私は法然と親鸞の名前は知っているが教えは知らなかった。理科系の大学の受験勉強で2人の名前と生まれた年、死んだ年を暗記したのです。そして法然と親鸞は浄土宗と浄土真宗の開祖と暗記していれば合格です。
しかし一番重要な事は2人の教えの内容ではないでしょうか?受験勉強の弊害の見本のような話ですね。
大学生になったら親鸞の本がはやっていて皆が文庫本を読んでいます。私も買って読みましたがチンプンカンプンです。やたら仏教の専門用語が出て来て文章の意味が分かりません。それ以来、親鸞に関する本をいろいろ読みましたが何故流行するのか分かりませんでした。
ところが今日の読売新聞の11ページにある阿満利磨氏の、「法然・親鸞 いま問い直す意味」という記事を読んで簡単に理解出来ました。阿満利磨氏は数行で説明しています。
法然:阿弥陀様は、わが名を称するものはいかなる人間であっても、等しく浄土に迎えて仏とする、と約束しています。だから南無阿弥陀仏とだけ何回も唱えればよいのです。
親鸞:法然の上に書いた教えを信じて念仏すると、人間の愚かさは変わらないが、それでも徐々に変化が生じ、自分と他人の個性の違い、自分と他人の共通性が以前よりは見え始める。念仏を唱えて仏の教えをよく聞くと自分の心の中に少しづつ仏の心(信心ーまことのこころー)が植えつけられてゆくのです。このように無意識の領域に蓄積される仏心が人を智慧と慈悲の世界へ導いて行くのです。
私が若い頃、上に書いたような法然と親鸞の簡単至極な教えを理解出来なかった理由が今にして分かりました。論理的に理解しようとしたのです。南無阿弥陀仏と唱えるだけで浄土へ行けるとは簡単過ぎてとても信じられない。座禅や厳しい修業を無視するのは間違いではないのか?
親鸞のいう「無意識の領域に蓄積される仏心が人を智慧と慈悲の世界へ導いて行く」とは科学的ではない。無意識の領域に起きる変化は実験的に証明出来ないのです。
現在の私には実に簡単に理解出来るのです。論理的に理解するのではなく、心で理解するのです。2人の教えに同感します。感動すら覚えます。
私はカトリックの信仰を変えるつもりは毛頭ありませんが、仏教の素晴らしさが理解出来るのです。法然と親鸞は愚かな人間を等しく愛していたのです。愚かな人間の全てを等しく愛しているのです。お釈迦様がそうしたように。
鎌倉時代にはそれまで天皇や貴族の為だけのだった佛教を一般大衆の為の仏教へ改革したという意味もこれで分かります。
理屈で理解するのではなく心で理解すると仏教が分かる。実はキリスト教も同じ事なのです。それはそれとして、
皆様のご健康と平和を今日もお祈り申し上げます。藤山杜人
下に睡蓮の花と蓮の花の写真をお送りします。蓮の花の出典は、http://wadaphoto.jp/sakura/hasu1.htm です。