5年前の今日は東日本大震災が起きた日です。
千年に一度という大津波が東日本の海岸沿いの市町村を襲い壊滅させました。その津波が原因で福島原発の4基の原子力発電装置が爆発して大量の放射性粉塵を噴き上げ広い範囲の住民が避難しました。
この東日本大震災の犠牲者は2万人にも達し、その上避難した人々の17万人がいまだに自宅に帰れず不便な生活を余儀なくされています。
今日は犠牲になられた方々のご冥福を祈り、不便な避難生活を続けている方々が一日でも早くもとの生活に戻られるようにお祈り申しあげます。
このような大規模な天災は何度か起きています。
その一方で愚かな人間の蛮行で大規模な人災も起きています。
その一例は大航海時代から始まった西洋人による南北の両方のアメリカ大陸の原住民の殺戮と植民地化による大きな悲劇です。
何故、この問題を取り上げるか?その理由をお読み下さい。
自分が国際問題を書く場合は公平に書く、客観的に書くということを心がけています。
しかし読む日本人の方の考えでは、私が欧米側のひいきをしていると理解されることが多いのです。
そして頂く多数のコメントは必ずのように西洋の植民地主義による南北アメリカの原住民の殺戮と征服に言及し、「欧米人は狩猟民族で残虐な遺伝子の持主です。そんな欧米人を擁護するような記事は間違っています」という趣旨なのです。
何度もこのようなコメントを頂いて私はあらてめてその歴史を調べてみました。
その一部は末尾の参考資料の「南米の征服、領有権主張および植民」に示してあります。
南米を領有しようとしたポルトガルとスぺンはローマ皇居の仲裁で1494年、トルデシリャス条約を調印して南米を2分したのです。南のブラジルから南端までをポルトガルのものとし北のベネズエラ、メキシコ、などの中南米をスペインのものとしたのです。
現在でも南米の南半分はポルトガル語は使用されていて北半分はスぺイン語圏なのはローマ公教も参加して作った1494年、トルデシリャス条約によるためなのです。
この西洋の植民地主義は石器時代からそこに定住していた原住民にとっては歴史上、最大の悲劇になったのです。
それは人類の大きな人災のなかでも最大級の悲劇だと私は考えています。
しかしこの事実をもって、「欧米人は狩猟民族で残虐な遺伝子の持主です」と結論するのは絶対に間違っていると考えています。
その理由は人間が何を食べて生活していようが、それとは関係なく等しく残虐な性質を心の底に持っていると考えられるからです。
その悪魔の意思が表に現れて行動を起こすか否かは周囲の状況次第なのです。
もし日本人が15世紀に遠洋航海のための大型帆船を作っていたら同じようなことをしたに違いありません。げんに豊臣秀吉は中國大陸の明を征服するために朝鮮に2度も攻め込んだのです。しかし朝鮮の兵士は南米の原住民のように無力でなく果敢な抵抗をしたのです。その首都の漢城を落とし鴨緑江まで達しましたが明までは攻め込めなかったのです。
私は人生の達人になろうとしています。ですから西洋の植民地主義は人類へ大きな悲劇を与えたという事実はそのまま素直に受け入れませう。
しかし、「欧米人は狩猟民族で残虐な遺伝子の持主です」という考え方は受け入れずに水に流してしまいます。明鏡止水の心境を保ちたいと思っています。
このようにして毎日を平穏な気持ちですごしています。今日の挿絵代わりの写真は先日、伊豆半島で撮った河津桜や菜の花の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===========
「南米の征服、領有権主張および植民」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%A4%A7%E9%99%B8%E3%81%AE%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E5%8C%96
初期に既存文明を征服したのはスペインとポルトガルであった。1494年、トルデシリャス条約がローマ教皇によって批准され、これら2つの王国は自分達だけで非ヨーロッパ世界を二分した。その境界線は南アメリカ大陸の上に引かれた。この条約に従って、スペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは太平洋に接する陸地はすべてスペインのものと主張した。スペインは初期にカリブ海の島嶼を征服していたが、急速にその領土拡大を進め、16世紀半ばまでにアステカ帝国およびインカ帝国を滅ぼして、南アメリカ西部から中央アメリカ、メキシコに至る地域を支配下においた。その同じ時期にポルトガルは南アメリカの東部を征服し、ブラジルと名付けた。
他のヨーロッパ諸国は、自分達に何の相談も無く定められたトルデシリャス条約に文句を付け始めた。イギリスとフランスは16世紀にアメリカ大陸に植民地を築こうとしたが、初めは失敗に終わった。しかし、17世紀に入って、その2王国に加えてオランダが恒久的な植民地を築くことに成功した。既にスペインが征服していたはずのカリブ海の島嶼(一部は疫病で無人化していた)であったり、スペインが植民地建設を試みたフロリダより北部の北アメリカ東海岸であったりした。
一方、これら後発のヨーロッパ諸国はすでにスペインとポルトガルが支配していた中南米やインド洋を避け、北アメリカの北を回航してアジアに至る航路(北西航路)を開拓しようとした。ジョン・カボット、ジャック・カルティエ、ヘンリー・ハドソンといった探検家らは国や貿易会社に支援され盛んに北アメリカや北極海に船を出した。こうした探索はカナダなど北アメリカの探検を進める原動力となったものの、グリーンランドの西方の海はことごとく流氷に閉ざされており、誰一人「北西航路」を発見できた者はいなかった。
北アメリカにおける初期植民地は、スペイン領フロリダ、イギリス領バージニアとニューイングランド、フランス領アカディアとカナダ、スウェーデン領ニュースウェーデンおよびオランダ領ニューネーデルラントであった。18世紀に入ってデンマーク=ノルウェーがグリーンランドの植民地を復活し、シベリアを横断したロシア帝国がアラスカに足場を築いた。
その他にも多くのヨーロッパ諸国がアメリカ大陸の植民地化について興味を示すようになり、領土争いは次第に激しさを増した。植民地の者達はしばしば隣の植民地からの攻撃に怯え、また先住民族や海賊の攻撃という可能性もあった。