カトマンズの街中を歩いていると 多くのストリートチルドレンに出会う。
ここ4,5年の間に こうした街を徘徊する子供たちの姿も様変わりをしてきている。
昔から 街の中をうろうろしている子供たちはいたが、大半の子供たちは 家から逃げ出し、カトマンズという都会を見てみたいという思いからで、しばらくカトマンズをうろうろと歩き回り、再び、村に帰っていく子供も多かった。
村に帰っていけない子供たちは ビニール袋などの廃品を集め、お金を手にしたがそれでは充分でないので レストランの近くに座り込んで 残り物の食べ物をもらえるのを待っていたものだった。
昔は 王宮通りの昔からあるアイスクリーム屋の前が 夕方を過ぎると彼らの常駐の
場所だった。外国人旅行者の集まるタメル地区にはあまり寄り付かず、タメル地区で外国人にお金をねだっている子供たちの大半は 家族とともに生活している子供たちで
小遣い稼ぎのためにタメル地区を徘徊していた。
それが近頃は 子供たちの姿も変わり、廃品集めをしているのは インド系の子供たちで 地方から逃げ出してきた子供たちは 廃品集めもしなくなり、日長1日ふらふらと旅行者の集まる場所を徘徊し、お金を得ると シンナー遊びに耽る子供も増えている。
路上で小さな商いをする子供たち、ネパール・インド国境周辺からやって来て廃品集めに精出す子供たち、スラムで家族とともに暮らす貧しい子供たち、カトマンズでは多種多様な状況の中で 子供たちは生活している。
その中でも1番荒れている子供たちは タメル地区やニューロード(カトマンズの中心的な商店街)辺りで物乞いをしている子供たちだ。
村で生活していたときも 家族の愛に恵まれていなかった子供たちだ。家族に対して少しでも愛を感じていれば、村に帰りたくなるだろうが、そうした思いも起こらないくらいに 愛情から遠いところにいる子供たちだ。大人に対する不信の中で育ってきた子供たちが 大人に対する信頼を取り戻すことは至難の業だろう。こうした子供たちを施設に入れたとしても すぐさま逃げ出してしまうだろう。
膨大な人間的なエネルギーを注がないと 彼らの心も生活も変えることは出来ない。彼らの姿を見ていると そこまでのエネルギーのない私にとっては ため息と苦痛が生まれて来るだけだ。
物質的な援助だけでは 彼らの心を変えることは出来ない。ストリートチルドレンを救うために施設をつくるための、あるいは運営していくためのお金を集めているネパール人や外国人がいるが 扱いやすい子供だけを相手にしているようにしか思えない。孤児だ、ストリートチルドレンと言いながら それは本当なのだろうかという疑いも湧いてくる。
街を徘徊するストリートチルドレンの未来はというと 絶望的な思いになる。それほど20年以上前のストリートチルドレンと今のストリートチルドレンははっきりと違ってきている。
彼らの大人に対する不信の程度があまりに大きなものになっていることがわかる。シンナー遊び、盗み、その果てには ギャング集団へと向かっていくだろう。カトマンズに長くいればいるほど、ひどくなっていく子供たちの姿である。
そして ますます治安の悪くなっていくカトマンズである。
人間は学校を終えると親元を離れて職業につき、結婚して家庭を持つ人が多いものです。勿論例外的な生活をする人々が多いのも事実ですが、大多数の人々の人生を考えてみます。
結婚して家庭を持てば収入を増やそうと思います。そこでますます職場での仕事に打ち込みます。その職業にどっぷりと身を漬けるようになります。それは自然なことです。ある見方をすれば理想的な人生です。朝早く、通勤電車に乗るとそのような人々の多いことが実感できます。ああ勤勉で偉いなあと感心します。
しかし職業だけの生活を熱心にしているとその職場の人としか付き合いがありません。その職業の分野だけを繁栄させようという目的しか見えません。職場における自分の権力が世の中でも同じように通用すると錯覚します。それが悪いと言うのではありません。人間はとかくそのようになりがちなのです。恥ずかしい話ですが、若い頃の自分がそうだったのです。
しかし2つの趣味を持つようになってからものの見方が少しずつ変わってきました。ゆっくりですが変わってきました。2つの趣味とは山林の中の小屋へ通う趣味とヨットの趣味です。
どちらも自然を相手にする趣味です。自然の前に立ったときの人間の小ささが実感できます。自然に対する畏敬の念がおのずと身につきます。それが分かると人生観が少しずつ変わります。今まで重要だと思っていた金銭や権力への執着が少しだけ薄れてきます。
趣味の絶大な影響はその趣味の回りにいる人々から受けます。決まった職業の人々ではなくいろいろな職業を持っている人々です。従来、狭い自分の職業から考えていた人生観の間違いに気がつきます。
またまた恥ずかしい話ですが、私は職業には貴賎があると思っていました。世の中から尊敬されるような職業につけば幸せになれると思っていました。
アメリカへ留学したとき職業に貴賎が無い、上下もないと教わりました。頭では理解しましたが実感がありませんでした。無理もありません。当時は大学院で勉強していたのですから。
しかしそれから暫くして、山小屋の趣味を持つようになりました。そこで付き合った人々には職業による差別観を一切持っていませんでした。ヨットを通うして知り合った人々も同じです。私を一個の人間として暖かく、礼儀正しく、受け入れてくれたのです。人間の暖かさと、平等さが実感出来ました。
礼儀正しい平等なお付き合いの精神はこのブログの支えにもなっています。このブログの基底低音なのです。
そのような心理状態になると職業に関係なく全ての人々が大切に見えます。他人を大切に思うようになります。
すると自分の心の中に何故か幸福感が湧いてくるのです。
これこそが趣味のお陰で幸せになるという意味です。少なくとも私はそうだったのです。
皆様は趣味を持ったお陰でどのようなことが起きましたでしょうか?お聞かせ頂ければ嬉しく思います。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)