後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「別世界とはこういう所?・・・この世とあの世は同じもの?」

2015年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム
平凡な日常に退屈すると、時々開いて見る本があります。 片岡佳哉さんが書いた「ブルーウオーター・ストーリー」という航海記です。小さなヨットで単独航海を続け南極まで行ったのです。その8年にわたる世界一周単独帆走記には想像もつかない別世界が紹介されています。
今日は 片岡佳哉さんが書いているHPの「青海」からマゼラン海峡とホーン岬の「余話3」をご紹介いたします。
====片岡佳哉著、余話 3 魔物の住みかチリ多島海======
http://aomi-sailing.com/bws/bluewater-story-yowa3...
地球上には、この世のものと思えない景色と体験が存在することを、少しでもお伝えしたいと思い、この回を書きました。もしかすると、この世とあの世は同じもので、それらに区別はないのではと、不思議な気持ちになったのです。
場所は地球の裏側、南米南端に近いチリ多島海です。ここには無数の島々が日本の本州ほども長く続いているのです。
半信半疑でした。これほど島々の多い海域を、一人で航海できるでしょうか? 途中で疲れても、怪我をしても、交代してくれる人はありません。外洋の航海とは違い、少しでも見張りを怠ると、たちまち島々に衝突する危険がありました。

正直な話、島々の間の航海は外洋航海に比べ、かなり難易度が高いと思うのです。島という障害物の間を安全に、ガイドなしで通過するには、海図を読む力、事前にローカルインフォメーションを収集する脳力、そして夜間や荒天時のアンカリング技術等々、数多くの事を学ばなくてはなりません。
しかもチリ多島海では、島々の複雑な地形によって増幅された烈風、アンデスの吹き下ろしとも言われるウィリウォウが吹くというのです。日本の小型ヨットによる多島海全域通過の記録はそれまで例がなく、しかも以前にアメリカのヨットが南米南端ホーン岬の手前で座礁して、チリ海軍に救助されていたのです。

わずか3馬力半のエンジンしか持たない<青海>で、しかもたった一人、無数の島々の間を無事に航海できるのか、自信は全くありませんでした。
にもかかわらず、<青海>がチリ多島海に向かったのは、日本を出発する前にハルロス著「ホーン岬への航海」(翻訳:野本健作)と出合っていたからでした。

それはアメリカ人夫婦が35フィートのウィスパー号に乗り、延々と続く島々の間を走ってホーン岬を目指した記録です。ウィスパー号は何度もウィリウォウに襲われて錨が滑り、ついにはホーン岬に近い島の上に座礁してしまいます。が、彼等はセールでテントを作り、一週間以上も野営して、チリ海軍の救助を待ったのです。

結局、彼等は壊れたヨットを修理してホーン岬を回り、その後も旅を続けるのですが、その航海を記した本の文章と写真は、チリ多島海の空気、風、景色を強烈に伝えてくれました。

そこには、町の生活に慣れてしまった現代人の知らない世界、いや、おそらく忘れた世界、潜在意識の中に太古からの記憶として埋もれているかもしれない世界が広がっていたのです。

それは怖くもあり、少し懐かしくもあり、しかも不気味な、実に不思議な光景でした。地球上には、これほど神秘的で魅力的な景色が存在するのに、まるでカゴに入ったハツカネズミのように、町の中をグルグル回りながら生きているのは、我慢出来ないとも感じました。

そこで、日本を出る前に東京のチリ大使館を訪ね、「海軍武官」という肩書きのチリ人から航海の助言を受けたのです。また、後に太平洋を横断して着いたサンフランシスコでは、多島海を通過するために必要な数種類の錨やロープ類、米国防総省発行チリ多島海図を全て揃え、<青海>も念入りに整備しました。

ところで、パナマ運河を通らずに世界一周するヨットは、北極海回りの特殊な例を除き、南米大陸の南を走ることになりますが、その一つがマゼラン海峡経由、もう一つがホーン岬経由のコースです。

そのどちらを選択した場合でも、通常は南緯40度や50度という、南太平洋の荒れる海域を走らねばなりません。しかし、チリ多島海を通ってマゼラン海峡やホーン岬に向かえば、無数の島々が波浪からヨットを守ってくれるのです。大波による転覆のリスクを軽減するためには、チリ多島海経由の世界一周がよいかもしれません。

ただ、前述のようにチリ多島海通過は別の面で危険を冒すことになりますし、マゼラン海峡やホーン岬を無事にクリアできたとしても、その後には大荒れの南大西洋が待っていることに、少しも変わりはないのです。

でも、いずれにせよ、<青海>でチリ多島海を目指すことにしたのです。どうしてもその景色を見たいと熱望していたのです。地球の果ての想像を絶する山と海、うわさに聞く秘境の中、命をかけて全力をつくしてみようと、心に強く決めたのです。(終り)







秋の果物、あけび、栗、柿の思い出

2015年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム
秋になりました。
店には秋の果物が美しく並んでいます。戦中、戦後に仙台市に育った頃は秋の果物といえば柿と栗しかありませんでした。冬になれば青森の林檎や静岡のミカン並びがましたが、一般的に果物は貴重品でたまにしか食べられませんでした。
そんな時代に郊外の八木山の森深く入って行くと不思議に山栗が沢山落ちているところを一度だけ発見したのです。それは踊り上がるような歓喜でした。
栗の実を拾い集めてからさらに森の奥に入って行きますた。と、不思議な果物がつるにぶら下がっていたのです。それは淡い紫色になったアケビでした。
すぐに取って、中の果実を口に入れると、やさしい穏やかな甘味が広がります。その甘味は砂糖のように強くなく、ほのかな甘味ですが、何故か体中が幸せになるような感じがします。
この世の果物ではないような味です。幻想的な味です。
それ以来、野生のアケビを探して八木山の奥に毎年のように入りましたが、なかなか見つかりません。まさしく幻の果物でした。
・・・それからいろいろな事がありました。
1975年になって山梨県の甲斐駒岳の麓の森の中に小屋を建てました。初めて行ったときに小川の向こうに何と、あの幻の果物のアケビが実っていたのです。薄紫色のアケビが3個ぶら下がっています。
少年の頃。仙台の八木山でアケビを見つけた時の歓喜がよみがえります。
そこでその小屋の名前を「あけび荘」とし、彫刻用の木版に彫って小屋に取り付けました。
・・・それからまたいろいろな事がありました。
1990年に琵琶湖で中古のヨットを買って、霞ヶ浦のマリーナまで陸送しました。その時、ヨットの店の人に「あけび号」と船首に書いて下さいと頼みました。
霞が裏に浮かんだ「ヤマハ19」の白い船首の両側に墨黒々と「あけび号」と書いてあります。その後、少し大きな中古ヨットにしましたが、その登録名は「あけびⅡ号」としました。
アケビの実は不思議です。
いつもは忘れているのに人生の折り目、折り目に心の中から出てくるのです。そして八木山の奥でアケビを発見した時の歓喜がよみがえってきて幸せな気分になるのです。
今朝の読売新聞に下の句がありました。

「あの頃のほのかに甘き通草(あけび)かな」  松井矢菅

写真にあけびや秋の果物の写真を示します。
あけびの写真の出典は、http://www.geocities.co.jp/Foodpia-Olive/2344/recipe/oba-chan/akebikawa.htmです。
栗の写真の出典は、http://blog.goo.ne.jp/syumi-uu/m/200609です。
秋の果物の写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=22654001497&GroupCD=0&no= です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)