後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

山藤の花の写真をお楽しみ下さい

2015年05月13日 | 写真
先週の土曜日に甲斐駒岳の麓の小屋の周囲で撮って来た写真です。
庭に植えてある藤と全く同種ですが、山では藤棚を作る人がいませんので藤の蔦はクヌギやコナラやカシワの木々に絡みつき、その梢まで登って花を咲かせます。
遠方から見ると藤の木があってその枝に花が咲いているように見えます。なんとなく夢幻の世界の花のようです。この風情が好きで季節になると山林の中の小屋の小川の周囲の藤の花をしみじみ見に行きます。
最後の写真がその小川の様子です。
山藤の花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









旅の趣味(4)八ヶ岳、清里の清泉寮に泊まる

2015年05月13日 | 旅行記
旅にはそこはかとない目的があります。今回、軽井沢に泊まり、小諸の藤村記念館を訪れ、そして曾遊の松原湖をめぐり、二日目には八ヶ岳高原の清里にある清泉寮に泊まりました。
これにはかなりはっきりした目的があったのです。
先月の4月中旬にキリシタンの美しい教会群のある長崎の五島列島を旅しました。八ヶ岳高原の清里にある清泉寮に泊まったのはその続きのようなものでした。
清泉寮はアメリカの聖公会の宣教師のポール・ラッシュによって昭和13年に作られた宿泊施設です。ポール・ラッシュはやはり聖公会のウィリアムズ主教によって1874年に作られた私立学校の後身にあたる立教大学の教授をしていたのです。
ところが日本の真珠湾攻撃が始まった戦争でそのポール・ラッシュは敵性外人としてアメリカへ強制送還されたのです。日本へ再び行きたい彼はアメリカ軍の将校になりマッカーサーの占領軍の一将校としてやって来たのです。そして清泉寮を復興し、清里地域への開拓民の定着を促進したのです。それまでは清里地域は人の住まない山地だったのです。
現在、清里周辺で高原野菜を栽培したり牧畜をしている人々はでそのポール・ラッシュと清泉寮を大切にしています。
近年はジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームが爆発的な人気を博し若者が多数清里を訪れるようになりました。
現在、清泉寮は設備の良いホテルとして一般の人々も宿泊出来ます。新館と旧館がありますが新館のほうが施設が良く、その奥にはポール・ラッシュの記念館もあります。
普通のホテルと違うところは館内に聖公会の礼拝堂黙想室があることです。礼拝堂で少しお祈りをして来ました。
それでは写真で清泉寮の近辺の風景を示します。

上と下の写真は八ヶ岳の風景です。雲が多くて暗かったのですが残雪を頂いた峰々がまじかに見えていました。



上は八ヶ岳高原の開拓地の風景です。戦後に開拓された畑で、おもに高原野菜を東京へ出荷しています。寒冷地なので風景が北海道に似ています。

上は清泉寮の新館の入り口です。宿泊の受け付けは全て新館のみで行っています。

上は乳牛牧場で、この脇の売店でジャージー種の牛乳で作ったソフトクリームを朝9時から販売しています。
この八ヶ岳高原の清里地域は戦前は人のいない荒地だったのです。それが一人のアメリカ人によって開拓が進み、現在は観光地として有名になっているのです。日本のいろいろな地方の歴史のなかでも興味深い地方史になっています。そんなことを考えさせる旅でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料==========
清泉寮を作った人:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B3%89%E5%AF%AE
清泉寮は、現在ではロッジ、コテージ、レストラン、キャンプ場などを有する宿泊・研修施設であるが、建設当初の1938年(昭和13年)は、清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが指導したKEEP(Kiyosato Educational Experiment Project:清里教育実験計画)の一環としての日米協会青年活動によるキリスト教研修の中心施設であった。当時まだ貧しかった山梨県のこの地に大きな可能性をもたらし、キリスト教信者のみならず多くの人をひきつけた。清泉寮という名称は、1937年(昭和12年)秋に現地を視察した立教大学の高松孝治教授司祭により名付けられた。
以下は省略します。でも続きは是非、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B3%89%E5%AF%AE を開いてご覧下さい。面白いですよ。

立教大学作った人:http://www.rikkyo.ac.jp/aboutus/philosophy/spirit/history/
創設者ウィリアムズ主教は1829年7月18日、アメリカ合衆国ヴァージニア州リッチモンド市で生まれる。ヴァージニア聖公会神学校を卒業後中国派遣宣教師に任命され、1856年6月 に上海に到着。1859年日本に派遣され、同年6月に長崎に到着。幕府のキリスト教弾圧の中、伝道に務める。1866年に一旦帰国した後、中国および日本伝主教となり中国と日本の新拠点として武昌と大阪を開拓。1874年2月に築地に立教の前身となる私塾を開く。1889年、後進に道をゆずるべく主教職を辞任。1895年京都に移り関西地方の伝道に生涯最後の力を注ぐ。1910年12月2日、故郷リッチモンド市で生涯を終える。 享年81。