後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

クリスマスツリー物語

2014年12月07日 | うんちく・小ネタ
クリスマスツリーは世界中で飾られる12月の風物詩です。
もともとは北ヨーロッパに住んでいた古代ゲルマン民族の冬至祭に使われていた樫の木がモミの木に変わったものです。
ですから元来はキリスト教とは関係の無いものでした。それが中世の頃にキリストの誕生祝いを冬至祭の頃に行い、その飾り物としてのモミの木を使用したのです。その結果クリスマスツリーはキリスト教の行事に欠かせないものになったのです。
アメリカでは毎年、数千万本もの生木が消費されています。それらは農地でクリスマス用に栽培したもので自然の森の生木ではないのです。
アメリカで生活してみるとクリスマスツリーは幸福な家庭のシンボルとして家庭持ちのアメリカ人は熱心に飾ります。日本のお正月に飾る門松やしめ縄のようなものです。それが無いと幸福な家でないようなのです。
ですからアメリカではクリスマスツリーを非常に大切にしています。
下にニューヨーク・ロックフェラー・センターのクリスマスツリーの写真を示します。出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%BCです。

日本でクリスマスツリーを飾る家庭はアメリカほど多くはありません。上の写真の出典にその歴史みると以下のように書いてあります。
日本では1860年、プロイセン王国の使節オイレンブルクが公館に初めて飾りました。1874年には原胤昭(はら たねあき)により築地大学(明治学院の前身)で行われたクリスマス・パーティーに、日本初のサンタクロースとともに登場しました。1885年に横浜で開業した明治屋が、1900年に東京銀座へ進出すると、銀座のクリスマス飾りは広く行われるようになり、同じころには、神戸でクリスマス用品の生産が始まったそうです。日本のクリスマス行事は、1928年の朝日新聞紙上で、「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるほど定着していたのです。太平洋戦争中は影を潜めますが、戦後すぐに復活し、1948年には東京駅などのクリスマスツリーが、(当時は国営鉄道であったため)宗教活動ではないかと問題にされ、運輸省が「季節的な装飾のひとつで宗教活動ではない」と釈明するひと悶着もありました。現代の日本においては季節的な装飾として定着しています。
しかし都会の裕福な家庭ではクリスマスツリーがありましたが地方の家庭にはありませんでした。日本ではお正月を大切にしますがクリスマスツリーはあまり普及していません。そしてそれはもっぱら商店の店先や公共の場所に季節の風物詩のように飾られ人々を楽しくしてくれています。それも12月の楽しい光景です。そこでクリスマスツリーの写真をもう少しお送りします。お楽しみ下さい。

この写真の出典は、http://matome.naver.jp/odai/2135096152864408001/2135196575377338503です。

この写真の出典は、http://forum.arabia4serv.com/threads/48985-خلفيات-رأس-السنة-الميلادية-لكل-الأعوامです。

今日は日曜日なのでキリスト教にまつわる話をいろいろお送りします

2014年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム
まずはじめに、サンタクロースの住んでいるフィンランドの森と教会の写真をお楽しみください。写真の出典はフィンランド政府観光局のHPです。




サンタクロースのお爺さんはフィンランドの森に住んでいるのです。手紙を送る方法を説明します。宛名は封筒の表に、Santa Claus, Finland と大きく、太字で書きます。自分の名前と住所は封筒の表の左上に小さめのローマ字ではっきり書きます。右上にはフィンランドまでの航空郵便料金の切手を貼ります。そして封筒の表の余白にAir Mailと大きな綺麗な文字を2ケ所書いて準備完了です。中に入れるものは、子供が自分で描いた楽しい絵のカードにしましょう。文面は日本語で結構です。返事は運が良ければ貰えます。

さて日本のキリスト教はカトリックから始まりました。1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ第一歩を印したときに始まります。ですからクリスマスや復活祭の頃になると、私は毎年、長崎や五島列島のことをあれこれ考えます。
今日は長崎の隠れキリシタンの里、外海町のカトリック黒崎教会のHPから写真を2枚ご紹介いたしたいと思います。



ところでザビエルはどんな人だったのでしょうか?Yahoo百科事典でザビエルのことを以下のように紹介しています。
ローマ法王の使節、イエズス会の東インド管区長の資格をもって、彼はコモリン岬をはじめインド各地を巡り、さらに1545年から47年にかけて、マラッカからモルッカ諸島まで布教に従事しました。その間、マラッカの教会で最初の日本人として鹿児島出身のヤジロウ(アンジロウ)らに会い、彼らの母国日本にキリシタン宗門を広める大いなる熱意を抱いたそうです。
そして1549年(天文18)8月15日に、ザビエルは鹿児島に第一歩を印したのです。薩摩(鹿児島県)、平戸(長崎県)を経、周防(すおう)山口(山口県)でも同僚フェルナンデス修道士らと伝道したのち、51年の初めに堺に達し、ついで京都に赴むきました。しかし京都は戦乱のために天皇にも将軍にも権威がないのを悟ったのです。
落胆のうちに西下した彼は、周防の大内義隆を再度訪れ、数々の珍奇な品を献上してその好意のもとに山口で布教します。
ついで豊後(大分県)にポルトガル船が入港したとの知らせでその地に移り、大友宗麟に謁したのち、1551年ひとまず離日してインドに帰ったのです。
翌年中国布教を志してゴアから旅立ったが、広東(カントン)沖のサンショアン島で病死します。ときに1552年12月2日(3日説は誤り)でした。遺骸(いがい)は現在ゴアのボン・ジェズ教会にあり、右腕だけはローマのジェズ教会に安置されています。1622年、聖人の位に列せられました。
私はザビエルが伝承したカトリックの信者です。あまり熱心ではありませんがカトリックを信仰しています。
一般の方と何処が違うかと問われれば、あまり違いませんと答えます。
しかし、2つ、3つ違うところがあります。
まず食事の前に家内と一緒にお祈りを唱えます。主願わくば、我らを祝したまえ。また主の御恵みによりて我々の食せんとするこの賜物を祝し給え。我らのキリストによってアーメン。父と子と聖霊の名によってアーメン。と唱え十字を切ります。ここまでは普通のカトリックと同じです。しかし朝食の時は自己流の祈りを付け加えます。主願わくば 神父様の健康をお守り下さい。そして子供や孫の健康と成長をお祈りします。アーメン。父と子と聖霊の名によりてアーメン。と言って十字を切ります。
冒頭の神父様とはローマ法王、東京大司教区の司教、そしてカトリック小金井教会のディン神父様、その他、教会でお会いした全ての神父様を思い出して、唱えます。
昼食と夕食の前は上の2つの祈りの前の半分だけにします。外のレストランや寿司店で食事をするときもあります。その場合は食前に黙って上の御祈りをします。あるいはあえてしない時もあります。声を出して祈ると宗教嫌いの方々の食欲を減退させるかも知れません。祈りの鉄則は他人に迷惑をかけないことです。
食前の祈りをする。毎週日曜日は原則としてミサに行く。それだけが違いです。
お祈りをしていない普通の時間は至って俗っぽい生活をしています。神前結婚式にも仏教の葬式にも義理を欠かさず出席しています。
カトリックになったからといって親類や友人の付き合いが変化したとしたらそれはいけないことです。「人を愛せ!汝の敵を愛せ!」、これがイエス様の教えなのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。
後藤和弘(藤山杜人)