宮沢賢治は1915年に盛岡高等農林学校に入学し、1918年に卒業しました。
関豊太郎教授の懇切な指導を受け、そのまま研究生になり、1920年に研究生の修了します。関教授は宮沢賢治の研究能力を高く評価し、助教授に推薦しようとしますが賢治が固辞し、通算5年間の盛岡高等農林学校での生活を終えたのです。
同人誌「アザリア」も発行し、宮沢賢治にとっては幸せな学校生活だったのです。
旧制、盛岡高等農林学校は現在、国の重要文化財として岩手大学内に保存されています。下に写真を示します。出典:http://www.akita-abs.jp/takara/takara081011.htm
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・下は本館の前庭にある宮沢賢治モニュメントです。
老人になれは誰でも体力が落ち、病気にもなるし、気持ちの落ち込むことも多くなります。死ぬ日も近づいて不安になります。
しかし何故か一方で幸せな感じもするものです。特に私は仕事を止めた70歳のころからどんどん幸福な感じが強くなってきたのです。
仕事を止めてからこの5、6年間、この幸福感は何故生まれて来るのかといろいろの角度から考えてきました。
その結果、最近は確信を持ってその理由が書けるようになりました。
その理由とは老人になると感謝の気持ちが自然に湧いて来るからなのです。泉から清い水がコンコンと絶え間なく湧くように出てきます。努力しなくても自然に湧いてくるのです。
まず仕事をしていた間はいろいろな方々のお世話になっていたことに気が付いていませんでした。自分の努力と才で仕事を成功させたと思いこんでいたのです。ところが老人になって仕事を止めてみると仕事の上での成功は周囲の人々の支援があったから出来たことに思い至ります。
また競争相手がいて争いに明け暮れしました。老年になってみるとその競争相手の存在のお陰でささやかな成果を上げることが出来たと思うようになります。感謝の気持ちが自然に湧いてきます。
勿論、今は亡き両親や親類の人々、そして友人や恩師への感謝の気持ちは年をとるにつれて次第に強くなって来ます。
娘や息子、そして孫達へ対しても感謝の気持ちが湧いてきます。その存在そのものに感謝の気持ちが強くなるのです。
勿論、最大の感謝は51年連れ添ってくれた妻へ感じています。
この感謝の気持ちはもっと、もっと根源的なものへの感謝へと発展してゆきます。
美しい自然。そしてこの宇宙全体のなかの一点として私が存在していることに対する深い感謝です。
生涯どんなに不幸な人生を渡って来た人でも、老人になると必ずや何がしかの感謝の気持ちが湧いて来ると信じています。
この精神状態は努力しなくても自然になれるのです。若い頃想像も出来なかった境地です。
下にその感謝の気持ちの出て来る実例の写真を示してみます。
山の中の小屋の近所の牧草地で息子と3人の孫がボール遊びをしています。子供や孫達へ感謝しているだけではありません。この牧草地で、かつて乳牛を飼っていた畜産農家の家族にも感謝しているのです。3、40年前はお爺さんや、お婆さんがまだ元気で、とても親切にしてくれました。お婆さんは搾りたての牛乳を一升ビンに入れて孫と一緒に届けてくれました。竹藪から竹の子を掘ってくれました。手作りの餅菓子を沢山くれました。
そして、そのお婆さんの息子一家にも大変世話になりました。その息子も年老いて乳牛を飼うのを止め、里に立派な家を作り、引退しました。ときどき寄って昔話をします。
上の写真の牧草地は不要になったので子供の遊び場になっています。それを見る度に私には二重、三重の感謝の気持ちが湧いて来るのです。
牧草地の反対側を見ると、そこには上の写真のように甲斐駒岳が聳えています。少し離れて八ヶ岳も見えます。その山々へ対して何故か感謝の気持ちが湧いてきます。理由は判りません。するとこの小さな、小さな自分を包んでくれている地球や宇宙へ何故か感謝したくなります。
さて皆様は如何でしょうか?もしこの文章に共感を感じないようでしたら、あなたはまだまだお若いのです。素晴らしいです。その若さを大いにお楽しみ下さい。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)