後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

茫々65年、疎開先の山あいの町の変らぬ風景

2012年04月11日 | 写真

1945年から1947年まで、家内一家が鎌倉から群馬県、下仁田町へ疎開していました。結婚以来、時々その山あいの町を家内と訪問していますが、何時行っても町の光景は変わりません。疎開先の家の周囲にはお寺があり、単線の上信電鉄が昔のまま走っています。お寺の前の広場は淋しげに風が吹いていて人影もありません。町を見降ろすと、屋根屋根は少し立派になりましたが、その向こうの山々の風景は65年前と変わりません。家内が溺れかけたと何度も聞かされた鏑川の清流もゆるやかに流れていました。 

都会の街々の変わりようと比較すると、時が65年間止まっているようです。写真をご覧になってご自分の郷里を思い出して下さい。

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・お寺の前の広場は淋しげに風が吹いていて人影もありません。

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・向こうの山々の風景は65年前と変わりません。

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・下は高崎から来る上信電鉄の終点の下仁田駅です。昔風の車両が止まっています。沿線の富岡にある富岡製糸場を世界遺産にする運動をしています。これで少しはお客が増えると良いですね。

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・駅の向こう側には昔のままの鏑川が流れていました。家内が溺れかけたと何度も聞かされた鏑川の清流もゆるやかに流れていました。 65年前と全く同じ光景です。

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こういうコメントを頂けるのがブログの有難さです!

2012年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム

コメント

ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた時に、朝のミサでの従者をする為、自転車でよく教会に通いました、小学生の時ですが、ミサが終わった後にはアメリカの切手をいただき、今でも大切に保管をしています。
もう私も60を過ぎ、遠い昔の思い出ですが、神父さんたちと琵琶湖へ行ったり教会でのたくさんのイベントとあの笑顔がいまだに忘れられません、ムニ神父さんの近くに行くと甘いパイプ煙草の匂いがして、その影響か今では私もパイプ煙草を愛用しています。
今は横浜に住んでいますので、近々お墓に行きたいと思います。
懐かしい、ムニ神父さんへの色々なコメントを涙を流しながら拝見させていただきました、本当に有難うございました。
投稿 中根 |
2012/04/11 12:59

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横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出(続き)

2012年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム

その釜戸に鉄の大鍋を架ける。煙突状の下の火口に杉の枯葉を入れて火をつける。しばらくすると、おが屑の表面に火が移り鍋の底を熱する状態になる。

まず鍋に天ぷらに使用した残り油を少々入れる。熱せられた鍋から煙が出るのを見計らい、準備した野菜類を入れて炒める。しばらく炒め、水を鍋に8分目まで入れる。その際唯一の調味料の煮干(乾燥した小いわし)を入れ、木蓋をしてから煮あがるのを待つ。30分程度はかかったたろう。

その間に、「おきりこみ」の作業に取り掛かる。指に力を入れ粉をまとめて行く。こね鉢の中で粉がまとまり、大きな玉が出来上がるのに20分以上はかかったろう。

次に麺場板(めんばいた)に練り玉を移し、延ばす作業に入る。やや固めの玉を平たくするには、また力が必要だ。その前に玉を布とむしろに包み、自分の足で踏むのだ。これは時間のある時以外は出来なかった。この方法は現在でもプロの職人はやっている。この作業は10分はしないと駄目。

その後麺場板の上で麺棒を使い平たく延ばしてゆく。初めはなかなか上手く延びないが、何回かやっているうちに意外によく薄くなって行く。

麺場板いっぱいに薄く延ばした物を、麺棒に巻きつけたまま、麺棒にそって包丁をいれる。すると幅15cm位の板状の練り物が出来上がる。

それを5ミリ位の太さに切ってゆく、これが「おきりこみ」だ。

鍋の具の煮えたころあいを見計らって、「おきりこみ」を鍋に入れる。

しばらくすると、「おきりこみ」が煮上がって表面に浮いてくる。

そこで醤油を入れる。これはいつも目分量だ。鍋いっぱいにはこの位と毎日のことなので作業として覚えているのだが、味は必ず確認する。

何時だったか親父が作ったことがあったが、電灯のない土間での作業なので、醤油と酢を間違えて入れ、作り直すことがあった。

具にも家族の中で好き、嫌いがある。にんじんは親父や妹は好きだが、私は全く駄目、ねぎは親父が嫌いだが、私は好き。概していもがらは誰にでもすかれた様だ。お互い辺りさわりのない具に落ち着く。

固めの「おきりこみ」は煮上がるまで時間がかかる。

出来上がって、釜戸から鍋を降ろす際にに注意が必要、鍋いっぱいの「おきりこみ」は、兎に角重い。鍋の弦に両手の指を絡ませ、釜戸から引き上げるのだが、満杯の鍋。しかも火から下ろしたばかり、一度釜戸の上部の端にゆっくりと置き、バランスを確認しながら板の間へ運ぶ。

上手に持たないと途中で熱い汁が毀れるのだ。

一度、釜戸の脇でバランスを崩し両足の甲に汁をかけてしまったことがある。手を離すことが出来ず、何とか板の間に置くことが出来たが、甲は火ぶくれ状態になり、たいした手当てもせず、一晩苦しみ、あくる日学校を休み病院へに行き手当てをしてもらった事がある。医師は甲のひぶくれ部分をピンセットではさみ全部はがしてしまった。その痛みは大変なものだった。今でも当時の傷跡が僅かに残っている。

私の作った「おきりこみ」は、家族の誰からも不平は出なかった。仮にあっても物のない当時のこと、皆我慢していたに違いない。

そんな経験をする中、中学、高校を終えたが、「おきりこみ」を作ることは決して ’いや’ と思ったことはなかった。

成人してからは「おきりこみ」を作る機会はなく、現在に至っているが、もう一度作って見たいとも思うことがある。(完)== 平成24年2月28日記==

横山さんへ:

しみじみとした随筆の転載をお許し下さいましたことへ感謝いたします。

後藤和弘(藤山杜人)


小さな幸せを大切にして幸福になる(4)年老いると政治・経済・国際問題に関心が無くなる

2012年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム

年老いると政治・経済・国際問題にたいして、自然と関心が無くなるようです。最近、私も関心が無くなってきました。そのかわりに身の回りの些細なことが大切に思えるようになります。そして毎日、毎日、小さな幸せを発見し、それを大事にするようになります。小さな幸せを大事にすると何故か強い幸福感が湧いて来ます。

老境を悠々自適の境地と言う人もいますが、その境地の重要な部分は小さな幸せの積み重ねによるものと信じています。

横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出

横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出(続き)という記事を掲載しました。

群馬県の山の中の下仁田という村落に戦中、戦後暮らしていた横山美知彦さんという方がその思い出を淡々とつづった随筆です。随筆の出典はこの記事の末尾にあります。

水田が無く、小麦やコンニャク、ネギなどの野菜しか採れない寒村です。夜と朝は「おきりこみ」という煮込みうどんを大鍋に作り、家族7人が食べていたのです。その「おきりこみ」を毎日作るのがまだ中学生だった横山少年の役目でした。彼は美味しい「おきりこみ」を作るためにいろいろ努力をします。うどんの腰を強く練り上げる方法を丁寧にします。具にする野菜を用意します。家族が揃って美味しいと言って食べることを祈って、誠心誠意作るのです。貧しい生活をなんとも思っていません。働いてる両親や幼い妹や弟を思いながら一心に「おきりこみ」を作るのです。

この随筆をご紹介したのはそこには「小さな幸せ」が溢れているからです。少年の頃の家族との生活の幸せを老境になってからいつくしんでいるのです。随筆の中には美辞麗句が一切ありません。幸福だとか不幸だとかとも書いていません。「おきりこみ」の作り方を実に淡々と書いているだけです。しかしああこの人は幸福だった。ああこの人の一生は幸福だったに違いない。と思わせるのです。

そこで、小さな幸せを大切にして幸福になる(3)小さい清流を愛する幸せ に続く第四回めの記事として今日のこの小文をお送りいたすことにしました。

横山美知彦著「おきりこみ」・・・手打ち煮込みうどんの思い出とその続きを是非お読み下さいますようにお願い申し上げます。

ついでに昨日発見した小さな幸せの写真を2枚、挿絵代わりにお送りします。老妻と一緒にぶらりと寄ったあるお寺の桜花の写真です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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横山美知彦氏は家内の疎開先の下仁田小学校3,4年生の同級生でした。先日クラス会が下仁田であり、その折頂いた文集 「百編集」そのIII の中にあった随筆です。

転載許可を頂くためにメールを差し上げました。快くお許しになりました。

東京に住み子供2人が生まれ、孫もいるということも書き添えてありました。本人は停年後、下仁田へ帰って、住んでいます。彼の幸多い老境を祈りながら、この記事を終わります。(終り)