仏教を信じ、悟りをひらいた高僧が静かに死んで行く。貧困の中に苦しみながら一人の男があがきながら死んで行く。誰もその死に気がつかない。
このどちらの死に方が良いのでしょうか?私は信じます。死に方に良い、悪いはありません。ましてや優劣はありません。どちらにしても独りで死の旅路を淋しくたどらなければならないのです。その旅路の風景は同じです。
ですから孤独死を特別に考えることは無駄なのかも知れません。
しかし病気になり、働けなくなり、貧しくなり、その貧困故に孤独死をするという事もあります。それは本人の問題と同時に、周りの人間の問題として考えると悩ましい問題です。悲しい問題です。
地方で、一軒の家に住み、いろいろな事情で無一文になった孤独な老人はまだ幸です。電力会社に料金未納で電気を止められても、近くの里山には薪にする木が沢山落ちています。家の周りには清水が流れ、自給出来る程度の田畑も残っています。健康であるかぎり誇り高い生活が続けられます。
しかし都会でアパートに住み、貧困になり、電気・ガス・水道を停められると、孤独な老人には生活を続けることが困難になります。特に最近の都会では近所付き合いも無く、誰も気にかけてくれません。そんな状況で独りで死に、死体がそのままになり、数ヵ月後に発見される事が時々新聞に報じられています。
こんな悲しい事はありません。本人はもちろん悲しみながら死んで行ったに違いありません。しかし悲しい思いをするのは近所の人々も同じです。何も知らなかった自分が悲しいのです。
生活保護を受ければ良いと人々は言います。しかし生活保護を受けるには住民票が必要な上、いろいろな厳しい条件があるのです。そんな面倒な書類を書くくらいなら誇り高く、静かに独りで死んでいこうと思う人がいても不思議ではありません。
多摩川の調布から下流の河川敷にはホームレスが沢山住んでいます。ダンボールとトタンで小屋を作り独り住んでいます。電気もガスも水道もありません。住民票を持っていませんから役所の保護もありません。住民票差別が平気で横行しているのです。そして孤独の中に死んでいくようなのです。
いくら佛教やキリスト教があっても、聖職者は多摩川の河川敷へは足を踏み入れないようです。何度も散歩で通りますが、そのような人が出入りするのを見た事がありません。私も足を踏み入れません。悲しいです。
これが現在の日本の現実なのです。日本の歴史の上で現在の社会が一番豊かな、そして平和な社会と誰もが言います。しかし貧困の故に孤独死をする人々も多いのも事実です。
インドではマザーテレサの慈悲で孤独死から救われた人々が数多く居たそうです。しかし日本のこの現実をどの様にするのが良いのでしょう?私には解りません。
それはそれとして、この文章を読んで下さった皆様とご一緒に、
貧困の故に孤独になった人々の上に神様の慈しみが豊かにあります様にお祈り致したいと思います。藤山杜人