横山美知彦さんは家内が群馬県の下仁田町へ疎開していた時通っていた小学校の同級生です。下仁田町は上の写真の妙義山の麓にある山村です。米がとれず畑作だけです。
日本が真珠湾攻撃をして大戦争を始め、やがて敗戦になります。アメリカ軍が日本を占領し、マッカーサー司令官が日本を統治しました。その頃この下仁田は本当に貧しい山郷でした。
その頃の横山少年の思い出の記の連載の第2回目をお送りしたいと思います。
食料難の山里では親類の助けで食いつないでいたのです。
この連載は日本民族の生活の歴史の一コマです。
==横山美知彦著、「戦中、戦後の山村の生活の思い出」(2)落し物===
食糧難と云う言葉が通用していた頃のこと、大人の自転車にやっと自由に乗れるようになった私は、小学校の上級生だったろうか。食べ盛りの5人の子供のいる我が家も、麦が半分も入った飯は当たり前だった。しかもこれでも食べられれば幸せだった。
親父も弁当持ちで職場に通っていたが、さすがにお袋も麦飯は弁当に出来ず苦心していた。月末になると穀類商の店への支払いの都合もあり、付けを増やす事も出来ない。
そんなことで祖父のところへ米を借りに私が行くことになった。祖父は4キロほど離れた当時の馬山村で桶作りを稼業ににし、娘で婚期を失った叔母と二人で暮らしていた。
叔母の腹の内は判らないが、黙って米を貸してくれた。これを後日返した記憶は私にはない。
私米の入った袋を風呂敷に包み、乗って来た自転車の荷台に括り付け帰路に就いた。
途中トラックに出会ったが、当時は車も少なく夕方は特に行き交う車もなかった。
トラックは私を通り過ぎたところで停まった。後ろから運転手が「おおいっ!」と叫んでいたのを聞き、自転車をいったん止めたが、夕方でもあり大して気にも留めなかった。
家に着き荷台を見た。風呂敷包みがない。さては先ほど運転手が落し物に気づき私を呼んでくれたのか。私は家に入らず祖父の家まで捜しながら引き返した。
風呂敷包みは落ちていなかった。泣きながら自転車を漕いだ。家に帰りお袋に事情を話したが、お袋は何も言わなかった。
遅く親父が仕事から帰って来て、お袋の話を聞き親父はその足で祖父の所に行き、米を借りて来た。帰って来た頃は夜が明けていた。
荷台に物を括り付ける際、風呂敷に紐を通す単純作業を怠ったことによる災難だった。(平成22年8月11日記)
========続く==================
昨日は東京で始めての大雪でした。太平洋側を台風のような低気圧が東北へ抜けると大雪になります。庭に霏々と降る雪を見ながら抹茶をたてたり、雪見のビールなどと風流ぶっていましたが、実は困った問題が起きていたのです。困った問題ですが、嬉しい問題です。
このブログではカトリックのことなどを何度も書いています。そうすると、たまに洗礼を受けた方が良いでしょうかという相談を受けます。昨日もそのようなメールが来ました。
その方は私が尊敬している山本量太郎神父様の教会で教理の勉強をしています。さっそく、そのメールの内容を山本神父様へつなぎました。夜遅く神父様から返事があり、責任を感じますと書いてありました。そして「祈っていて下さい」と結んであります。
そうです。私に出来ることは祈ることだけです。下のような夜の灯を見ながら祈りました。
ここで止めれば良いのですが凡人の私はつい蛇足を書きたくなります。
それは何故日本人が洗礼にたいして非常に大きな抵抗感を感じるかという問題です。
いつも考えて来た2つの理由を是非書いておきたいと思います。
一つは「自分は洗礼を受ける資格が無い」と考える人が多いのです。洗礼は国家資格ではありません。学歴も能力も問いません。貧富の差も問いません。寄付も絶対に要求しません。「洗礼を受ける資格が無い」と考える人は、それでもう充分です。洗礼を受けて良いのです。
私が1971年に洗礼を受けたカトリック立川教会の塚本金明神父様は私の資格を一切問いませんでした。カトリックの教理の勉強などしていませんと言いましたが、そのことも問題にしませんでした。一切の質問をなさらないで洗礼を授けてくれたのです。
日本人が洗礼を受けないもう一つの理由は、洗礼を受けると日本人として生けて行けなくなると考えるからです。社会から疎外されるという心理的な怖れを感じることです。
この考えは全く間違っていました。洗礼を受けた私は以前より鮮明に日本人の長所や善さが判るようになったのです。仏教の重要性もより深く理解出来るようになったのです。神社に参拝します。お墓参りやお葬式には欠かさず行くようになりました。
以前より一層日本が好きになりました。洗礼を受けたおかげで私はより一層日本人らしくなったのです。
洗礼を受けたら社会から疎外されるという心理的な怖れは人間の弱さの証明です。私もそれを感じました。しかし社会が疎外するのではなく自分が自分を疎外しているのです。そんな信者もたまには居ます。しかしそれも一時的な間違いに過ぎません。
日本人は真面目過ぎます。肩の力を抜いて明るく前向きに考えれば良いと思っています。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)