映画とライフデザイン

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映画「ザ・ビージーズ 栄光の奇跡」

2023-01-22 08:51:28 | 映画(洋画:2022年以降主演男性)
映画「ザ・ビージーズ how can you mend a broken heart」を映画館で観てきました。


映画「ビージーズ」は一世を風靡したビージーズの軌跡を描くドキュメンタリー映画だ。これも後回しになってしまった。放映終了が近づきあわてて映画館に向かう。あとで触れるけど、ビージーズには子供の頃からの思い入れが強いのだ。でもこれは観て、本当に良かった。いくつかのシーンでは思わずジーンとしてしまう。

子供の頃からバンドを組んでいたアンディ、モーリス、ロビンのギブ家の三兄弟がレコードデビューして一気に「マサチューセッツ」をはじめとした大ヒット曲を連発する。その後一時軽い独立騒ぎのあと、再結成で「傷心の日々how can you mend a broken heart」ではじめての全米ヒットチャート 1位となる。でも、あとが続かない。その後、マイアミで音楽活動をはじめ、ディスコ調のリズムの曲で全盛時代を迎える。

自分の若いころは、色んな面でビージーズの音楽に関わっている。
特に4曲とのつながりが強い。自分を振り返る意味でも想い出に触れたい。

⒈マサチューセッツ
小学校のまだ低学年の頃、兄貴がいる友人にポップスが好きな奴がいた。その影響でビートルズを聴きはじめていた。当時、洋楽を中心に紹介する大橋巨泉司会の「ビートポップス」というTV番組があった。洋風ポップスがスタジオに流れるバックで、小山ルミや杉本エマなんていう混血美人モデルがミニスカートで踊るのだ。大人の世界への第一歩だった。土曜の昼の午後に大人の男性陣はしびれただろう。

その番組で、モンキーズ「デイドリーム」ビージーズ「マサチューセッツ」が流れていた記憶が鮮明にある。親にシングル盤を買ってもらった。ステレオで聴いても「マサチューセッツ」の曲自体は短いので何度も何度も同じ歌を聴くのだ。普通のヒットパレード系のTV番組でも「マサチューセッツ」は日本人歌手も歌ったりして紹介されていた。この頃はまだ自分は深夜放送をはじめとしたラジオは聴いていない。夜9時には寝ていた。

今回1968年4月のオリコンヒットチャートで「マサチューセッツ」が洋楽として初めて1位になっていたことを知った。まあ小学生の自分でも聴くくらいだから、学生運動で騒乱だった世の若者は当然聴くだろう。でも、その時のヒットチャートで2位が伊東ゆかり「恋のしずく」、3位が小川知子「ゆうべの秘密」、4位がテンプターズ「神様お願い」、5位がモンキーズ「デイドリーム」と知り、すごい曲が並んでいるのを知り思わず感動した。


⒉メロディフェアと傷心の日々
「マサチューセッツ」の後しばらくビージーズのことが語られることは少なくなった。小学校高学年から土曜のラジオのヒットチャート番組に興味を示すようになり、気がつくとアメリカの「ビルボードヒットチャート」に強い関心を示すようになる。毎週のヒットチャートをノートに転記するようになったのは1971年の6月ごろだ。

1971年夏の東京では3つの洋画がクローズアップされていた。「ある愛の詩」「小さな恋のメロディ」「エルヴィスオンステージ」だ。「小さな恋のメロディ」の主人公マークレスターとトレイシーハイドは、自分と同世代なので、目線が合いもっとも関心をもった。10代向けの「平凡」や「明星」をはじめとして、あらゆる雑誌で2人の記事が紹介されていた。しかも、東京の至る所で「メロディフェア」が流れていた。


全米ヒットチャートの動向をラジオで確認するようになって、いつ「メロディフェア」がヒットチャートを登りつめるかと思っていた。その時なんとビージーズの別の曲がトップになるではないか。「傷心の日々how can you mend a broken heart」である。実はこの曲は日本ではシングルのB面である。この映画の最初に演奏される。テーマ曲でもある。ただ、この曲の良さがわかるのは自分が大人になってからかもしれない。

⒊ユーシュッドビーダンシング
高校生になる頃ビージーズは忘れられた存在になる。中学も高学年になるにつれて、当初のヒットチャートマニアからニューロック、クロスオーバー、ジャズはたまたクラッシックまで幅広い音楽を聴くようになっていた。

そんな高校時代FMで聴いたディスコ風の曲の声に聴き覚えがあった。ビージーズだとすぐに気づく。「ユーシュッドビーダンシング」である。1976年には日本でもディスコが人気となっているが、まだ不良のたまり場的存在にすぎなかった。中学時代一緒だった連中と新宿のディスコに恐る恐る数回行った。その頃ダンスフロアではみんな同じステップで踊っていた。


それにしても「ユーシュッドビーダンシング」には衝撃を受けた。これはジャイブトーキンに続く1976年9月の全米ヒットチャートナンバーワンだ。久しぶりの復活がうれしかった。今でもダンスフロアでよくかかる「ザッツザウエイ」は1975年11月のナンバーワンだ。この辺りからダンス系ソウルミュージックのナンバーワンが急激に増える。70年代後半はディスコ系の嵐だ。

なんといっても、映画「サタデーナイトフィーバー」でのジョントラボルタの歴史的ソロダンスで流れるのは「ユーシュッドビーダンシング」である。


⒋サタデーナイトフィーバー
日本のディスコを不良の溜まり場から、「普通の」若者とサラリーマンの娯楽場に変えた大きなきっかけが映画「サタデーナイトフィーバー」であろう。1978年大学生だった自分は、東京のディスコでも湘南、伊豆あたりのリゾート地にある臨時ディスコのどこへ行ってもフィーバーしていた。そこではビージーズの曲だけでなく、「シャドウダンシング」などの弟アンディギブの曲も流れている。

映画は渋谷の映画館で観たが、どこだったか記憶にない。その後、videoになってもDVDになっても観ている。ジョントラボルタの能天気な雰囲気が、若者の思想を変えた。ほぼ同世代に近い佐藤優が関西で送った青春時代の話を読むと、自分よりひと時代前の学生運動世代の匂いがする。われわれとはまったく違う青春だ。東京と京都で違っていたのか?

そんな大きな影響を与えてくれたビージーズは常に不死鳥のように蘇った。ただ、流行の狭間で停滞があったことを知る人は少ないだろう。エリッククラプトンのインタビューがあるので、なんでと思ったけど、実は停滞して向かったマイアミ時代に強い縁があったことを知った。そういった意味でも、この映画は意義がある。
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