先日、このブログで神奈川県相模原市の田名向原遺跡について、相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中という記事を掲載しました。2万年前の住居跡が発見された場所です。
しかし少し疑問が残ったので、今日そこへもう一度行って来ました。
その疑問とは2万年前という年代決定の誤差の範囲です。そうしてもう一つの疑問は当時の人々の生活の実体です。
年代決定の誤差については別の記事でご報告したいと思います。そこで今日は当時の人々の生活の実体の想像を展示に従ってご報告いたします。学芸員の説明を聞くと展示はかなり考えて作ってあると思いました。
2万年前の日本は寒冷期で年間の平均気温が8度近く低かったと推定されています。当時の日本は樺太やシベリア北部位の気温だったのです。
冬は非常に寒いので、現在のイヌイットのように分厚い獣の毛皮の服を着て寒さを防いでいたと想像出来ます。足には毛皮のブーツを履かないと氷の上は歩けません。上の絵は木々が緑ですから冬ではありませんので裸足のようです。手前にあるのが毛皮のブーツの複製品です。
この絵は現在は絶滅したオオツノジカを数人で槍で狩っている様子です。川は相模川で向こうの山は丹沢連峰の前山です。
木の実や食用の植物を採集するのは女の仕事ではなかったという想像図です。勿論、こういう仕事が好きな男性もこうして採集していたに違いありません。植物は現在のシベリアの植生に似せて描いてあります。
これは女性が「なめし皮」を作っている様子を示す絵です。
出てくる石器には皮を掻いて脂肪分を取り除いて「なめし皮」にする「掻器」という石器が沢山あります。布を織ることを知らなかった旧石器時代には「なめし皮」の需要が大きく、貴重な材料だったのです。「なめし皮」は多量の食料と交換出来たと想像出来ます。
獣の皮で覆った小屋の前で石器を作っている様子です。冬の寒い時期は小屋の中で石器を作っていた証拠が残っていました。この2人はまだ一人前でなく石器の下準備をしているようです。
これは石器作りの名人あるいはマイスターの絵です。石器作りの名人になると裕福な生活が出来た筈です。切れ味が良くて頑丈な石の刃物は多くの食料と交換出来ると考えれられます。四季折々一年を通じて食料に困ることは無かった筈です。
この遺跡には3000個もの石器が出て来たので石器作りのセンターだったと想像されます。
さて最後に当時の人々が食べていたと考えられる動物の絵を示します。
現在の日本では絶滅したマンモスやナウマンゾウやバイソンやヘラジカなどがいたのです。北海道とカラフトはシベリア大陸と陸続きになっていて、そのような動物が日本へも歩いて来たと信じられています。
如何でしょうか?
次の縄文時代になってやっと土器が出来たのです。旧石器時代の日本人は焚火で獣肉を焼いて食べました。生でも食べたでしょう。そして焼いた石で覆い、埋め込んで蒸し焼きにもしました。遺跡からは料理に使った石が多量に出て来たので「蒸し焼き」が好まれていたようです。
家族関係はどのようなものだったのでしょうか?考えると興味が尽きません。(終わり)