映画「処女の泉」は1960年のイングマールベルイマン監督のスウェーデン映画
先日イングマールベイルマン監督作品の「野いちご」をコメントしたが、この作品は「野いちご」より後に製作されているが、日本では先に公開された1961年のキネマ旬報洋画部門1位の作品であり、1960年のアカデミー賞外国映画賞を受賞した。
中世のスウェーデンが舞台で、1人の少女が流れ者に強姦され殺された後で、父親が復讐をするという話に宗教的意味をもたせてつくられた作品だ。自分の感覚では、単なるレイプ映画の粋を超えない。「野いちご」と比較するとそんなにいいとは思えない。
16世紀のスウェーデン。豪農テーレ(マックス・フォン・シドー)の屋敷。召使のインゲリ(グンネル・リンドブロム)は、朝の支度の手を止め、異教の神オーディンに祈りを捧げていた。家の中ではテーレと、敬虔なキリスト教徒の妻(ビルギッタ・ヴァルベルイ)が朝の祈りを捧げている。寝坊して朝食に遅れた一人娘のカーリン(ビルギッタ・ペテルソン)は、父親のいいつけで教会に寄進するロウソクを届けに行くことになる。母親の心配をよそに、晴れ着をまとって上機嫌のカーリン。美しく世間知らずの彼女を妬むインゲリは、お弁当のサンドイッチにヒキガエルを挟み、ささやかな復讐を試みる。
両親と召使たちに見送られ、馬に乗って出発したカーリンとインゲリは、美しい湖畔や野原を越えていく。小川の流れる小屋にさしかかった時、インゲリは急に言い知れぬ不安を覚え、教会へ行かないようにと頼みこむ。笑って聞き流したカーリンは、インゲリを小屋に残し、ひとりで先を進んでいく。インゲリは、オーディンの神を信奉するという小屋の主人に心を見透かされ、恐れて逃げ出す。
森の奥深く進んでいくカーリンの姿を、三人の浮浪者が見つめていた。
この構図はきれい↓
疑いを知らない彼女を言葉巧みに誘い、一緒に昼食をとるが、連れていたヤギが盗んだものであることを見抜かれ、カーリンを強姦して殺してしまう。少年の浮浪者は、目の前の光景を恐ろしげに見つめていた。後から追ってきたインゲリは、その一部始終を目撃するが、憎いカーリンが犯される愉快さと恐怖を同時に味わい、止めに入ることができない。
夜になり、娘の帰りを待つテーレの屋敷に、そうとは知らない浮浪者たちが現れ、一夜の宿を乞う。中に招き入れ温かい夕食を供するが、少年は目撃した罪の恐怖で震えが止まらず、食べ物がのどを通らない。夜中、様子を見に行ったテーレの妻は、浮浪者たちにカーリンの晴れ着を売りつけられる。事情を察した彼女は、寝ていたテーレに娘の服を見せる。テーレが刀を持って外に出ると、階段の下にインゲリが震えていた。事情を聞いたテーレは、シラカバの木を倒し、その枝を切って沐浴する。身を清めたテーレは、刀を手に浮浪者が寝ている部屋に向かう。テーレの妻は、夫が入った部屋に鍵をかけた。
(作品情報より)
「強姦された娘の復讐をする父親」という一言で語ると、どうってことない話に思えるが、実際そうである。
最初に日本で公開された時は、強姦された場面が映倫でカットされたようだ。別に少女を裸にしているわけではないが、見ようによってはむごいと感じさせる部分もある。ただ、現代ではレイプシーンというのは見慣れたものになっているし、この程度のきわどさはさほど驚くものではない。それを除いて公開されたにもかかわらず、一番すぐれた映画としてしまう意味が現代感覚の自分からするとよくわからないといわざるを得ない。
召使いのインゲリが異教の神を信じているというのがポイントのようだけど、宗教の話はよくわからないなあ。彼女はお嬢様であるカーリンを嫉妬している。しかも、強姦される前にインゲリはカーリンにピンタをくらっている。ムカついているわけだ。強姦されても仕方ないくらいの気持ちもあったように見受けられるが、さすがに殺されてしまうまでは思わなかったようだ。
それにしてもこの女不気味な顔をするのがうまい。
監督は多分に女性を下等と見ないしている部分がある。ここでもそういったネタミを前面に出して、強姦する流れ者も悪いけど、それだけのせいにはしていない。でも最後にカーリンの死体の下から突如として泉が流れる。これは神の仕業としている。こういうのはちょっと苦手
(参考作品)
先日イングマールベイルマン監督作品の「野いちご」をコメントしたが、この作品は「野いちご」より後に製作されているが、日本では先に公開された1961年のキネマ旬報洋画部門1位の作品であり、1960年のアカデミー賞外国映画賞を受賞した。
中世のスウェーデンが舞台で、1人の少女が流れ者に強姦され殺された後で、父親が復讐をするという話に宗教的意味をもたせてつくられた作品だ。自分の感覚では、単なるレイプ映画の粋を超えない。「野いちご」と比較するとそんなにいいとは思えない。
16世紀のスウェーデン。豪農テーレ(マックス・フォン・シドー)の屋敷。召使のインゲリ(グンネル・リンドブロム)は、朝の支度の手を止め、異教の神オーディンに祈りを捧げていた。家の中ではテーレと、敬虔なキリスト教徒の妻(ビルギッタ・ヴァルベルイ)が朝の祈りを捧げている。寝坊して朝食に遅れた一人娘のカーリン(ビルギッタ・ペテルソン)は、父親のいいつけで教会に寄進するロウソクを届けに行くことになる。母親の心配をよそに、晴れ着をまとって上機嫌のカーリン。美しく世間知らずの彼女を妬むインゲリは、お弁当のサンドイッチにヒキガエルを挟み、ささやかな復讐を試みる。
両親と召使たちに見送られ、馬に乗って出発したカーリンとインゲリは、美しい湖畔や野原を越えていく。小川の流れる小屋にさしかかった時、インゲリは急に言い知れぬ不安を覚え、教会へ行かないようにと頼みこむ。笑って聞き流したカーリンは、インゲリを小屋に残し、ひとりで先を進んでいく。インゲリは、オーディンの神を信奉するという小屋の主人に心を見透かされ、恐れて逃げ出す。
森の奥深く進んでいくカーリンの姿を、三人の浮浪者が見つめていた。
この構図はきれい↓
疑いを知らない彼女を言葉巧みに誘い、一緒に昼食をとるが、連れていたヤギが盗んだものであることを見抜かれ、カーリンを強姦して殺してしまう。少年の浮浪者は、目の前の光景を恐ろしげに見つめていた。後から追ってきたインゲリは、その一部始終を目撃するが、憎いカーリンが犯される愉快さと恐怖を同時に味わい、止めに入ることができない。
夜になり、娘の帰りを待つテーレの屋敷に、そうとは知らない浮浪者たちが現れ、一夜の宿を乞う。中に招き入れ温かい夕食を供するが、少年は目撃した罪の恐怖で震えが止まらず、食べ物がのどを通らない。夜中、様子を見に行ったテーレの妻は、浮浪者たちにカーリンの晴れ着を売りつけられる。事情を察した彼女は、寝ていたテーレに娘の服を見せる。テーレが刀を持って外に出ると、階段の下にインゲリが震えていた。事情を聞いたテーレは、シラカバの木を倒し、その枝を切って沐浴する。身を清めたテーレは、刀を手に浮浪者が寝ている部屋に向かう。テーレの妻は、夫が入った部屋に鍵をかけた。
(作品情報より)
「強姦された娘の復讐をする父親」という一言で語ると、どうってことない話に思えるが、実際そうである。
最初に日本で公開された時は、強姦された場面が映倫でカットされたようだ。別に少女を裸にしているわけではないが、見ようによってはむごいと感じさせる部分もある。ただ、現代ではレイプシーンというのは見慣れたものになっているし、この程度のきわどさはさほど驚くものではない。それを除いて公開されたにもかかわらず、一番すぐれた映画としてしまう意味が現代感覚の自分からするとよくわからないといわざるを得ない。
召使いのインゲリが異教の神を信じているというのがポイントのようだけど、宗教の話はよくわからないなあ。彼女はお嬢様であるカーリンを嫉妬している。しかも、強姦される前にインゲリはカーリンにピンタをくらっている。ムカついているわけだ。強姦されても仕方ないくらいの気持ちもあったように見受けられるが、さすがに殺されてしまうまでは思わなかったようだ。
それにしてもこの女不気味な顔をするのがうまい。
監督は多分に女性を下等と見ないしている部分がある。ここでもそういったネタミを前面に出して、強姦する流れ者も悪いけど、それだけのせいにはしていない。でも最後にカーリンの死体の下から突如として泉が流れる。これは神の仕業としている。こういうのはちょっと苦手
(参考作品)
野いちご | |
老医師の妄想 | |
処女の泉 | |
知識人好みの60年代のレイプ映画 | |