いきなり私事で恐縮ですが祖父がお寺の住職をしたいたので幼い頃からお経に馴染んでいました。誰もいない本堂は良い遊び場でした。墓地も隠れん坊遊びには丁度良かったのです。
そのせいか大人になってもお寺や墓地の散歩は好きなもの一つになってしまいました。
散歩をしていると楽しかった幼少の頃のことが思い出されるのです。
そして墓地を散歩しているともう一つとても深い感動を覚えるのです。
一面に整然と並んでいるお墓を見るとそのお墓を建て、墓参りをしている遺族の一人一人の優しさが感じられます。人間の素晴らさを思い嬉しくなるのです。
そして墓石一つ一つにお釈迦さまが分け隔て無い慈悲を与えていると感じるのです。一切衆生悉有仏性としてお釈迦さまは全ての人の悟りと救済を願っているのです。
そんな訳で私はお寺に行けば必ずのように裏にある墓地を散歩します。
近所の都立小平墓地と都立多摩墓地は広大で樹木も多いので散歩の楽しい場所です。
そして特に好きな場所は多摩墓地の一角です。
そこには都内で亡くなった薄倖な無縁仏の墓碑が並んでいるのです。この世では孤独で幸いの薄かった人々の共同のお墓なのです。
そして「倶会一処(くえいっしょ)」と書いてあるのです。
その意味は先に浄土に往生している先祖たちと、共に同じ浄土に生まれたいと思う心持ちを表したものであるし、また同じ浄土へ往生させていただくことを喜ぶ姿も意味しているのです。
この世で全く孤独で不幸だった人も亡くなれば多くの先祖や親類、そして友人たちと一緒に楽しく過ごせるという意味なのです。
この無縁仏の共同のお墓は東京都のお役人が作ったのです。素晴らしいお役人たちです。
その都庁のお役人たちが作った無縁仏の共同のお墓の写真を示します。




これらのこの世では薄倖だった人々の共同のお墓は明治5年からの歴史があるのです。
それは明治5年に渋沢栄一が中心になって作った貧民共済施設の養育院の死者のお墓から始まったのです。渋沢栄一は日本の経済を大きく発展させた有名な人物です。しかしその一方で貧民救済事業にも力を注ぎ無縁仏のお墓も作ったのです。
最後の5枚目の写真はこの歴史を書いた説明板の写真です。

写真を拡大してご覧になれば鮮明な字が読み取れます。
さて養育院の創立は、養育院設立時の東京府知事大久保一翁(忠寛)が幕府の目付だったときに立案したと言います。
そのときに資金源とされ、養育院の設置資金にも使われたのが、松平定信が定めた江戸の貧民救済資金「七分積金」でした。
明治になり、当時七分積金(営繕会議所共有金)の管理を担当していたのが「日本資本主義の父」渋沢栄一でした。
渋沢栄一は1874(明治7)年より養育院の運営に関与し、1876(明治9)年5月11日に養育院事務長に任命されました。養育院は、1890(明治23)年、東京市営となり、渋沢栄一は養育院長に就任しました。以来91歳で亡くなるまで約50年間院長を続け、養育院廃止論の逆風を受けながら養育院を存続させ、分院・専門施設を開設して事業を拡大しました。
松平定信・大久保一翁・渋沢栄一と受け継がれてきた江戸・東京の福祉事業の歴史は戦後もつづき、現代の東京都健康長寿医療センターの設立につながっています。
詳しくは、http://www.tmghig.jp/hospital/about/about05.html をご覧下さい。
この多摩墓地の一角を散歩しながら私は人間の優しさを想います。そして楽しい散歩になります。そうして全国の市町村にある7万余のお寺の一角にある無縁仏のお墓を想像するのです。
そんなふうに時を過ごしながら今日も老境の一日が過ぎ行きます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
そのせいか大人になってもお寺や墓地の散歩は好きなもの一つになってしまいました。
散歩をしていると楽しかった幼少の頃のことが思い出されるのです。
そして墓地を散歩しているともう一つとても深い感動を覚えるのです。
一面に整然と並んでいるお墓を見るとそのお墓を建て、墓参りをしている遺族の一人一人の優しさが感じられます。人間の素晴らさを思い嬉しくなるのです。
そして墓石一つ一つにお釈迦さまが分け隔て無い慈悲を与えていると感じるのです。一切衆生悉有仏性としてお釈迦さまは全ての人の悟りと救済を願っているのです。
そんな訳で私はお寺に行けば必ずのように裏にある墓地を散歩します。
近所の都立小平墓地と都立多摩墓地は広大で樹木も多いので散歩の楽しい場所です。
そして特に好きな場所は多摩墓地の一角です。
そこには都内で亡くなった薄倖な無縁仏の墓碑が並んでいるのです。この世では孤独で幸いの薄かった人々の共同のお墓なのです。
そして「倶会一処(くえいっしょ)」と書いてあるのです。
その意味は先に浄土に往生している先祖たちと、共に同じ浄土に生まれたいと思う心持ちを表したものであるし、また同じ浄土へ往生させていただくことを喜ぶ姿も意味しているのです。
この世で全く孤独で不幸だった人も亡くなれば多くの先祖や親類、そして友人たちと一緒に楽しく過ごせるという意味なのです。
この無縁仏の共同のお墓は東京都のお役人が作ったのです。素晴らしいお役人たちです。
その都庁のお役人たちが作った無縁仏の共同のお墓の写真を示します。




これらのこの世では薄倖だった人々の共同のお墓は明治5年からの歴史があるのです。
それは明治5年に渋沢栄一が中心になって作った貧民共済施設の養育院の死者のお墓から始まったのです。渋沢栄一は日本の経済を大きく発展させた有名な人物です。しかしその一方で貧民救済事業にも力を注ぎ無縁仏のお墓も作ったのです。
最後の5枚目の写真はこの歴史を書いた説明板の写真です。

写真を拡大してご覧になれば鮮明な字が読み取れます。
さて養育院の創立は、養育院設立時の東京府知事大久保一翁(忠寛)が幕府の目付だったときに立案したと言います。
そのときに資金源とされ、養育院の設置資金にも使われたのが、松平定信が定めた江戸の貧民救済資金「七分積金」でした。
明治になり、当時七分積金(営繕会議所共有金)の管理を担当していたのが「日本資本主義の父」渋沢栄一でした。
渋沢栄一は1874(明治7)年より養育院の運営に関与し、1876(明治9)年5月11日に養育院事務長に任命されました。養育院は、1890(明治23)年、東京市営となり、渋沢栄一は養育院長に就任しました。以来91歳で亡くなるまで約50年間院長を続け、養育院廃止論の逆風を受けながら養育院を存続させ、分院・専門施設を開設して事業を拡大しました。
松平定信・大久保一翁・渋沢栄一と受け継がれてきた江戸・東京の福祉事業の歴史は戦後もつづき、現代の東京都健康長寿医療センターの設立につながっています。
詳しくは、http://www.tmghig.jp/hospital/about/about05.html をご覧下さい。
この多摩墓地の一角を散歩しながら私は人間の優しさを想います。そして楽しい散歩になります。そうして全国の市町村にある7万余のお寺の一角にある無縁仏のお墓を想像するのです。
そんなふうに時を過ごしながら今日も老境の一日が過ぎ行きます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)