NHKテレビの朝のドラマは日本で初めてスコッチウイスキーを熟成して1929年に発売した竹鶴間政孝さんとスコットランドから連れ帰ったリタ夫人をモデルにしたドラマです。
題名の「マッサン」はリタ夫人が政孝氏をそのように呼んでいたからついた題名です。
このドラマの今後の展開は以下に記したニッカとサントリーの関係が分かれはある程度明らかになると思います。
朝のドラマはご婦人向けなので、日本人と結婚したリタ夫人がが困難にめげずに夫を支え、ウイスキーの製造に成功させるという何時ものパターンです。男性が見てもつまらないと思います。
しかし今回の北海道の旅で小樽から足を伸ばして余市にあるニッカウイスキーの醸造・熟成所を訪問しました。ここはこれからドラマの舞台として登場する筈です。
そこでその工場の風景写真をお送りいたします。
上の写真がリタ夫人と政孝さん夫婦が住んでいた工場内にあった住宅です。その他の5枚の写真にニッカウイスキーの醸造・熟成所の風景を示しました。
そして多く男性が好んで飲むウイスキーの話が出て来ますので幾つかの疑問点を整理いたしました。
(1)スコッチウイスキーの起源(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BCより抜粋)
大麦や小麦を発酵して蒸留する酒は世界中にあります。日本では麦焼酎です。ロシアではウオッカです。同じものがスコットランドで作られるとスコッチウイスキーになるのです。
大麦を原料にした蒸留酒の製法がスコットランドに伝わった時期は、遅くとも12世紀から13世紀にかけてという見解が有力です。製法の要の一つである蒸留技術はアイルランドからキリスト教とともに伝来したとされる。その原料の大麦をピートという泥炭で乾燥、燻蒸したのでウイスキーと呼ばれる蒸留酒になったのです。
スコットランドにおけるウイスキーに関する現存する最も古い記録は、1494年のスコットランド財務省の記録で、「修道士ジョン・コーに8ボルのモルトを与え、アクアヴィテ(aqua vitae)を造らしむ」という内容である。アクアヴィテはラテン語で「生命の水」という意味で、これをゲール語で表すと「ウシュクベーハ」(uisge beatha、ウシュクは水、ベーハは生命の意)となり、そこから「ウイスキー」という英語が生まれた。ウイスキーという単語に関する最古の記録は1736年にスコットランド人が書いた手紙で、1755年には英語辞典に登場しました。
(2)竹鶴政孝さんの1918年の渡英とその後の紆余曲折(http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-5811.htmlより抜粋)
竹鶴家は地元の塩田の大地主として製塩業を営み、その傍ら酒造業も営んでいました。もともとお酒に縁の深い方でした。
竹鶴さんは大学も"大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の醸造学科"ということで、やはりお酒の道を行きます。
そして、卒業間際の1916年3月に当時洋酒業界の雄であった大阪市の摂津酒造 (摂津酒精醸造所) を訪ね入社"することになりました。
当時、"日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで純国産のウイスキーは作られていなかったそうです。そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画。1918年、竹鶴は社長の阿部喜兵衛、常務の岩井喜一郎の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶことになりました。
1920年11月、日本に帰国。帰郷後、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画します。ところが、第一次世界大戦後の戦後恐慌によって資金調達ができなかったため計画は頓挫してしまいました。1922年には摂津酒造も退社。大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えるということで、お酒の世界からも離れることになりました。
(3)壽屋の鳥井信治郎氏との出会いと訣別(http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-5811.htmlより抜粋)
1923年、大阪の洋酒製造販売業者寿屋(現在のサントリー)も"本格ウイスキーの国内製造を企画"。"社長の鳥井信治郎がスコットランドに適任者がいないか問い合わせ"ました。
ここで「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得たため、竹鶴さんにお鉢が回ってきます。"スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じと言われる""年俸四千円という破格の給料で採用"することになりました。
1924年11月11日、山崎工場が竣工されます。"工場は社員は竹鶴のほかに事務員1名がいるのみの小さい工場"だったそうです。
鳥井は最大限、竹鶴の好きなように製造をさせたが、金ばかりがかかって全く製品を出荷しない山崎工場は出資者らから問題にされ、鳥井はやむなくそれとなく発売を急ぐよう指示。出荷ができるほどに熟成した原酒は最初の年に仕込んだ1年分のみで、ブレンドで複雑な味の調整をすることができないため難色を示した竹鶴だが、それ以上出資者を待たせるわけにもいかないということも承知していたので、出荷に同意する。それが国産はじめてのウイスキー
、『サントリー白札』で1929年4月に発売されたのです。ところが、これがさっぱりウケませんでした。
模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人にはあまり受け入れらなかったのです。
鳥井自身は竹鶴がスコッチにあまりにもこだわりすぎるのを疑問視していた節があるともされており、本格ウイスキーの国内製造を企画したとはいえ、あまりに本格すぎるものは望んでいなかったのかもしれません。
これは経営者が利潤にこだわるのに技師は品質だけにこだわるというよくあるパターンです。そして経営者と技師は訣別するのもよくあるパターンです。
よくある例の通り1934年4月に竹鶴さんは寿屋を退社します。路線の違いにより、訣別したのです。
(4)北海道余市でニッカウイスキーを製造し1940年に販売開始
竹鶴さんは当初北海道で…と主張しており、1934年7月に北海道余市町でウイスキー製造のための、大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役専務に就任しました。会社名は何で「大日本果汁」なのか?と言うと、最初はリンゴジュースを作っていたためです。
ウイスキーは1940年からで、「大日本果汁」の「日」「果」をとり、『ニッカウヰスキー』と命名しました。これが現在の社名に繋がっています。
本社の東京移転も1952年(昭和27年)と古く北海道生まれの会社でした。しかし2001年(平成13年)、筆頭株主のアサヒビール株式会社が全株式を取得して完全子会社化されました。現在ニッカが製造する商品の販売及びマーケティングは全てアサヒビールが行なっています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。
後藤和弘(藤山杜人)
余市のニッカ工場は上の写真の正門をはいると大麦の麦芽の乾燥、発酵工場、蒸留工場、ウイスキーの熟成倉庫が並んでいます。熟成には5年、10年と長期間を要するので熟成のための倉庫群がえんえんと続いています。
この熟成倉庫群が一番重要な設備なので写真を3枚掲載しました。
熟成倉庫の中にはウイスキーの樽が幾つも整然と積み上げてあるだけです。