後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

札幌の大通り公園の冬のイルミネーション

2014年12月08日 | 写真
大通り公園の冬のイルミネーションをお楽しみ下さい。
11月30日午後1時発の飛行機で羽田を発って、新千歳空港に3時前に着きました。そして午後4時過ぎには札幌の大通り公園を散歩していました。北国の午後4時はすでに真っ暗で、恒例の冬のイルミネーションが綺麗に輝いています。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。











チューリヒ美術館展―印象派からシュルレアリスムまでー

2014年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
チューリヒ美術館展を見に行きました。今日は朝から家を出て、車を六本木のミッドタウンの駐車場に入れて国立新美術館まで歩いて行きました。
展示絵画は有名な画家のものがそろってありましが、どれも最高傑作ではないようで感動しませんでした。しかしムンクの数多くの油彩画あり、この画家の芸術性が楽しかったです。
それと日本ではあまり有名でない画家の作品が多く展示してありました。それらは丁寧に描いてあり、ヨーロッパ文化の香りが感じられました。
添付の写真は 国立新美術館の外観とモネの大作です。
会期2014年9月25日(木)~12月15日(月)
毎週火曜日休館 ただし、10月14日(火)は開館開館時間 10:00~18:00 金曜日は20:00まで
入場は閉館の30分前まで会場 国立新美術館 企画展示室1E
〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2主催国立新美術館、朝日新聞社、テレビ朝日、BS朝日
===以下は主催者側の書いたパンフレットからの転載です====
スイスが誇る美の殿堂チューリヒ美術館のコレクションを、日本で初めてまとめて紹介します。出品されるのは幅6メートルにおよぶモネの大作やシャガールの代表作6点に加え、ホドラーやクレーといったスイスを代表する作家の珠玉の絵画、さらにはマティス、ピカソ、ミロといった20世紀美術の巨匠の作品など、 これまでなかなか来日の実現しなかった印象派からシュルレアリスムまでの傑作70点以上。スケッチや習作がほとんどない、まさに「すべてが代表作」といえるラインアップです。
世界的な金融都市でもあるチューリヒの富と、スイスの人々の美への慧眼を象徴するようなチューリヒ美術館展は、日本とスイスの国交樹立150年を記念する展覧会でもあります。この秋、必見の展覧会です。
チューリヒ美術館とは:
スイスを代表する美術館のひとつで、中世美術から現代アートまで10万点以上の作品を所蔵しています。特に19世紀の印象派以降の近現代美術コレクションの素晴らしさで知られ、スイス出身のホドラーやジャコメッティのコレクションは世界屈指の規模を誇ります。18世紀末にチューリヒの町の芸術家や鑑定家たちが立ち上げた小さな集まりに端を発し、1910年に建物が落成したチューリヒ美術館の運営は、今日でも市とともに、2万人のチューリヒ芸術協会の会員に支えられています。2017年には新館を完成させて、スイス最大の美術館となる予定です。



驚異的な昭和新山(1)三松正夫の世界を驚かせた観測記録

2014年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
札幌の南の洞爺湖のそばにある昭和新山は2つの意味で驚異的は山です。
戦争中の昭和18年12月28日から激しい地震が続発し、昭和19年6月23日に突然噴火を始めて1年余で麦畑に標高398mの巨大な山が出来てしまったのです。
そしてこの火山の成長の様子を当時その地で郵便局長をしていた三松正夫さんが独りで精密に観測して、その観測にもとづいた毎日の成長の図面が世界の火山学者を驚かせたのです。彼の観測結果が昭和22年にノルウエイで開催された世界火山学会で絶賛されたのです。
新山が1年余で出来たということが一つ目の驚きです。そしてその精密な成長の記録がはアマチュアの三松正夫さんによって毎日描かれたという事実が二つ目の驚きです。
そこで今回の昭和新山の訪問は三松正夫記念館を訪れ、彼の観察について詳しく調べるのを目的にしました。
下に示した2枚の写真は12月2日に撮った昭和新山と三松正夫記念館の写真です。


上の記念館に先に着いて入場券を買った家内が、受付の「三松」という名札を付けた中年の男性に「ご子息の方ですか?」と尋ねたところ「いいえ、息子さんは戦死して、私は風に吹かれてここへ来たものです」と笑っていました。
後で調べたら彼は三松正夫さんの娘さんと結婚し、養子になった三松三朗さんでした。実はこの三朗さんは義父の研究を詳しく記録しているのです。ネットの上でもその一部を発表しています。それは「火山誕生を見守り続けた郵便局長三松正夫記念館」
https://www.gsj.jp/data/chishitsunews/04_05_07.pdf です。そして余談ながら彼の息子の三松靖志さんも地元で昭和新山の保全と自然保護の運動をしています。
http://toya-usu-volcanomeister.net/vm_mimatsu/?page_id=2を御覧下さい。
さて、三松正夫さんの観察の詳細は続編にゆずり、下記に昭和新山のことをかいつまんでご紹介いたします。
昭和18年、12月28日突然、激しい地震が始まり、翌年の1944 年6 月23日、遂にその放射状断層群の中心から初めての噴火が始まったのです。その後、麦畑が隆起して次第に高くなった火山は、後に昭和新山と命名されましました。
当時は戦争中のため、食料もなく、フィルム・紙・衣類にも事欠く中で、誰一人として研究する学者もいませんでした。
壮瞥町で郵便局長をしていた三松正夫さんがこの噴火を見守って観測を始めたのです。
「噴火は地球内部を探る最大のチャンス」の教えに従い、寝食を忘れ、創意工夫を重ねてこの活動の一部始終を記録したのです。
さらに昭和21年には、私財をなげうちこの土地を買い取ったのです。ですから昭和新山は三松正夫さんの個人が所有する山なのです。現在は三松三朗さん所有の山のようです。
昭和23年、オスローで開かれた「万国火山会議」に提出されたこの資料は「ミマツダイヤグラム」と名づけられ、多くの火山学者に絶賛されたのです。
国内では、「第一回北海道文化賞」を始め数々の賞を受け、その功績が讃えられました。
昭和52年、生涯3度目の有珠山噴火を体験、その活動の終幕を待たず、12月8日病にて没しました。享年89歳。
自然を愛する三松さんの思いは、昭和新山の麓に銅像として蘇り、息子の三朗さんと孫の靖志さんがこの山を守り続けて行くのでしょう。

上の写真が噴火前の有珠岳(右端の山)の写真で、下が噴火後の写真です。左に昭和新山と尾根の山が盛り上がっています。」現在の観光バスや乗用車の駐車場、多くの土産物屋、そして三松正夫記念館は有珠岳と昭和新山の間の高台にあります。

下の写真は盛んに噴煙を上げながら成長しつつある昭和新山の様子です。

下がオスロの火山学会に発表された「三松ダイアグラム」です。昭和19年5月から約1ケ月毎の山の成長が克明に描かれています。最後は昭和20年9月10日の観測結果が描かれています。
http://wakasaresort.com/usuzan/shouwa/ より。

さて昭和新山は有珠岳火山の子供のような存在です。そこで次回からもう少し視野を広げて有珠岳の噴火と近辺がジオパークとして登録されたいきさつなどを報告したいと思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。
後藤和弘(藤山杜人)