後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

早春の瀬戸内海の風物詩、イカナゴの釘煮を今年も頂きました

2016年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
イカナゴは日本各地の沿岸で漁獲される魚です。毎年、瀬戸内海での解禁日は年によって違いますが、大体2月下旬に解禁になります。
稚魚を瀬戸内沿岸部ではイカナゴ(玉筋魚)、関東ではコウナゴ(小女子)、大阪ではシンコまたはカナギと呼ばれています。
イカナゴは暑さに弱く、6月から晩秋過ぎまで砂に潜って夏眠する珍しい魚です。
関東ではコウナゴの佃煮と同じものが瀬戸内海沿岸ではイカナゴのクギ煮と呼ばれています。
今年も今日、友人の鈴木 裕さんの母上が精魂込めて煮たものを送って下さいました。
山椒入りのものとショウガ入りのものと2種類がハランの葉で分けてパックに丁寧に詰めてあります。特に解禁早々のまだ幼魚の高級なイカナゴのクギ煮です。
毎年、3月になると須磨にお住いの鈴木裕さんが送ってくれるのです。これを食べると、「ああ、今年も春が来た」という暖かい気持ちになり、春の陽に輝く瀬戸内海の海の風景が眼前に広がるのです。早春の季節の風物詩です。
イカナゴのクギ煮と同じものを東京ではコウナゴの佃煮と言います。味がどのように違うのか調べるために昨年、コウナゴの佃煮を買ってきて、ビールを飲みながら交互に食べてみました。
同じ魚ですが全く味が違うのです。須磨のイカナゴのクギ煮はかすかにフォアグラのような肝臓の風味がするのです。そして骨を感じさせない柔らかい小魚の食感です。魚の肝臓ではアンコウの肝やカワハギの肝が美味ですが、それらと一脈通じる味がかすかにするのです。これこそイカナゴのクギ煮が絶賛される原因だと断定できます。
断定したといえば大げさですが、交互に東京で売っているコウナゴの佃煮を食べてみると明快に分かるのです。コウナゴにはアンコウの肝やカワハギの肝の美味成分が皆無です。その上、身が固すぎます。魚としての旨さは充分ありますが固すぎるのです。
この違いは餌の違いなのでしょう。
6月から晩秋過ぎまで砂に潜って夏眠した後で、冬になり活発に餌を食べる期間の餌の味が関係していると想像しています。魚の味はその魚が食べる餌によって決まります。
最近の養殖したタイやハマチが美味しくなってきたのは餌を研究した成果なのです。以前の養殖したタイやハマチはサンマ臭かったものです。
イカナゴやコウナゴは北海道から九州まで全国各地で漁獲はされていますが、瀬戸内沿岸の淡路島や明石などの早春のイカナゴのクギ煮だけは抜群に美味しいのです。
それはさておき、下にお送り頂いたイカナゴの釘煮の写真を示します。

山椒を入れたものと生姜を使ったものの2種類です。山椒は、その生産量日本一の和歌山県有田川町で採れる「ぶどう山椒」と言う品種だそうです。
イカナゴは解禁直後のもっとも小さいシンコと呼ぶ稚魚を使います。下にその写真を示します。

釘煮を作る時は小さなイカナゴを沢山鍋に入れ、醤油、みりん、砂糖、生姜あるいは山椒を入れて煮込みます。此の時、絶対に掻き回さないそうです。繊細な魚なので動かすと壊れてしまって団子状になるそうです。
とにかく焦さないように根気よく煮詰めて、汁が完全に蒸発して無くなるまで煮詰めます。弱火、というかトロ火で炊くのです。その煮詰めた時の味加減を丁度良くするのが難しいのです。素人が作るととかく塩辛くなりがちだそうです。
鈴木さんの母上の味は上品です。その上、生姜や山椒の香りが程良くてなんとも言えない風味があるのです。料理は作っている人の性格を表わすと言いますが優雅で、その上根気の良い母上のお人柄が偲ばれるのです。
2種類の釘煮の仕切りをお庭の葉蘭でしてあるのですがその細かな切り方が本当に丁寧な事に毎年感嘆しています。風物詩のクギ煮で感じる小さな幸せです。
下に関連の写真を示します。
鈴木さんの母上はお正月の初詣でのおりに毎年、須磨の海苔もお送り下さいますので、その写真をまず示します。
写真の出典はhttp://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/photo/number27/special_features/index2.htmlです。

上の写真は須磨の海で養殖した海苔です。

上の写真はその須磨の海で養殖した海苔を船で収穫している様子です。

上の写真は瀬戸内海のイカナゴ漁の船の動きを示す図です

上の写真はイカナゴ漁をしている漁船の写真です。

上の写真は魚市場に水揚げされたイカナゴの写真です。
出来たら是非イカナゴの釘煮をネットで購入し味わってみて下さい。いわゆるコウナゴの佃煮とは風味が全然違います。

甲斐駒岳の厳しさと優しさの写真を撮りに行きました

2016年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
山を見ると厳しさを感じます。反対に優しさを感じる時もあります。
しかし山に心がある筈がありません。ですから見る人の一方的な感情によってどうにでも見えるのです。
私は山梨県と長野県の境にある甲斐駒岳の写真を42年間撮っています。1974年にその山麓にささやかな小屋を作って以来、そこに行く度に撮り続けています。こんなに長い間写真を撮っていても一向に飽きないのです。それは写真を撮る度に山の様子が違うからなのです。
太陽の光の加減、雲の様子、山肌の色合い、周囲の森のたたずまいと、色彩の変化などなどが微妙に違い、毎回写真の様子が異なってくるのです。
その上、写真を撮っている時の自分の心情によって写し方が変わってくるのです。
昨日は車を中央高速道路に走らせて山の小屋へ行ってきました。
行く前に今日の写真のテーマは「山の厳しさと優しさを写す」と決めました。同じ山を同じ時間帯に撮って「山の厳しさと優しさ」の両方を写しとってみようと考えたのです。
それだけの問題を抱えて車を走らせたので、何時も途中で写真に撮る富士山や南アルプスの雪の山稜は眺めるだけにして道を急ぎました。
ここで6枚の山の写真を示します。
はじめの3枚の写真は甲斐駒岳の厳しさを表現した写真です。
続く3枚の写真は春が近づいている山々の優しさを写し取った写真です。
上手に写し取っているか否かは自信がありませんが、そんな気持ちで撮った写真です。

上の写真は大武川をまたいでいる国道20号線の鉄橋の向こう聳える甲斐駒岳です。山の大きさを鉄橋の小ささで強調したつもりです。その上、垂直に見える山の絶壁が麓の建物や鉄橋を押し潰すように立っています。人間の営みの小ささと儚さを感じて頂ければ嬉しいのです。

上の写真は甲斐駒岳の山頂をズームで撮りました。人間を寄せ付けない雪の岩稜です。甲斐駒岳の厳しさを表現した写真のつもりです。

上の写真は甲斐駒岳の南に続く雪尾根も入れた甲斐駒岳です。この尾根を向こう側に下りと、北岳の北壁の苦しい登りが待っています。雪の尾根も写真の視野に入れると、甲斐駒岳の厳しさが一層感じられませんでしょうか。

上の写真は同じ甲斐駒岳ですが、手前に早春の森の風景を入れました。木々はまだ芽吹いていませんが、なんとなく春が近いという感じです。さっきまで灰色の空だったのが明るい青空に変わっていました。そんな影響で甲斐駒岳が優しく見えたのかも知れません。

上の写真はついでに八ヶ岳を撮った写真です。手前の森と人家のある里を、八ヶ岳がゆったりと抱擁するような構図にして写真を撮ったつもりです。八ヶ岳も厳しい山ですが構図のとり方で印象が変わるようです。

上の写真は甲斐駒岳の南東の隣の地蔵岳です。右が前山でその左の雪山が地蔵岳の主峰のようです。山の形がなだらかで優しい感じがします。手前の森と野原が写真に優しい感じを与えています。
こんな工夫をしながら昨日は山小屋の周辺を歩きながら写真を撮って来ました。
家人が後ろから構図を慎重に考えてゆっくりシャッターを押してと言っています。いつもの事なので、ウンと言いながら無視します。
昨日は暖かい風が頬をなでていました。遠方でウグイスの声がかすかに聞こえました。
写真を撮っているとそんな山の空気も楽しめるのです。
これも老境の幸せというものでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)