後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

江戸時代初期の農家の実態を示す復元家屋

2015年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
いろいろな博物館に行くと縄文時代の竪穴住宅を復元したものがよく展示してあります。
中には家の中心にある炉の火にあたりながら一家が団欒している様子まで再現したものがあります。ああ、家族とは良いものだと微笑みが湧いてきます。
弥生時代になると竪穴式ではありますが軒が上がって藁壁に窓がついて屋内から外が見えるようになります。あるいは高床式の家も少しあったようです。
しかし柱は全て地面に埋めて立てた掘っ立て柱です。縄文時代と基本的には同じ構造です。
この構造は平安時代、から鎌倉時代まで広く農村では用いらていた農家の構造だったと言われています。
ところが博物館にはいろいろな時代の普通の農家の復元展示がありません。
川崎市の「古民家園」に行くと数十棟の古民家を移築し整備した展示があります。しかし大部分は江戸中期以降の豪農の家です。金持ちの網元の家です。立派な宿場の旅籠です。
要するに普通の農民の暮らしぶりが分かる江戸初期の農家がないのです。
ところが小平市「ふるさと村」には江戸時代初期の農家が復元、展示してあるのです。
農家の構造を詳細に書いた古文書に従って忠実に復元した農家なのです。
先日その写真を撮って来たので下に写真に従ってご説明いたします。

この写真のように軒が低く、出入りには頭をぶつけます。入り口には板戸がついていません。筵などを下げていたようです。右に入り口があり、左の方に奥の間の明り取りに大きな窓が開いています。
この農家には部屋が3つしかありません。南に大きな窓のある割り竹敷の奥の間と、北奥の筵敷の寝室と、土間に筵を敷いた囲炉裏のある部屋の3つです。その他に入り口から裏口へ続く広い土間があります。

この写真は入り口から裏の出口までの様子を示します。家の柱は立派な丸太を使っていますが地面に深く埋めた「掘っ立て柱」であることは縄文時代と変わりません。

上の写真は家の左の方にある奥の間の明り取りの窓から家の中を撮った写真です。奥の間には割り竹が敷いてあり畳は使われていません。奥の間の向こうに囲炉裏が見え、その向こうに裏口が明るく開いています。写真の中心に大黒柱が立っていますが、これも地中深く埋めた掘っ立て柱です。

この写真は家の土間に入って、囲炉裏の右奥にある寝室の光景を撮った写真です。割り竹を敷いて、その上に藁を編んだ筵を何枚も敷いています。極寒の夜のには蒲団だけでなく藁をかぶって寝たという記述が、あの有名な「北越雪譜」の一節にあったのを思い出します。

上の写真はこの家で唯一の火の気のある場所です。囲炉裏です。
この農家には釜戸などは一切ありません。入り口を入ると広い土間がありますが釜戸や流しや炊事用具が一切ありません。
しかし鉄鍋、鉄瓶、まな板、包丁くらはあったはずです。汲んで来た水を入れて置く水瓶や食器はあったと想像出来ます。
食事のための煮炊きは全て囲炉裏一つでしていたのです。冬の暖房も囲炉裏一つです。
この囲炉裏を囲んで家族が笑いながら楽しく暮らしていたのでしょう。
江戸時代中期以降の豪農の家とはあまりにも違います。驚くほど違います。
しかし何時の時代も雨露を防ぐ家があって囲炉裏が一つあれば幸せです。その上、家族に囲まれた生活なら、たとえひもじい時があっても幸福な人生だったに違いありません。
現在の贅沢な暮らしをしみじみと反省しながら、ずいぶん長い間、この農家の囲炉裏のそばに佇んでいました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========
「江戸時代初期の農家の復元展示」

http://kodaira-furusatomura.jp/institution
この建物は、江戸時代初期の小平開拓当初の農民住居を復元したものです。
小平の開発にあたって、開発名主であった小川家に残る小川家文書(東京都指定有形文化財)によると、「間口を広く、奥行きを狭く建て、建方は丸太の柱を掘立にし、藁または茅麦藁(かやむぎわら)等で屋根を葺き、細竹を編んだ床、あるいは籾殻(もみがら)、藁屑(わらくず)等を敷きその上に莚(むしろ)を敷く。木材は、桁・梁は松、柱は栗材を使用。外壁は茅、麦藁で囲ったもの」と記されています。
この住居は二人用の住宅で、間口三間半、奥行二間の上屋の外側に、三尺の下屋(げや)がつくものです。古文書に従い古い工法や、かつて使われていたものと同じ材料(材種)を使用して復元したもので、当時の生活がうかがえる建物です。