後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

宮沢賢治の作品を気楽に読む(4)盛岡高等農林学校時代の作品

2012年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム

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宮沢賢治は1915年(大正4年)に盛岡高等農林学校の首席で入学し、1918年(大正7年に卒業します。続いて研究生になり更に2年、盛岡高等農林学校で農業における肥料の重要性をいろいろ研究します。

首席で入学した賢治は関豊太郎教授の懇切丁寧な指導をうけます。

そして大正6年(1917年)には同人誌「アザリア」を創刊し、短歌、小文などを発表します。大正7年までは妹トシも健康で、盛岡高等農林学校を卒業するまでの3年間は賢治の短い生涯で比較的落ち着いた日々が続いた時期と想像できます。

その頃の作品を以下にご紹介いたします。

========大正4年の作品=========

見本園の夕暮

しめやかに

木の芽ほごるるたそがれに

獨乙冠詞のうた嘆きくる

まるくなる

石をくだけばなほもさびし

夕日は落ちぬ

山の石原

北上の

砂地に粟を間引きゐしに

あやしき笛の

山より鳴り来し

この惑星

夜半より谷のそらを載りて

薄明の鳥の聲にうするる

ふくよかに

わか葉いきづき

あけのほし

のぼるるままに鳥もさめたり

========大正5年の作品========

日はめぐり

幡はかがやき

紫震殿たちばなの木ぞたわわにみのれる

山しなの

たけのこばたのうすれ日に

そらわらひする

商人のむれ

にげ帰る

鹿のまなこの燐光と

なかばは黒き五日の月と

明滅の

海のきらめき しろき夢

知多のみさきを船はめぐりて

しろきそら

この東京のひとむれに

まじりてひとり

京橋に行く

浅草の

木馬に乗りて

哂ひつつ

夜汽車を待てどこころまぎれず

===============続く==========


タイタニックが描きだした当時のイギリス社会の暗黒と栄光

2012年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム

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タイタニックという映画があり、多くの人がご覧になったと思います。

美しい恋物語と豪華客船の沈没という悲劇をからませた娯楽作品です。娯楽作品としては大変良く出来ています。それまでも何度も映画化され、ドキュメンタリイ、小説も多く書かれています。

昨日はその建造地の北アイルランドのベルファストで沈没100年目の慰霊祭があったそうです。

インターネットにはタイタニック号のいろいろな情報が沢山あります。

犠牲者のリストもあります。先日NHKテレビがタイタニックの1等客、2等客、3等客の生存者が、それぞれ65%、45%、25%であったと報じていました。

710名の3等客には救命胴衣も用意してなくて、救命ボートのある上層デッキに通じる鉄扉に鍵がかかっていたことも報じてしました。一部の乗組員は3等客も助けようとしましたが、海運会社の方針として3等客のための救命胴衣や救命ボートは用意していなかったのです。

非常に高価な乗船料金を払った1等船客を優先して救助することが当然だったのです。3等客は死んでも仕方がないのです。

これがタイタニック建造当時の1912年のイギリス社会の常識でした。1912年と言えば1915年に始まる第一次世界大戦の直前で、イギリスの絶頂期でした。

このような階級差別の徹底ぶりは横須賀に展示してあるイギリス製の戦艦、三笠の内部構造を見てまわると良く分かります。艦長室は立派なバス・トイレ付きです。将校室は個室です。水兵の居室には窓もない雑魚寝です。もっと悲惨なのは船底の蒸気機関のためのボイラー室です。何十人もの石炭くべが真っ黒になって昼夜働いていたのです。映画タイタニックにも一瞬その石炭くべの光景が出てきます。

タイタニックの華やかな一等船客の広いラウンジンの下には地獄のような石炭炉が燃え盛っていたのです。

イギリス社会は産業革命以来、貧しい悲惨な労働者階級が急に出来たのです。それこそが当時のイギリス社会の闇でした。暗黒でした。タイタニック号も例外ではなかったのです。

しかしこのイギリスの闇を打ち消すような輝きもあったのです。

艦長が船と運命を共にしました。

乗組員が救命ボートの操作と子供と女性の優先避難を短銃を構えながら整然と進めたのです。

乗客も立派でした。聖歌を歌いながら沈んで行きました。

楽団は室内楽を奏でながら船と運命しました。

そして船底で働いていた機関長とボイラーマンたちは静かに自分たちの義務を最後まで続け、浸水するボイラー室の中で発電機を最後まで動かしていたのです。発電が止って、巨大なタイタニックが真っ暗になれば客は避難も出来ません。停電したのは沈没と同時だったといいます。機関長と機関員、そしてボイラーマンが命をかけて客が困らないように電気を送り続けたのです。

これこそがイギリスの栄光を守ったのです。イギリスのシーマンシップなのです。

ボイラーマンの出身地はイギリスのサウザンプトンでした。後にイギリス国王が機関長と機関員、そしてボイラーマンたちを正式に表彰し、彼等の犠牲的精神を讃えたのです。

そして余談になりますが、イギリスのシーマンシップは日本の海軍も導入したのです。横浜には英国製の帆船日本丸が公開展示してあります。見学するとこのイギリスのシーマンシップが実感できます。

映画タイタニックは架空の恋物語が中心の娯楽作品です。しかし当時のイギリス社会を描き出す貴重な証言者なのです。そのような角度からタイタニックのことをいろいろ検索して調べると興味深いと思います。

それはそれとして、

今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)