後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

宮沢賢治の作品を気楽に読む(3)盛岡中学卒業し、病気で岩手病院に入院

2012年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム

大正3年(1914年)、賢治は盛岡中学校を卒業します。しかし肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院に入院します。看病していた父も病気になり入院します。

家庭の事情で進学は許されず、家業の質屋の店番をしていたのです。

退院後も、自宅で店番などしましたが、その生気の無い様子に、両親は盛岡高等農林への進学の許しを与えます。

賢治は翌年、首席で高等農林へ合格するのです。

この大正3年は悩み多い年だったに違いありません。この年、「漢和対照妙法蓮華経」を読み、体が震えるほどの感動を受けたそうです。

下の作品は中学での先輩の石川啄木の影響を感じさせますね。

=====大正3年の作品============

病院の歌

熱去りてわれはふたたび生まれたり光まばゆき朝の病室

つつましく

午食(ごしょく)の鰤をよそへるは

たしかに蛇の青き皮なり

わが小き詩となり消えよなつかしきされどかなしきまぼろしの虹

かなしみよわが小き詩にうつり行けなにか心に力おぼゆる

目をつぶりチブスの菌と戦へるわがけなげなる細胞をおもふ

今日もまたこの青白き沈黙の波にひたりてひとりなやめる

さかなの腹のごとく

青じろくなみうつほそうでは

赤酒を塗るがよろしかるらん

十秒の碧きひかりは過ぎたれば

かなしく

われはまた窓に向く

すこやかに

うるわしきひとよ

病みはてて

わが目 黄いろに狐ならずや

ほふらるる

馬のはなしをしてありぬ

明るき五月の病室にて

いつまでかかの神経の水色をかなしまむわれにみちくるちから

赤きぼろきれは

今日も

のどにぶらさがり

かなしきいさかひを

父と又す

======以下省略=========

写真は今日の高幡不動の裏山の桜です。暗い、淋しい感じてした。賢治の詩の挿絵に良いのではと思い掲載いたします。

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(略)
保阪さん 私は愚かな鈍いものです。求めて疑って何物をも得ません。遂にけれども一切を得ます。
我これ一切なるが故に悟ったような事を云ふのではありません、南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです。
あゝその光はどんな光か私は知りません。只斯のごとくに唱へて輝く光です
南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 どうかどうか保阪さん すぐに唱へて下さいとは願へないかも知れません
 先づあの赤い経巻は一切j衆生の帰趣である事を幾分なりとも御信じ下され 本気に一品でも御読み下さい そして今に私にも教えて下さい。
              書簡50 (保阪嘉内あて書簡 大正7年3月20日前後)


私は復活を決して信じない!・・・トマスは言い放った

2012年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム

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今日のミサで読んだヨハネによる福音書はいろいろな意味で面白い部分です。有名な事実が書いてあるので、その部分だけご紹介いたします。

墓穴から生き返って出て行ったイエス様は、その後、家に鍵をかけて隠れていた弟子達の前にスーッと現れ、話しかけます。復活したイエス様は弟子たちへ人々の罪をゆるし、人々を救うために活動しなさいと言います。

ところがその席にトマスが居なかったのです。そこでイエスに会った弟子たちがトマスへイエスの復活を報告します。

しかしトマスは信じません。そうしてこう言ったのです、「あの方の手の釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹(のキズ跡)に入れてみなければ、私は決して信じない」。

その8日の後に、イエス様はトマスと弟子たちの前に現れます。そしてトマスへあなたの指を手の釘跡や脇腹の傷跡に入れててみなさいと言うのです。

トマスはイエスの復活を信じます。そしてイエス様はトマスへ有名な言葉を言うのです。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いてある」

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この場面は実証主義的なトマスの限界を暗示しています。また見ないでも信じ得る人は幸多い人と言っています。疑い深いのは罪なのです。

そしてトマスはイエスの復活を信じないと断言しても、イエス様は怒りません。優しくまた話しかけてくれます。

キリスト教はイエス様の無限の愛にもとずいているのです。この場面は一般の信者にとってとても重要です。いくら神にそむいてもイエス様は必ずやさしく話しかけてくれるのです。

こんな話が中心の今日のミサでした。

上の写真は今日のミサの様子で、下は教会のそばに咲いていた枝垂れ桜です。

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国家目標の強くある国と無い国・・・人々はどちらが幸せですか?

2012年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム

国家目標の強くある国と無い国を考えるとき、ドイツが良い例になります。

大戦で国土を東西に分断された国です。西ドイツは共産国家群に厳しく対峙し、国土を統一するという強い国家目標がありました。その悲願が1989年のベルリンの壁の崩壊で突然実現出来たのです。ドイツ統一という強烈な国家目標が一挙に消滅したのです。

人々は不幸になったでしょうか?幸福になったでしょうか?

それを考える前にドイツで、最もドイツらしいバイエルン王国の首都だったミュンヘンの街の風景写真を見てみましょう。ミュンヘンこそはドイツ文化の中心というドイツ人が多いのです。

日本の街々と較べて何故かシーンと静かに落ち着いている雰囲気です。

まずミュンヘンの中心にあるマリエン広場の写真です。周りには時計台やフラウエン教会やビアホールのある観光の拠点です。

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次はショッピング街として有名なマキシミリアン・シュトラーセです。ドイツの2大ショッピング街の一つとしてドイツ国内では有名です。自転車も悠々と走っています。

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下はミュンヘン市内を流れてるイザール川です。ミュンヘンを出てからドナウ河へ合流します。アルプス山地のチロル地方が源流で、美しい水が流れています。

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一般にヨーロッパの街々は中世の景観を大切にし、どのような政治・経済の変化があっても数百年変わらぬたたずまいをしています。

ヒットラーの世界征服という狂った国家目標のあった時代も、冷戦厳しかった時代も、国土統一を果した現在も街々や村の風景は変わらないのです。

人々は幸せというものをどの様に考えているのでしょうか?

仮に国家目標の強かった国々を考えてみます。七つの海にまたがって領土を持っていたイギリス、アフリカや東南アジアに植民地を広く持っていたフランスやオランダなどの国々は植民地の拡大という強い国家目的を持っていました。

出遅れたドイツやイタリーやギリシャや東ヨーロッパ諸国は先進国のイギリスやフランスに対抗するのが国家目的でした。

そして1917年のロシア革命による共産主義国家群の成立後は共産主義との戦いが国家目的になった国々も多かったのです。

20世紀のヨーロッパは革命と戦争の世紀でした。いろいろな国家目的が入れ換わり変わった混乱の時代でした。国家目的に殉じて命を失った人々も多くいました。

本来、「国家目的」と「個人の幸福」は全く別物です。関連付けて考えるのが間違っています。しかし国家目標に巻き込まれ命を失った人々も多かったのです。

最近の日本では国家目的が無くなったことを嘆く人々がいます。

誤解を恐れずにはっきり書けば国家目的など無い方が良い国なのです。幸せな国なのです。

核弾頭を搭載した大陸間弾道ミサイルを開発するという国家目的を持っている北朝鮮の人々は幸せでしょうか?一時的に考えるとその国家目的に酔って幸福感に包まれているでしょう。しかしその状態が真の幸せでしょうか?

もう一度、上に示したミュンヘンの街の風景写真をご覧下さい。

日本に国家目標がなくなったと嘆くのは間違った考えではありませんか?

そんな平和で豊かな国になったのです。個人個人が真の幸福を深く考えられる良い時代になったのです。

過去の日本の文化や宗教を考えて真の幸福を個人個人が見つけることが出来る時代になったのです。外国の人々の幸せを考える余裕も出てきたのです。それは素晴らしいことです。喜ばしいことです。

外交と軍備だけはキチンとして他国による侵略だけは避けた方が良いのは当然です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)