後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ヨーロッッパ文化の俗と聖・・・ハウステンボスと五島の教会群

2015年05月02日 | 写真
ヨーロッパ人の全てがキリスト教徒ではありません。教会に行かない人も多いと言います。しかし熱心な信者もいます。
この世は聖と俗が混じり合いながら存在しています。この両方の対比を分かりやすく示しているのが無宗教のハウステンボスと長崎の教会遺産です。

江戸時代、オランダは無宗教を条件に長崎の出島に商館を持ち続けることが出来ました。一方、イエズス会を中心とするスペインやポルトガルの宣教師たちは厳しい禁教令によって全ていなくなりました。残された信者達は潜伏キリシタンとして250年間、信仰を守り続けました。

長崎にはこの無宗教のオランダの街を再現したハウステンボスがあります。一方長崎には五島列島だけでなく各地に生き返った隠れキリシタン達が建てた教会群が残っています。それらは世界遺産候補として申請も済み来年には正式に世界遺産になりそうです。

ハウステンボスに何度か行きましたが毎度驚くことは教会や修道院の建物が皆無なことです。マリア像や十字架などの宗教臭いものが徹底的に無いのです。
ヨーロッパの街をあちこち旅した人にとってそれは不思議な風景に違いありません。
私も狐につつまれたような気分になりました。

しかし良く考えてみるとハウステンボスはヨーロッパ文化の一面の神髄を表しているように思えます。そして長崎の教会遺産もヨーロッパ文化のもう一つの神髄を示しているとも考えられます。長崎県にこの両方が存在していることがこの地方の特徴的なローカル文化なのでしょう。何かいろいろな歴史をあれこれ考えさせる地方です。

写真は2013年4月15日に撮ったハウステンボスの風景と2015年4月11日の撮った五島列島の中の浦教会と堂崎主堂です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









今日の秋川渓谷の山藤の花、新緑、楽しげな家族連れの川遊びの写真です

2015年05月02日 | 写真
今日も夏日の晴天です。午後から車に冷房を入れ秋川渓谷の養沢を遡って来ました。あちこちに山藤が自然の美しさを見せ、ウグイスがよい声で啼いています。今日は休日なので沢山の家族連れが川遊びをしています。そして養沢国際マス釣り場でも家族連が楽しそうに釣りをしていました。
何時もは人がいななくて淋しい秋川渓谷に、多くの人々が楽しそうにしています。その光景を見て、私も楽しくなりました。日本は平和ですね。
写真をご覧になって楽しんで頂けたら嬉しく思います。









平和な日本の存続のためには戦争の悲劇を忘れるべきではない

2015年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム
戦争の無い平和が70年間も続きました。日本の明維持維新以後初めての幸運な時期です。人々の生活は向上しました。そして、なによりも日本民族の人間性が格段に良くなったのが嬉しいのです。このような平和を永遠に続けるためには二つのことが肝要です。戦争の悲劇を絶対に忘れないことです。そうしてもう一つは賢明な国際外交を展開し、日本が戦争に巻き込まれないようにすることです。
今日はそこで第二次大戦後、今迄知られていなかった満州や南樺太や朝鮮半島で起きた大きな悲劇をとりあげました。
1945年8月の終戦後、満州で旧ソ連に拘束され、収容所に送られた日本人は約57万5000人で森林伐採や鉄道敷設などの強制労働によって約5万5000人が死亡しました。このことは日本人なら誰でも知っている「シベリア抑留の悲劇」です。
しかし昨日の新聞によるとこの他にもソ連がシベリアや満州や南樺太や朝鮮に設置した日本人の収容所で1万人以上の人が死んだのです。強制労働による死亡者の5万5000人にこの1万人を加算すると実に6万5000人以上の日本人がソ連によって殺されたのです。
このニュースを以下に掲載します。
「抑留死名簿新たに1万人、シベリア外2130人」
(http://www.yomiuri.co.jp/national/20150430-OYT1T50146.html)
 厚生労働省は4月30日、第2次世界大戦後に旧ソ連が設置した収容所などで死亡した日本人抑留者のべ1万723人の名簿を新たに公表した。
 このうち、現在の北朝鮮や南樺太(現サハリン)など、シベリア以外の抑留死亡者は2130人。厚労省はこれまでシベリア以外での死亡者の名簿を公表していなかったが、戦後70年となり、遺族への情報開示を進めるため、保有資料をすべて公表することにした。
 名簿は、旧ソ連が作成し、ロシアの国立軍事古文書館や国防省などが開示した死亡者名簿などを基に、厚労省がまとめた。カタカナ氏名と死亡日、埋葬地を明らかにし、日本側資料との照合で身元が特定できた2660人については、漢字氏名と出身地も併記した。
 地域別では、シベリア抑留(ナホトカなど沿海地方を含む)の死亡者が8593人。残る2130人はシベリア以外で、内訳は、▽朝鮮半島北部(現在の北朝鮮)興南地区1853人、元山地区11人▽中国・大連178人▽南樺太・千島列島88人――だった。
 ただ、抑留中に死亡したのに名簿に氏名がない人もおり、厚労省はロシア側の資料をすべて取得できたわけではないと思われる。
 抑留死亡者の調査を巡っては、1991年に来日した当時のゴルバチョフ大統領からシベリアでの死亡者名簿(約3万7000人分)が提供されたのを機に、旧厚生省が本格着手。原則、身元を確認して公表してきた。シベリア以外の死亡者名簿も、2000年以降に入手していたが、シベリアの調査を優先して公表はしていなかった。
 塩崎厚労相は30日、「公表が遅れたことは申し訳ない。ご遺族の問い合わせに応じ、身元の特定に努めたい」と述べた。以下省略。
終戦時に満州には166万人の日本人がいたと言われています。そのうち20万人が飢えや伝染病で死んだと言われています。この事実は多くの本も出版され広く知られています。
しかしソ連が急進撃で占領した北朝鮮でも在留日本人の20万人のうち3万5000人が犠牲になって故国の土を踏めなかったのです。北朝鮮のことはあまり知れらていない事実なので詳しくかきます。出典は、http://www.asyura2.com/13/warb12/msg/211.htmlです。
終戦直後、北朝鮮にいた20万人以上の日本人は、終戦から1年4か月もの間、日本への引き揚げが許されなかったのです。そのため、収容施設で飢えと寒さの中、次々と死亡しました。生き延びた人はソ連軍の監視をかいくぐり、38度線を越えて自力脱出を試み、その途中で多くの人が亡くなったと言われています。
なぜ北朝鮮からの引き揚げは、台湾、南朝鮮、満州などと比較して大幅に遅れ、およそ20万人もの大量の日本人民間人が命がけの自力脱出に追い込まれるという悲劇が生まれたのでしょうか? 閉ざされた国、北朝鮮で起きたこともあり、終戦直後の日本人に何があったかを明確に示す客観的な資料は見つからず、謎は戦後70年近くもたなざらしになってきたのです。
ところが最近になって、日本や韓国の若手専門家たちが、新発見の資料から北朝鮮引き上げの謎に迫る研究成果が相次ぐようになってきたお蔭で以上のようなことが分かったのです。

戦争の悲劇はこのように各地で起きました。この悲劇は日本の敵国だった中国の各地でも起きたのです。勿論、日本の領有していた朝鮮でも強制連行や軍属の徴集が大規模に行われ、いろいろな悲劇が起きました。中国では1000万人以上の人々が犠牲になったのです。
悲劇はそれぞれ皆違います。違う場所で、違う内容の悲惨な事件が起きたのです。
この悲劇を丁寧に調べ上げ、絶対に忘れないことが平和を永久に続ける為に非常に重要だと信じています。今日の挿絵の写真は昨日、薬用植物園で撮って来た花の写真です。上から順にアヘンの原料になる本物のケシの花、アヘンの原料にならないヒナゲシの写真2枚、シランの写真、そして最後は白シランの花です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)