地方によっては呼び名や製法に違いがあるようだが、下仁田地区、特に我が家では、短い手打ちのうどんを「おきりこみ」と呼んでいた。
土地や家々で中に入れる具にも違いがある。山梨、長野の佐久地方では「ほうとう」と言って、かぼちゃを入れるが、我が家ではかぼちゃは入れないし、私の好き嫌いから、にんじんは決して入れなかった。
一般的には、平たく延ばしたままで、包丁を入れるので、出来上がりは長いままだが、我が家は15cm程度の短い長さを主流としていた。
戦後、僅かに物心のついた頃から、長男の私は、夕食を作ることが日常の大きな受け持ちになっていた。中学の男子が夕食を作る事など何時の時代でも珍しい光景であったに違いない。作業中に突然、ほんの突然知らない人の訪問を受け、作業風景を見られた時の恥ずかしさは何とも言えないものだった。
昭和25~6年の頃からの少しずつではあるが、世の中に余裕が出て来て外国産の小麦粉が大量に入って来た結果、地粉(小麦粉)が簡単に手に入るようになった。
当時の夕食は何処の家でも一食は麺類としていたが、我が家でも夜は自宅で作る「おきりこみ」だった。もちろん私が作った。
学校から帰ってくると、母は行商に出ていて留守、妹や弟はまだ幼く、手伝いは川の水を汲み上げて風呂桶に入れることくらいだったろうか。
大きな鉄鍋で家族7人分、翌朝まで食べられるだけの、「おきりこみ」を一度に作るのだ。翌朝の「おきりこみ」の美味さは格別だった。
午後の3時を過ぎると、勝手の板の間で地粉をこね鉢に取り分け、粉の中に少しずつ水を入れて行く。「おきりこみ」を作る最初の工程だ。
粉を固めるには一度に多くの水を入れた方が早く固まるのだが、それでは出来上がった「おきりこみ」に腰がなく、翌日の朝食の際、熱を加えると、ふやけた状態になり美味くない。
少々の水で粉を手でまとめて行く。この作業は今のプロの職人のそばやうどんの作り方と全く同じだ。これには力がいる。
当時の小麦粉は近くの農家で生産したもので、グルテンを多く含んでおり、うどんに適していた。
ある程度の固めが済んだら、具の準備をする。ねぎ、じゃがいも、いもがら等、総て畑で収穫した野菜だった。
肉類はさすがに簡単には買えなかった。まだ国産に限られていたので量も少なく他の物と比較してそれは高かった。
7人家族の食べ盛りが多かった我が家では、父親の月給日に、父親が買って来る豚肉の細切れがやっとだった。
話を戻そう、当時の炊事用の燃料は、手作りの釜戸がどこに家にでもあり、雑木(燃木ーもしきー)を主としていた。私の家では隣に木材の製板工場があり、木材の加工時に電動帯鋸を使うので多量のおが屑が出る。当時は利用されず屋外に山積されていた。これを自由に貰って来られた。
そのおが屑が燃えやすい釜戸を家族で作り利用していた。
この釜戸は火力が意外に強く、自由に火力の調節が出来、便利な釜戸だった。
(以下続く。次回に完結します。)