映画「續姿三四郎」は昭和20年終戦直前に公開された黒澤作品だ。
4月29日恒例の全日本柔道選手権の前に見たくなった。
昭和18年公開「姿三四郎」の評判はよく、続編をつくることになった。
とは言え、公開は昭和20年5月というと、東京が空襲でめちゃくちゃになった大変な時期であった。
同じようなスタッフで完成した続編も興味深い。
まずは明治20年の横浜を映す。
米軍の水兵を乗せた人力車が坂を転げるように下って行く。あまりの乱暴なさばきに水兵が怒って、人力車の車夫を殴る。それを見ていた男がいた。二年間の旅を終えた姿三四郎(藤田進)である。暴力をやめろと言っても水兵は言うことを聞かない。仕方なく相手した水兵を海に投げ飛ばしてしまう。
噂を聞きつけ、アメリカ領事館に勤めている役人が姿三四郎の宿を訪れる。アメリカで流行の殴りあうスパークという試合がある。それでアメリカの選手と対決してもらえないだろうかと。姿は見世物試合はしないよと断るが、試合場に行くと、アメリカ人の相手は元柔術の心得があった男であった。以前柔術の達人が柔道の姿三四郎にコテンパンにやられて、柔術の地位が下がり、メシを食うため戦わねばならないのであった。その柔術の男はむちゃくちゃに殴られて、見るも無残だ。悩む三四郎だ。
そのあと修道館に向かい師匠矢野正五郎(大河内伝次郎)のもとを訪れる。そこで修道館四天王が復活となった時であった。世話になった和尚にもあいさつしたが、自分が柔術を懲らしめたばかりに、境遇が悪くなった人たちを思う心の迷いを告白したのであった。
そののち修道館に異様な風貌をした2人の男がくる。以前姿三四郎が対決した檜垣源之介(月形竜之介)の2人の弟鉄心(月形竜之介一人二役)、源三郎(河野秋武)であった。2人は唐手の達人であった。そして三四郎に対決を申し出る。その場はおさまるが、彼らが道場の若い衆に手を出すようになるが。。。
よく見るとアラが目立つ。何でこういう展開になるの?という場面も多い。
でも戦時中につくられた映画だ。天下の黒澤作品にケチをつけても仕方ないだろう。
戦争の相手アメリカ人を屈服させる場面がいくつか出てくるのは、今の北朝鮮が日本人を悪者にした映画をつくるのとは大して変わらない。姿三四郎が次から次へとアメリカ人を屈服させる。さぞかし、戦争末期に初見の日本人にとっては痛快だったろう。戦争末期によくもこれだけの外国人を映画撮影に呼べたなあ?というのは映画を見ていて素朴な疑問だ。ドイツ人かロシア人なのかなあ?
柔術対アメリカの拳闘、同じく対唐手と現在の異種格闘技の前身のような戦いである。柔道の殿堂修道館(講道館をモデル)では他流試合は禁止で破門を前提とした戦いである。「何で破門までして戦うの?」という疑問は残るが、難しいことは考えないでいいだろう。アメリカのボクシング選手のパンチをかわした後、必殺技山嵐で投げたら、相手は一巻の終わり。普通こんなことないだろうとは思うがそこは日本人の強さを見せるためには仕方ない時代だ。
最後に姿三四郎は檜垣兄弟と「武州天狗峠」で戦う。雪の中戦うのだ。最初セットかなと見ていたが、どうやら本当に雪の中で戦っている。完全主義者と言われる黒澤明のことだから、あえて雪が強い日を選んでいるのかもしれない。降り続く雪の粒がちがう。リアリズムだ。双方の武術パフォーマンスには?という部分もあるが、吹雪の中で戦わせるところに凄味を感じる。
ヒクソングレイシーを思わせる藤田進の顔も武道家らしい面構えだし、月形竜之介の目つきもいかにも殺人者の凄味だ。月形は一人二役で、結核で苦しむ以前姿三四郎にやられた兄も演じる。ここでは彼が活躍する。月形竜之介と言えば、映画版水戸黄門である。あの優しいまなざしとのギャップはさすが役者だ。
いずれにせよ、「仁義なき戦い」の作者笠原和夫がいうように、前作とこの作品は今の日本の武闘物、スポーツ根性物のベースになっていることは間違いない。両方とも黒澤明の脚本だ。60年代から70年代のたくさん量産されたスポーツ根性物をみて、黒澤が苦笑いをしている様子が目に浮かぶ。
男を映させれば天下一品の黒澤ならではの初期の作品だ。
4月29日恒例の全日本柔道選手権の前に見たくなった。
昭和18年公開「姿三四郎」の評判はよく、続編をつくることになった。
とは言え、公開は昭和20年5月というと、東京が空襲でめちゃくちゃになった大変な時期であった。
同じようなスタッフで完成した続編も興味深い。
まずは明治20年の横浜を映す。
米軍の水兵を乗せた人力車が坂を転げるように下って行く。あまりの乱暴なさばきに水兵が怒って、人力車の車夫を殴る。それを見ていた男がいた。二年間の旅を終えた姿三四郎(藤田進)である。暴力をやめろと言っても水兵は言うことを聞かない。仕方なく相手した水兵を海に投げ飛ばしてしまう。
噂を聞きつけ、アメリカ領事館に勤めている役人が姿三四郎の宿を訪れる。アメリカで流行の殴りあうスパークという試合がある。それでアメリカの選手と対決してもらえないだろうかと。姿は見世物試合はしないよと断るが、試合場に行くと、アメリカ人の相手は元柔術の心得があった男であった。以前柔術の達人が柔道の姿三四郎にコテンパンにやられて、柔術の地位が下がり、メシを食うため戦わねばならないのであった。その柔術の男はむちゃくちゃに殴られて、見るも無残だ。悩む三四郎だ。
そのあと修道館に向かい師匠矢野正五郎(大河内伝次郎)のもとを訪れる。そこで修道館四天王が復活となった時であった。世話になった和尚にもあいさつしたが、自分が柔術を懲らしめたばかりに、境遇が悪くなった人たちを思う心の迷いを告白したのであった。
そののち修道館に異様な風貌をした2人の男がくる。以前姿三四郎が対決した檜垣源之介(月形竜之介)の2人の弟鉄心(月形竜之介一人二役)、源三郎(河野秋武)であった。2人は唐手の達人であった。そして三四郎に対決を申し出る。その場はおさまるが、彼らが道場の若い衆に手を出すようになるが。。。
よく見るとアラが目立つ。何でこういう展開になるの?という場面も多い。
でも戦時中につくられた映画だ。天下の黒澤作品にケチをつけても仕方ないだろう。
戦争の相手アメリカ人を屈服させる場面がいくつか出てくるのは、今の北朝鮮が日本人を悪者にした映画をつくるのとは大して変わらない。姿三四郎が次から次へとアメリカ人を屈服させる。さぞかし、戦争末期に初見の日本人にとっては痛快だったろう。戦争末期によくもこれだけの外国人を映画撮影に呼べたなあ?というのは映画を見ていて素朴な疑問だ。ドイツ人かロシア人なのかなあ?
柔術対アメリカの拳闘、同じく対唐手と現在の異種格闘技の前身のような戦いである。柔道の殿堂修道館(講道館をモデル)では他流試合は禁止で破門を前提とした戦いである。「何で破門までして戦うの?」という疑問は残るが、難しいことは考えないでいいだろう。アメリカのボクシング選手のパンチをかわした後、必殺技山嵐で投げたら、相手は一巻の終わり。普通こんなことないだろうとは思うがそこは日本人の強さを見せるためには仕方ない時代だ。
最後に姿三四郎は檜垣兄弟と「武州天狗峠」で戦う。雪の中戦うのだ。最初セットかなと見ていたが、どうやら本当に雪の中で戦っている。完全主義者と言われる黒澤明のことだから、あえて雪が強い日を選んでいるのかもしれない。降り続く雪の粒がちがう。リアリズムだ。双方の武術パフォーマンスには?という部分もあるが、吹雪の中で戦わせるところに凄味を感じる。
ヒクソングレイシーを思わせる藤田進の顔も武道家らしい面構えだし、月形竜之介の目つきもいかにも殺人者の凄味だ。月形は一人二役で、結核で苦しむ以前姿三四郎にやられた兄も演じる。ここでは彼が活躍する。月形竜之介と言えば、映画版水戸黄門である。あの優しいまなざしとのギャップはさすが役者だ。
いずれにせよ、「仁義なき戦い」の作者笠原和夫がいうように、前作とこの作品は今の日本の武闘物、スポーツ根性物のベースになっていることは間違いない。両方とも黒澤明の脚本だ。60年代から70年代のたくさん量産されたスポーツ根性物をみて、黒澤が苦笑いをしている様子が目に浮かぶ。
男を映させれば天下一品の黒澤ならではの初期の作品だ。
このように戦前の黒澤明映画は、単純娯楽作品で、戦後のような「贖罪意識」は全くないのです。