後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

同じ北海道でも小樽と函館はこんなに違います

2014年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
この前の二つの記事で小樽についてご紹介いたしました。しかし同じ北海道でも小樽と函館はこんなに違います。
その違いをご理解頂けるように以下の記事をお送りいたします。
2012年6月17日、18日、19日、20日と、函館郊外の湯の川温泉に3連泊し、車で丁寧に回りながら撮った写真もご紹介いたします。まず函館のカトリック元町教会をご紹介いたします。1859年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。このカトリック元町教会は、以後、3度の火事で焼け落ちます。現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。この教会の内部の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い作品です。美しい作品です。この教会全体が調和を持った一個の美術的な作品になっています。明治維新の起きる前の江戸時代です。キリシタン禁教は厳しく、明治政府になってから7年間もキリシタン禁教が続けられたのです。ですから教会が出来ても隠れキリシタンは訪れることは出来ませんでした。そんな古い時代に函館のカトリック教会が造られたのです。下に外観と内部の写真を示します。H_0281

H_029_211 函館観光に行ったら是非、このカトリック元町教会の内部の中央祭壇と内壁に飾ってある14個の木造彫刻をご覧下さい。イタリーのチロル地方の作品です。ついでにロシア正教のハリスト函館教会の写真を示します。

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1858年、日露修好通商条約が出来るとロシア領事、ゴシュケヴィチがすぐに函館に着任します。彼は領事館の付属聖堂としてロシア正教の教会堂を作ります。そして1861年には領事館付き司祭としてニコライ神父をよびます。このニコライは後に東京の神田にニコライ堂を建て、ロシア正教を基礎にして日本正教会を作ったのです。彼は日露戦争が起きても、日本に踏みとどまって日本人信者の為につくしたのです。亡くなった時には明治天皇から花輪が贈られ、上野の谷中の墓地の土になったのです。
函館に行ったら是非外人墓地もご覧下さい。函館の東南の小高い岬にあります。故郷を遠く離れ異郷に眠る人々の冥福を祈ると何故かロマンチックな気分になります。皆 海に向かって建てられています。下のその写真を示します。家内も何か考えながら佇んでいます。

K_0471さて函館の西の松前の方向に車を30Kmほど走らせると淋しい丘の上にトラピスト修道院があります。はるかに見下ろすと津軽海峡が碧く光っています。この寒冷の地に戒律が厳しい自給自足の修道院を作った人がいたのです。フランスの戒律の厳しいことで有名な厳律シトー派の流れを汲むトラピスト派の数人の修道士が1896年、明治29年にやって来たのです。石ころの多い熊笹の原野や深い森を切り開いて乳牛の放牧場を作り、レンガ造りの建物を建設したのです。場所は函館の西の渡島当別駅のそばです。不便な所なので観光客の少ない深閑とした林の中に修道院本館と大きな牛舎が高い塀の中に見えます。その外は一面に牧草が生えた放牧場です。今回は車だったので、4日間に4回も訪問しました。修道院と周囲の景観が素晴らしかったのです。そして日頃のいい加減な信仰を反省しながら周囲を散策したのです。この修道院はローマ法王傘下のカトリック組織の一部ですが、戒律が厳しい事で有名です。修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、祈りと牧畜の労働だけで過ごします。生産される乳製品の一部を外部へ売り、衣服や光熱費をねん出します。その製品はトラピスト・バターやトラピスト・クッキーとして現在でこそ有名ですが、昔は苦しい生活が続いたそうです。現在の修道士は外国人も居ますが、殆ど日本人男性です。修道院の見学は女性禁止で、男子のみ往復ハガキで申請すれば可能です。下に写真を示します。

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上は修道院の入口からはるか丘の上にある修道院を眺めた写真です。

K_0671正面入り口までは坂を登って一般の人も行けます。小さなレンガ造りの建物が開放されていて内壁に修道院の歴史や厳しい牧畜の様子の写真が展示してあります。

K_0931修道院の高い塀に沿って裏の方へ回ると古い木造の牛舎が数個あります。大きな扉を開くと乳牛が外に広がる牧草地へそのまま出て行けるような配置になっています。上の写真がその古い牛舎の様子を示しています。

函館は江戸時代の末頃、幕府によって開港された港の一つです。街には古いロシア領事館やイギリス領事館が残っていて昔のヨーロッパの雰囲気がそこはかとなく残っています。その感じは神戸や横浜の一角と同じようです。その江戸時代も終わり明治政府になってから榎本武揚や土方歳三がやって来て政府軍と激しい戦いをしたのです。そんな北海道独立の夢の跡をたずねるのも良いものです。全ては歴史の彼方に消えて行きます。




ニシン漁で沸き立つ小樽の盛衰とその遺産を生かした観光事業の成功

2014年12月03日 | 日記・エッセイ・コラム
小樽はアイヌ語のオタリナイに由来し砂の中を流れる川という意味でした。
江戸時代の末期から明治、大正にかけてニシンの大群が押し寄せて沸き立つような大繁栄をしたのです。そのニシンの大群も昭和になってから急に来なくなり衰退します。
しかし大量の漁具やニシンを仕舞って置く石造りの倉庫群とニシンを運ぶ運河が遺産として残されました。
その運河を観光客に見せ、倉庫群の中に楽しいガラス製品のお土産屋や六花亭や北果楼などの有名な北海道のお菓子屋さんが店舗を構えています。
その上、新鮮な魚貝類を用いた握り寿司の店々が軒をつらねています。
そして西部にはグランドパーク小樽という壮大なホテルがあり巨大なアウトレットと通路で繋がっています。そのホテルの前が小樽ヨットハーバーです。そして石原裕次郎記念館があるのです。
小樽の歴史やニシン漁の盛衰を正確に記述したものが、http://www6.plala.or.jp/AKAIWA/rekishitex1.htmlに御座います。是非、ご一読をお薦めしたいと思います。
そして小樽のガラス工芸品の北一ガラスという会社の古い歴史も興味深いものです。
ところで、お土産用のガラス工芸品の店は全国の観光地に多数あります。しかしこの北一という会社がその流行を創り出したのです。
この会社は明治時代に創業された会社です。1901年(明治34年)に創業した浅原硝子が前身です。当初は石油ランプの製造を行っていましたが、当時活況を呈していたニシン漁用の浮玉(ブイ)の製造も手がけ、飛躍的に業績を伸ばしたのです。
プラスチックなどによる代替品の開発や漁業の衰退が進んだ1980年代には斜陽化が進みましたが、小樽運河地区の再開発に伴い開設した観光客向けの常設ギャラリーが人気を博し、照明製造販売からガラス器の販売業への業態転換に成功したのです。
はじめから国内外のガラスメーカーからの仕入れ販売に加えて、現在では自ら企画する商品や傘下の工場の運営のほか、レストランやカフェ、また日本酒やワイン等の酒類販売も手がけ、小樽市内だけでも10店舗以上の直営店を構えるまでなったのです。
現在の小樽の経済発展の旗手のような会社です。是非、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B8%80%E7%A1%9D%E5%AD%90 もご一読下さい。
この成功は、後に全国各地に出現した観光地型のガラスショップ・工芸館の先駆けとなったという事実は高く称賛するべきと思います。
以下に明治期のニシン漁の写真、石造りの倉庫群に沿って伸びている運河の改修前と後の運河の写真、北一ガラスの写真、古い商家の写真、お菓子の北果楼の写真などを示します。

はじめの3枚の写真の出典は、http://www6.plala.or.jp/AKAIWA/rekishitex1.html です。



以下の4枚の写真は今回、12月1日に撮った写真です。







ロマン溢れる冬の北海道をデジカメで撮りに行きました

2014年12月03日 | 旅行記
11月30日から札幌、小樽、ニッカの余市、洞爺湖ウインザーホテル、昭和新山と2泊3日の冬の旅をして来ました。例によって下手ながらも写真を沢山撮って来ました。
しかし東京を出発する前に写真のテーマを以下のように決めました。
(1)降りしきる雪景色を主題にした写真
(2)札幌の大通公園の恒例のイルミネーション
(3)同じ公園の一角にある「ミュンヘン・クリスマス・マーケット」の屋台と人々
(4)大正時代を感じさせる小樽の運河と倉庫群
(5)余市のニッカウイスキー工場の歴史的風景
(6)洞爺湖近くの山上にあるウインザーホテルの内装とその文化
(7)昭和新山とその観測者、三松正夫の記念館と彼の観測記録
北海道への旅の始めの2日は冷たい冬の雨でした。3日目は朝から強風と猛吹雪で気温が一気に下がり本格的な北海道の冬景色になりました。
これから数日にわたって上に書いた7つのテーマに関して写真と物語をお送りしたいと思います。
今日は総集編のようなつもりであちこちで撮った写真をお送りいたします。尚、北海道は道東、知床、野付半島、大雪山近辺、函館近辺と大変景観と気候が違いますが今回はそのほんの一部のご紹介です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

上は降りしきる雪片を撮ったつもりです。山々のモミの木も白樺林も雪に埋もれる冬到来です。

上は札幌の大通公園のイルミネーションです。冷たい雨の降る寒い夜でした。

上は洞爺湖から昭和新山へ向かう山道の雪景色です。気温はまだそんなに寒くなく零度前後のようでした。

現在の朝のドラマのマッサンに出てくる余市にニッカウイスキーの工場の正門です。1934年に創業者の竹鶴政孝氏によって作られた工場です。彼がリタ夫人とともに住んでいた西洋館も中に保存、展示してあります。

上は小樽の観光名所の運河と倉庫群の写真です。小樽はニシンで栄えた漁港でしたが札幌の外港としても重要な役割をはたしました。しかし函館のように古い教会も修道院も無く宗教的な雰囲気の無い街です。お土産店は華々しいのですがその地域の外には寒そうなたたずまいの家が並んでいる淋しい町です。札幌への通勤電車が走って行くのをホテルの窓から見下ろしていました。

上は2008年にサミットが開催されたウインザーホテルのロビーです。ウインザーなどと変な名前なので趣味の悪いホテルではないかと想像していましたが、内装は上品で落ち着いていて、その上接客態度が良いので感心しました。いずれ詳しくご報告いたします。