山梨県の西端の甲斐駒岳や八ヶ岳の麓は北杜市と言います。水田や畑の広がる農村地帯ですが山地も多い場所柄です。
その山地の森の中のあちこちに質素な別荘が建っています。多くの別荘は週末だけ都会からの人で賑わいますが、平日は誰もいない淋しい森が広がっています。人がいなくなると鹿や猪や狐が森の奥から出て来ます。
そのような別荘の幾つかに都会を捨てて引っ越してきた人が住んでいます。大抵は年老いた孤独な男性です。鹿や猪や狐とともに暮らしているのです。時々は猿の群れが家の近くで遊んでいます。
私の山の小屋のまわりにも独りで住んでいる人が数人います。亡くなった方も3人ほど知っています。
人は何故、都会の生活より森の中の生活を選ぶのでしょうか。私は小屋に行くたびに独りで住んでいる人々の家を訪ねます。森の毎日の様子や天気のことを少しだけ聞いて帰ってくるだけです。
「何故、お独りで森の中で暮らしているのですか?」という質問は絶対にしません。
しかし幾つかの理由は何となく分かります。
職場での人間関係のわずらしさから離れる為に停年後に移り住んだのかも知れません。
都会の喧騒が嫌で静かな森の中に移り住んだ人もいるでしょう。
奥さんが早く亡くなったので彼女の良い思い出を大切に心に抱き、移り住んだのかも知れません。
あるいはもともと独身を通うしていたので、早めに停年にして憧れの自然の中に移り住んだ人もいます。
そのように森の中に独り暮らしをしている人は何故か毅然としています。他人を頼りにしていません。
そして野草の花々が好きです。猿に食べられないように金網の中でシイタケやクリタケを栽培しいています。金網の中や屋上に花々を咲かせています。人に頼らず独立独歩の生活を楽しんでいます。訪ねて行くと礼儀正しく優しく迎えてくれます。
まだ元気で車が運転出来る間は県境を越えて長野県の観光地を巡ります。
山地といっても少し里に下れば大型のスーパーもホームセンターもあり生活には困りません。
しかし年老いて車が運転出来なくなると大変なのです。
食糧や生活に必要な物資は宅急便で取り寄せます。電話やインターネットで注文するのです。
私の小屋の近所に独りで住んでいたNKさんは大工さんでした。近所に小さな別荘を幾つも建てて、売っていました。小型のブルドーザーを持っていて道普請もします。冬は除雪もします。井戸も掘り自家水道も作りました。私もいろいろ助けられました。
そんなに元気だったNKさんも年老いてからは宅急便で食料品を取り寄せていました。
そのうち病気が悪くなり何度か救急車で町の病院に入院していました。
その彼も2年ほど前に亡くなりました。幸い親孝行の娘さんがいて都会の家に引き取り、みとったということです。
その他にも、私の小屋の上の方の白樺林の中のログハウス風の小さな別荘に住んでいた人がいました。一生東京にある共産党本部に勤めていたOTさんです。森の中の散歩が好きで私の小屋の前をよく通りました。礼儀正しく挨拶をしてくれるので庭のテーブルに誘いお茶やコーヒーを一緒に飲みます。柔和な性格なので家内も親しくなりました。そのうち問わず語りに共産主義に打ち込んだ一生をポツリポツリと話していました。
いろいろ聞きましたが昔は警察の監視が厳しくて辛い生活だったそうです。しかし一度も警察の厄介にはならなかったそうです。
本部事務所では徳田球一や野坂参三の下で事務的な仕事をしていたそうです。
徳田球一は親分肌で親しみを持てたそうです。一方、野坂参三は緻密な性格で、事務用紙を100枚渡すと一枚一枚自分でも勘定していたなどと話していました。
地元の人々とも打ち解けて山の生活を楽しんでいる様子でした。あるとき近所で買うパンは美味しくないと言います。それで家内が東京のパンを届けたらとても喜んでいたこともありました。
そのOTさんも3年ほど前に認知症が悪くなり森の中を徘徊し、朝になっても帰って来なくなったのです。優しかったOTさんを慕っていた地元の人々が捜索隊をつくって森の奥まで探しに行きます。そしてついに発見したそうです。東京の息子が引き取り埼玉県の施設に入ったそうです。
その後、OTさんが懐かしく彼の別荘を何度か訪ねました。ある時は娘さんが来ていました。そしてある時は息子さんに会いました。OTさんは元気ですが何も分からなくなったと言います。すっかり遠方に行ってしまったような感じがしています。
そんな別荘の散在している山地の様子を示す写真をお送りいたします。
一番目の写真は森の奥に入って行く道路です。奥に甲斐駒の山並みが写っています。
二番目の写真は悪路を2Kmほど上った伐採地の様子です。このさらに奥にNKさんやOTさんの住んでいた別荘があります。
三番目の写真は森の中に散在している別荘の一です。この別荘の主のNKさんとも親しかったのですが数年前に亡くなってしまいました。
四番目の写真はこの別荘地で自分で撮った野生の鹿の写真です。夫婦の2頭のうちの一頭です。
五番目の写真は数年前小屋の前に遊びに出て来た狐の写真です。このほかに猿や猪が沢山棲んでいます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料=======================
徳田 球一(とくだ きゅういち、1894年(明治27年)9月12日 - 1953年(昭和28年)10月14日)は、日本の政治運動家、革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、戦前の非合法政党時代より戦後初期に至るまでの日本共産党の代表的活動家で、戦後初代の書記長を務めた。徳球の愛称で知られる。
沖縄県名護市出身。家業は印刷屋。「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。旧制沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)卒後、旧制第七高等学校に入学するも、教官の琉球出身者に対する差別に反発して退学、苦学して日本大学の夜間部を卒業、弁護士になった。1920年(大正9年)、日本社会主義同盟に参加。1921年(大正10年)にソ連を訪問。1922年(大正11年)、非合法の日本共産党(第一次共産党)結成に参加。中央委員に選出される。以下省略。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%90%83%E4%B8%80
野坂 参三(のさか さんぞう、1892年(明治25年)3月30日 - 1993年(平成5年)11月14日)は、日本の政治家、日本共産党議長、コミンテルン(共産主義インターナショナル)日本代表、日本共産党の第一書記を務め、名誉議長となる。衆議院議員(3期)・参議院議員(4期)。初名は小野参弎(おの さんぞう)。中国では岡野進と称した。ペンネームは野坂鉄嶺、野坂鉄など。
山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弎と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原喜重郎内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎は義兄、龍夫人の姉婿。
明治31年、明倫尋常小学校入学、萩中学校を経て、県立神戸商業学校(現・兵庫県立神戸商業高等学校)に進学。在学中論文に「社会主義を論ず」を発表して教師からひどく叱責される。明治45年、慶應義塾大学理財科に入学し、在学中に友愛会や新人会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年(大正8年)友愛会の派遣でイギリスに渡り、英国共産党に参加する。帰国後、第一次共産党結成に参加。1923年(大正12年)6月5日の第一次共産党検挙事件に際してソ連へ密航した。以下省略。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%9D%82%E5%8F%82%E4%B8%89