大正3年(1914年)、賢治は盛岡中学校を卒業します。しかし肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院に入院します。看病していた父も病気になり入院します。
家庭の事情で進学は許されず、家業の質屋の店番をしていたのです。
退院後も、自宅で店番などしましたが、その生気の無い様子に、両親は盛岡高等農林への進学の許しを与えます。
賢治は翌年、首席で高等農林へ合格するのです。
この大正3年は悩み多い年だったに違いありません。この年、「漢和対照妙法蓮華経」を読み、体が震えるほどの感動を受けたそうです。
下の作品は中学での先輩の石川啄木の影響を感じさせますね。
=====大正3年の作品============
病院の歌
熱去りてわれはふたたび生まれたり光まばゆき朝の病室
つつましく
午食(ごしょく)の鰤をよそへるは
たしかに蛇の青き皮なり
わが小き詩となり消えよなつかしきされどかなしきまぼろしの虹
かなしみよわが小き詩にうつり行けなにか心に力おぼゆる
目をつぶりチブスの菌と戦へるわがけなげなる細胞をおもふ
今日もまたこの青白き沈黙の波にひたりてひとりなやめる
さかなの腹のごとく
青じろくなみうつほそうでは
赤酒を塗るがよろしかるらん
十秒の碧きひかりは過ぎたれば
かなしく
われはまた窓に向く
すこやかに
うるわしきひとよ
病みはてて
わが目 黄いろに狐ならずや
ほふらるる
馬のはなしをしてありぬ
明るき五月の病室にて
いつまでかかの神経の水色をかなしまむわれにみちくるちから
赤きぼろきれは
今日も
のどにぶらさがり
かなしきいさかひを
父と又す
======以下省略=========
写真は今日の高幡不動の裏山の桜です。暗い、淋しい感じてした。賢治の詩の挿絵に良いのではと思い掲載いたします。
(略)
保阪さん 私は愚かな鈍いものです。求めて疑って何物をも得ません。遂にけれども一切を得ます。
我これ一切なるが故に悟ったような事を云ふのではありません、南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです。
あゝその光はどんな光か私は知りません。只斯のごとくに唱へて輝く光です
南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 どうかどうか保阪さん すぐに唱へて下さいとは願へないかも知れません
先づあの赤い経巻は一切j衆生の帰趣である事を幾分なりとも御信じ下され 本気に一品でも御読み下さい そして今に私にも教えて下さい。
書簡50 (保阪嘉内あて書簡 大正7年3月20日前後)