後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

北極星を信仰するロマンチックな妙見信仰と幼少時の懐かしい思い出

2014年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム
日本にはキリスト教や仏教や神道や庚申信仰のような中国の道教と深い関係のあるさまざまな宗教の信仰が混然一体となって存在しています。そしてそれらは時代の推移にともなって変化して行きます。
風水や陰陽道や庚申塔信仰や妙見信仰などは仏教とは異質の道教起源の信仰です。
キリスト教が日本の宗教的風土に入ってくるとどのように変化するのでしょうか?
それを知るためにも道教が日本に入り仏教や神道に混淆していった様子を知るのが良いと思い、今日は妙見信仰について説明をしたいと思います。
庚申信仰の説明で参照させて頂いた「戸原氏のホームページ」(http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/myouken-1.html)に明快な説明があります。
それによると妙見信仰とは道教の北極星(北辰)と北斗七星に対する信仰であり、日本では仏教と混淆し、北辰妙見菩薩に対する信仰に変化したのです。
一方、神道と混淆したのが「天御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)です。
この北極星信仰は、その動かない星が北の空にあって宇宙の全てを支配する最高神すなわち天帝として崇める宗教なのです。そして北斗七星は天帝の依頼を受けて人間の行状を監視し、その生死や禍福を支配しているのです。下の写真に北極星の写真と北斗七星とカシオペア座と北極星の位置関係を示す写真を掲載します。



この北極星と北斗七星の信仰は推古天皇のころ日本へ入ってきたと言われています。
奈良の明日香にある高松塚古墳の天井に北斗七星が描かれ、北壁には北極星の象徴である玄武像(カメと蛇が絡み合った像)が描かれていたのは日本へ北極星と北斗七星の信仰が入ってきた証拠と言われています。
正倉院の御物にも北斗七星が描かれているので奈良時代には北辰信仰が入っていたと考えられています。
この北辰信仰が時代とともに仏教と混淆して、妙見信仰へと変化していったのです。
私的なことで恐縮ですが、私の祖父が住職をしていた兵庫県の曹洞宗の正林寺に行くために何度も乗った能勢電鉄の終点が能勢妙見さんでした。本尊さんは北辰妙見菩薩なのです。
その関係で能勢の妙見さんのことは昔から知っていた懐かしい場所なのです。
この妙見信仰のお寺は能勢氏が1600年頃に建立したものです。そして能勢氏は日蓮宗の信者だったので法華経の守護神の北辰妙見菩薩をご本尊にしたのです。
この能勢の妙見さんは三大妙見の一つとして江戸時代中期頃から参拝者が増え、大いに賑わっていたのです。関西地方の名所の一つだったのです。
ですからこそ能勢電という鉄道も出来たのです。
下に能勢妙見の写真を示します。写真は、http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/nose-myouken.htmlからお借りしました。







このように日本の宗教的な風土では仏教も道教も神道も混淆して、日本独自の信仰対象にしてしまうのです。
ですからこそ日本の宗教は元来の教義や信仰の内容が変化するのが特徴と言えると思います。もちろん宗教の変化はどこの国でも起きますが、日本の変化の様子は非常に独特なものと考えられます。(続く)

門松やお節料理は家庭の幸せの思い出

2014年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム
時代が変わってもお正月が来ると門松を飾り、お節料理を作ります。人それぞれでそれを一切しない人もいます。しかし門松とお節は多くの人々が連綿と続けています。それは美しい日本の風物詩なのです。
何故、多くの人々が続けているのでしょうか。いろいろな理由があるでしょうが、私の場合は門松やお節料理は家庭の幸せの思い出だからです。まだ家内が若く、子供も幼かった頃に家内が熱心に作っていたからです。自分が子供の頃の食糧難の時代に両親が必死でお正月のご馳走を用意していたからです。そのような楽しかった頃の思い出がよみがえって来るのです。
昔は門松は山に取りに行きました。つい数年前までは甲斐駒岳の麓に取りに行きました。しかし最近は買ってきます。昨日、買ってきました。半紙と稲縄で作った飾りをつけて毎年家内と一緒に門扉にとりつけます。それはお正月を迎える小さな儀式のようなものです。
そして家内は今年もお節料理の材料の用意を始めました。
昔は全てのお節は手作りでした。現在は半分完成した料理を売っています。その上、大小さまざまな大きさの重箱に美しく詰めたお節さえ売っています。
家内は何でも手作りしようとしています。作っている最中が楽しいらしいのです。
日本人なら「お節料理」についてはいろいろな想いを持っていると思います。
戦前生まれ、戦後育ちの人々にとっては悲しい思い出がまつわりついています。
戦後は食糧難で材料が無いのです。当時の親たちはお正月料理の準備で苦労したのです。
最近は豊かなになり材料で苦労することが無くなりました。
美しく重箱につめたお節料理を前にして、時々私は、南の島々で餓死した兵隊さんたちへ食べさせたかったと想うのです。
私はお節を見ると楽しい思い出とともに、今でもそのように想いが頭をかすめるのです。
そして現在でも孤独な人々はお節料理を作らないかも知れません。
幸せな家庭でも門松もお節もしない人々もいます。
いろいろな時代と、いろいろな家庭の光景を想像します。
そして幸少ない人々のために、より幸福な新年が来るように心のなかで静かに祈っているのです。

それはさておき、美しいおせち料理の写真をお送りします。
はじめの2枚の高島屋のお節料理の写真の出典は、http://www.takashimaya.co.jp/shopping/special/osechi/0900002064/0900002065//-/です。
続く2枚の三越のお節料理の写真の出典は、http://mitsukoshi.mistore.jp/osechi/nihombashi/index.html;jsessionid=swvsJd1QMPNR7n6cT6QDF2vgvlyn3wYLjFdypGQRBlQnm1WGNmjx!30512671です。
そして、http://erecipe.woman.excite.co.jp/theme/osechi.htmlには非常に数多くのお節料理の作り方が書いてあります。
少しご自分で作って、家族おそろい楽しいお正月をお迎え下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)