーヌ・サレットを中心に、最近見たばかりの映画「ダンケルク」の舞台フランスの港町ダンケルクで繰り広げられる話である。専門機関で教えてくれないなら、自力で探してやろうとダンケルクにやってくる。出産した場所その他から目安が立つが、個人の秘密を守るための法律のためになかなかたどりつかいない。しかし、何かの縁か、主人公の理学療法の患者である一人の中年女性が自分と別れた娘ではないかと疑い始めるのだ。

内容がわかっているので、すぐさま患者が実の母親だということはわかる。そこでのミステリー的な要素はない。ここでは精神的に安定せず、若い男と浮気して夜遊び、挙句の果ては妊娠してしまうという主人公のエリザが彷徨う姿を描いていく。

現代ダンケルクの風景はなかなか港町ぽくっていい。特に海岸ぞいを母子二人で自転車で走る海辺のシーンは情緒あふれる。でも普通のフランス映画だな。


パリで夫と8歳になる息子と一緒に住むエリザ(セリーヌ・サレット) は身体の機能回復をサポートする理学療法士をしている。 産みの親を知らずに育ったエリザは養父母の了解のもと、実母の調査を専門機関に依頼しているが、 匿名で出産した女性を守る法律に阻まれ、実母にたどりつくことができない。

6か月後、ついにエリザは自ら調査をするために、自分の出生地である港街ダンケルクに、
息子ノエ(エリエス・アギス)と共に引っ越して来る。 一方、ノエが転校した学校で給食の世話や清掃の仕事に従事する中年女性アネット(アンヌ・ブノワ) は、 母親と同じアパートの別の階で一人暮らしをしている。
ノエは初めての給食時間、容貌のせいでまたもある誤解を受けてしまった。 そんなノエがなぜか気になってしまうアネット。 ある日、背中を痛めたアネットが、学校から聞いてエリザの診療所にやって来る。 「長いまつ毛ときれいな目をしたかわいい息子さんね」とノエを褒めるアネット。 二人は治療を重ねるうちに、互いに親密感を増していく。
エリザはアネットに子供はいるかとたずねるが、即座に返ってきた答えはノーだった。


ある日、ひょんなことからアネットは、エリザに「ノエはあなたの実の子?」と尋ねてみる。 エリザは表情を硬くし、「養子は私の方よ」と切り返す。 次第にアネットの心は乱れ始め、エリザは自分が30年前に産み、放棄した子供ではないかと思いはじめる。 アネットは自分を探している女性の名前を知るために、匿名解除を決意する。(作品情報より)

別れた母親は遊び人のアラブ人と結ばれ、心ならず妊娠して出産する。望まれない子供は養女として預けられるので、お互い合う機会はこれまでなかったし、消息すらわからなかった。ここでの主人公エリザも夜のディスコンに繰り出し、若い男を家に連れ込む。それに気づくと、息子はいい気がしない。実際にはシングルではないのだが、母子家庭のように暮らしている。


ここでは姿かたちは違っていても、淫行体質は変わらないとでも言いたいのであろうか?探していた相手は、実際にはすぐそばにいたということ。お互い気が付かない。しかし、あることがきっかけで急速に接近する。うーんとりあえずはハッピーエンドかな。監督はこういう経験を韓国でしたのかしら??

冬の小鳥
韓国の孤児院舞台のウニールコント監督のデビュー作
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フランス映画「たかが世界の終わり」 

2017-09-18 06:57:50 | 映画(フランス映画 )
映画「たかが世界の終わりJuste la fin du monde」は2017年日本公開のカナダ制作フランス映画


ヴァンサン・カッセル、マリオン・コティアール、ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥと現代フランス映画を代表する主演級を集めてできた作品で、グザヴィエ・ドラン監督がメガホンをとる。カンヌ映画祭グランプリに輝く作品である。

1995年、38歳の若さで亡くなったフランスの劇作家ジャン=リュック・ラガルスの戯曲に「まさに世界の終わり」がある。これをグザヴィエ・ドラン監督が映画にした。長きにわたる日々を描いているわけではない。死を告げるために久々に実家に帰った主人公が、実家にいる母、兄、兄嫁、妹の4人と過ごす1日を描いているのだ。死に至る前の自らの帰郷体験が基調にあったのかもしれない。


ここで繰り広げられるのは、フランスを代表する国際俳優たちで繰り広げられる演技合戦だ。久々帰郷した主人公がそれぞれの肉親および兄嫁と会話を交わす。それ自体は日常ありがちな会話に聞こえる。けっして、非現実的ではない。ただ、長年のお互いの思いがうまく通じ合えないところがある。しかも、少し卑屈な生き方をしている人もいる。久々出会って本来はもっと楽しく会話をしたいところがそうならないもどかしさが我々には伝わる。


「もうすぐ死ぬ」と家族に伝えるために、12年ぶりに帰郷する人気作家のルイ(ギャスパー・ウリエル)。母のマルティーヌ(ナタリー・バイ)は息子の好きだった料理を用意し、幼い頃に別れた兄を覚えていない妹のシュザンヌ(レア・セドゥ)は慣れないオシャレをして待っていた。浮足立つ二人と違って、素っ気なく迎える兄のアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)、彼の妻のカトリーヌ(マリオン・コティアール)はルイとは初対面だ。


オードブルにメインと、まるでルイが何かを告白するのを恐れるかのように、ひたすら続く意味のない会話。戸惑いながらも、デザートの頃には打ち明けようと決意するルイ。だが、過熱していく兄の激しい言葉が頂点に達した時、それぞれが隠していた思わぬ感情がほとばしる――――。(作品情報より)

帰郷したルイはナイーブだ。口数は少ない。その一方で4人はよくしゃべる。兄嫁が自分の子供の名づけかたなど話す。それを兄がそんな話ルイに話をしても楽しくないだろうとチャチャを入れる。お互いが話すことそれぞれをお互い気に入らない。すぐさま家族げんかになってしまう。母親は仲よくしてほしいと望むがそうならない。でもこんな感じ、日本でもよくあることなのかもしれない。久々の再会で最初はよそゆきの会話をしていても、しばらくしてお互いのいやがることに触れて混乱する。ぜんぜん非日常でない会話が続く。


グザヴィエ・ドラン監督はまだ28歳なのに若くしてすばらしいキャリアを積んでいる。その成果はすばらしいということもあるせいか、フランスを代表する俳優5人が集まった。これもすごいことである。
彼はカンヌ国際映画祭での受賞スピーチで述べる。「登場する人物は意地悪く、時に毒を吐きますが、何よりみな心に傷を負った人たちです。彼らは我々の周りにいる人たち、母や兄弟、姉妹たちの多くがそうであるように、恐怖を感じ、自信を失い、愛されていると確信できないで生きています。そんな登場人物たちの感情を描き出すことを、僕は目指しました」と。


何でこんなこと言うの?というようなヴァンサン・カッセルの癇癪とその癇癪に真っ向から対抗するレア・セドゥのあばずれぶりが印象的だけど、それぞれの俳優の演技合戦に優越はない。その実力を引き出した天才監督グザヴィエ・ドランの将来を期待したい。

たかが世界の終わり
現代フランス映画を代表する俳優の演技合戦
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映画「ロスト・イン・パリ」ドミニク・アベル&フィオナ・ゴードン

2017-09-03 20:26:27 | 映画(フランス映画 )
映画「ロスト・イン・パリ」を映画館で観てきました。


「アイスバーグ!」「ルンバ!」で知られるベルギーの道化師夫婦ドミニク・アベルとフィオナ・ゴードンの製作・監督・脚本・主演による、夏のパリを舞台にしたコメディ映画。主人公の女性のメガネがおかしそうで気になっていたけど、なかなか渋谷で映画を見るチャンスがない。公開からしばらくたってしまった。パリセーヌ川やエッフェル塔を舞台にウェス・アンダーソンやアキ・カウリマスキの作品を連想させる色彩設計で色付け、その昔のコメデイタッチでなかなか楽しい。若干親父ギャグ的だけど単純に気楽に楽しめた。


雪深いカナダの小さな村、さえない日々を送る図書館司書フィオナ(フィオナ・ゴードン)。ある日、パリに住むおばマーサ(エマニュエル・リヴァ)から助けを求める手紙が届き、臆病者のフィオナは勇気をふり絞って旅に出る。ところがアパートにマーサの姿は見当たらず、セーヌ川に落ち所持品全てを失くす大ピンチ!おまけに風変わりなホームレスのドム(ドミニク・アベル)につきまとわれて…。いったいマーサはどこに?!(作品情報より)


主人公のフィオナがバカでかい赤いバックパックにご丁寧にカナダ国旗までつけてパリの街を歩く。慣れない地下鉄に乗って、叔母のところへ行けど、不在。そのままセーヌ川に行き、橋の上でエッフェル塔をバックに写真を撮ってもらおうとしたら、重いバックパックのせいで後ろに一回転、セーヌ川に転落してしまう。


予備知識がなくこの映画を見たので、この転落シーンに思わず大きな声で笑ってしまった。どうもこの映画合いそうだ。なぜか、セーヌ川の遊覧船に助けられるんだけど、写真を写そうとした人がスマホを走って返そうとしても、フィオナが気づかない。バックパックはセーヌ川の中だ。結局、そのバックパックはセーヌ川の岸辺のホームレスであるドムが釣り糸で引っ張り込む。その中に入っている黄色いセーターを着て、中に入っているバックにあるお金にシメシメ。飯を食いに行く。


一方、何から何までなくなってしまったフィオナは大使館に助けを求めていくが、レストランのタダ券だけもらう。行ってみると、予期せぬお金が手に入ったドムがいて、ここから2人のドタバタ劇が始める。船上レストランで2人が出会い、ドムの誘いで異様なタンゴを踊る。それから、何度もセーヌ川の底に沈んでしまうシーン、火葬場のエレベータで顔が挟まって眼鏡が壊れてしまうシーンなど、人により好き嫌いはあるかもしれない。でも、気楽に見ればいいじゃないかな?笑いの渦に後味はいい。
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