老人になって、病気がちでも、本音では、誰でも一日でも長生きしたいと思います。人それぞれ生きる事への執着は違います。強弱の違いはあっても人間が生物である限り長生きしたいと思うのが当然です。
しかし、「長生きしたい」という時の気持ちが年とともにドンドン変わって行きます。私は中年の頃は必死に生きる事に執着していました。ところが一切の仕事を止めて、毎日遊び暮らしていると次第に「必死に生きる」ことが間違いのような気分になって来ました。やりたい事はあらかたしてしまったという満足感も少しずつ湧いて来ます。
そんな状態で5年も遊んでいると、「自分の寿命」というものが客観的に見えるような気分になります。自分が死ぬことが他人ごとのように感じられます。例えば、上の写真の左には2羽の親白鳥と右に2羽の子白鳥が写っています。そのうち子白鳥は親のそばを離れてしまいます。親は満足して死んで行きます。それが自然界です。私も白鳥を見ながら、自分も間もなく死ぬことを慰め、平穏な気持ちになります。
遊んでいる間にそんな気持ちが次第、次第に強くなって行くのです。その事実に自分自分が大変驚いています。生きる事への執着はありますが、何か切実でなくなっています。
ですから、「もう死ぬよ」とか、「もっと、もっと長生きしたい」とかいう冗談が気楽に言えるようになります。こんな事を書いているのも自分がもっと、もっと肩の力を抜いて旅立って行く準備をしているのです。個人的な準備にお付き合い頂き、この文章を読んで頂いていることに感謝しています。
自分の経験だけで書くのは間違っているかも知れません。しかし出来る事なら仕事を一切止めて何年間か遊び暮らすほうが良いと信じています。
今日は、仕事半ばで不運にも亡くなった全ての人々に神様の温かい慈しみが限り無く注がれるようにお祈り致します。勿論、国の為に若くして戦死した人々の為にも。藤山杜人