軽井沢から小諸の懐古園を訪れて、八ヶ岳の清春へ向かってドライブしたのは5月8日のことでした。雄大な八ヶ岳の山麓を走る国道141号線が佐久穂町にさしかかると、「日本一美しい白樺の群落・・・八千穂高原入口」という看板があります。「白樺の群落」ならもう一度出直してその八千穂高原へ行きたいと思いました。
何故かシラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。
そこで昨日片道200Kmのドライブですが家内とともに行ってきました。
その佐久穂町は長野県ですが、県境を越えた山梨県側は北杜市になります。実はその北杜市には清春白樺美術館があり、何度も行った所です。
西洋のロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの芸術を日本に紹介した白樺派の文学者や画家の作品が展示してあります。そのことも私の心をシラカバに向けたのかもしれません。
昨日、八千穂高原に上がってみると見事な白樺林が広がっていたのです。林の奥の奥まで白い幹が見通せるのです。奥深い森です。白樺林は北海道でも見ました。富士山の4合目でも沢山見ました。高原に行けばそんなに珍しいものではありません。
しかし八千穂高原の群落はその広さと樹木の数で感動します。案内書によるとに八千穂高原には、約200haの高原に50万本の白樺林が群生しているそうです。
数が多いだけでなく白い幹がなんとも優美な雰囲気をかもし出しているのです。
その上、駒出池や八千穂レイクがありその周囲にも白樺があるのです。
それは白樺が作り出す不思議な別世界です。
何となく白樺派の高村光太郎の「智恵子抄」にある二つ詩の冒頭の部分を思い出しました。
結婚したばかりの頃に、妻がこの詩を私に教えてくれたのです。
「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。」と、もう一つの詩の「あれが阿多多羅山(あたたらやま) あの光るのが阿武隈川」です。しかしその先を忘れてしまいました。
それはさておき、清春白樺美術館には智恵子の描いた油彩画が一枚だけ展示してあったことも思い出しました。「樟」を描いた青緑の絵です。彼女が精神を病んで、病院で作った花々の切り絵も数多く展示してありました。
八千穂高原では高村光太郎と智恵子のことをあれこれ想いました。
帰宅後、二つの詩の全文を調べました。以下にお送りいたします。
智恵子抄:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
「あどけない話」
智恵子は東京に空が無いといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間(あいだ)に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
あどけない空の話である。
「樹下(じゅか)の二人」
あれが阿多多羅山(あたたらやま)
あの光るのが阿武隈川(あぶくまがわ)
こうやって言葉すくなに坐っていると、
うっとりねむるような頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬の始めの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを、
下を見ているあの白い雲にかくすのは止しませう。
・・・・以下省略
高村光太郎の彫刻の十和田湖畔の「乙女の像」も思いいしました。
光太郎の晩年は戦争遂行に協力したことを恥じ岩手県の山間に身を引きます。そして、そして7年間もの懺悔の謹慎生活に入ったのです。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去ったのです。享年73歳。
そんなことを想う小さな旅でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====
日本一美しい白樺群生地:http://yachiho-kogen.jp/sightseeing/shirakaba/index.php
八千穂高原は北八ヶ岳の東麓に広がる自然豊かな高原。この広大な八千穂高原には、約200haの敷地に50万本の白樺林が堂々と植生し、その群生は日本一にふさわしい優美さ。
清春白樺美術館:http://www.kiyoharu-art.com/museum/index.htm
1983年(昭和58年)に清春芸術村の施設として建設された清春白樺美術館は、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです。
白樺派:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%B4%BE
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。
高村光太郎:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
愛妻の智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争賛美の詩を作ってしまう。終戦後、彼は旗振り役となって戦争遂行に協力したことを恥じると共に、これをいっさい弁明せず、岩手県花巻郊外の山間に身を引いた。そして、62歳から69歳まで7年間もの懺悔の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。
上が八千穂レイクで下が駒出池です。
何故かシラカバ林は私の好きな風景です。若い時から憧れていた風景なのです。
そこで昨日片道200Kmのドライブですが家内とともに行ってきました。
その佐久穂町は長野県ですが、県境を越えた山梨県側は北杜市になります。実はその北杜市には清春白樺美術館があり、何度も行った所です。
西洋のロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンらの芸術を日本に紹介した白樺派の文学者や画家の作品が展示してあります。そのことも私の心をシラカバに向けたのかもしれません。
昨日、八千穂高原に上がってみると見事な白樺林が広がっていたのです。林の奥の奥まで白い幹が見通せるのです。奥深い森です。白樺林は北海道でも見ました。富士山の4合目でも沢山見ました。高原に行けばそんなに珍しいものではありません。
しかし八千穂高原の群落はその広さと樹木の数で感動します。案内書によるとに八千穂高原には、約200haの高原に50万本の白樺林が群生しているそうです。
数が多いだけでなく白い幹がなんとも優美な雰囲気をかもし出しているのです。
その上、駒出池や八千穂レイクがありその周囲にも白樺があるのです。
それは白樺が作り出す不思議な別世界です。
何となく白樺派の高村光太郎の「智恵子抄」にある二つ詩の冒頭の部分を思い出しました。
結婚したばかりの頃に、妻がこの詩を私に教えてくれたのです。
「智恵子は東京に空が無いといふ。ほんとの空が見たいといふ。」と、もう一つの詩の「あれが阿多多羅山(あたたらやま) あの光るのが阿武隈川」です。しかしその先を忘れてしまいました。
それはさておき、清春白樺美術館には智恵子の描いた油彩画が一枚だけ展示してあったことも思い出しました。「樟」を描いた青緑の絵です。彼女が精神を病んで、病院で作った花々の切り絵も数多く展示してありました。
八千穂高原では高村光太郎と智恵子のことをあれこれ想いました。
帰宅後、二つの詩の全文を調べました。以下にお送りいたします。
智恵子抄:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
「あどけない話」
智恵子は東京に空が無いといふ。
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間(あいだ)に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとうの空だといふ。
あどけない空の話である。
「樹下(じゅか)の二人」
あれが阿多多羅山(あたたらやま)
あの光るのが阿武隈川(あぶくまがわ)
こうやって言葉すくなに坐っていると、
うっとりねむるような頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬の始めの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでいるよろこびを、
下を見ているあの白い雲にかくすのは止しませう。
・・・・以下省略
高村光太郎の彫刻の十和田湖畔の「乙女の像」も思いいしました。
光太郎の晩年は戦争遂行に協力したことを恥じ岩手県の山間に身を引きます。そして、そして7年間もの懺悔の謹慎生活に入ったのです。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去ったのです。享年73歳。
そんなことを想う小さな旅でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料====
日本一美しい白樺群生地:http://yachiho-kogen.jp/sightseeing/shirakaba/index.php
八千穂高原は北八ヶ岳の東麓に広がる自然豊かな高原。この広大な八千穂高原には、約200haの敷地に50万本の白樺林が堂々と植生し、その群生は日本一にふさわしい優美さ。
清春白樺美術館:http://www.kiyoharu-art.com/museum/index.htm
1983年(昭和58年)に清春芸術村の施設として建設された清春白樺美術館は、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです。
白樺派:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%A8%BA%E6%B4%BE
大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、自然主義にかわって1910年代の文学の中心となった。特にロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。
高村光太郎:http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
愛妻の智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争賛美の詩を作ってしまう。終戦後、彼は旗振り役となって戦争遂行に協力したことを恥じると共に、これをいっさい弁明せず、岩手県花巻郊外の山間に身を引いた。そして、62歳から69歳まで7年間もの懺悔の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。
上が八千穂レイクで下が駒出池です。