後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

キリスト教における偶像崇拝と原始宗教的な部分

2016年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
ブログに私は宗教に関する記事を度々書いています。無宗教の方も仏教を信じている方も不愉快にならないように公平な書き方に心がけています。私は仏教も神道も好きです。お釈迦さまや玄奘三蔵法師や弘法大師を尊敬しています。その上でカトリックの洗礼を受け、毎週、日曜日にはミサに行きます。そのことをブログに書いています。
そうしたらある読者の方から宿題を頂きました。
「一神教と多神教」と「偶像崇拝と非崇拝」について私の考えを書いて下さいという宿題です。
何日か考えた上で書く決心をいたしました。自分がカトリックという宗派の信仰で体験したことを正直に書くことにしました。
日本では神道は多神教でキリスト教は一神教だとよく言います。そして一神教は戦争の原因になるから多神教の方が良いと言います。
そしてキリスト教は原始宗教でなく高等宗教だから偶像崇拝はしないと言います。
しかし自分がカトリックの信者になってみると上のような理解は間違っていることに気が付きます。
プロテスタントの諸宗派のことは分かりませんが、カトリックでは「神と聖霊とイエスさま」を一体として、すなはち三位一体として崇拝します。その上、マリア様を拝みます。そして各教会の守護聖人を敬います。日本人のカトリックは長崎の26聖人像を自分たちの守り神のように拝む人もいます。キリスト教では唯一の神だけを信仰するという建前ですが、弱い人間にはその教えを守れないのです。
このように書くと多神教の日本に住んでいるからそうなると言う方がいます。
しかしヨーロッパの農村地帯を旅すると道端に馬頭観音や道祖神を祀ったように見える祠が時々あります。吃驚してその祠の中を覗くとマリヤ様の小さなお像が祀ってあります。旅人が旅の安全を祈るのです。
その上、キリスト教を信仰していながら、一方で星占いや伝統的な迷信を信じている人も多いようです。
カトリックのように古い宗派の一つにロシア正教があります。そこではイコン(聖画や聖像)が信仰の対象になっています。
さて最初の問題の「一神教と多神教」の区別の仕方の問題はキリスト教は建前では一神教ですが、信仰の実際を観察すると多神教的な部分があると言えます。ですからある宗教を一神教であると断定することは間違いのようだと思っています。
「偶像崇拝と非崇拝」についても建前と信仰の実際は異なるのが自然なのだと思っています。
お釈迦さまは涅槃に入るとき遺骨は野に捨てよと言われました。そして一切の像を作っていけないとおっしゃいました。
そのお釈迦さまの教えはこの世の人間には厳しすぎたのです。仏教国には仏像が溢れています。そして観音様の像や薬師様の像を毎日拝んでいると何時しかお釈迦さまのことを忘れてしまいます。これが偶像崇拝の危険な落とし穴なのです。
この落とし穴を常に考えながら観音菩薩像や薬師如来像を拝んでいればお釈迦様を忘れません。
カトリックでも教会の守護聖人像やマリア様の像を、そして26聖人像を拝むのも重要ですが、常に神とイエスさまと聖霊の三位一体を考えながら拝むことが重要なのだと私は信じています。
結論を書けば、偶像崇拝は必要です。しかしその落とし穴に落ちないように、教えの本家本元のイエスさまやお釈迦さまの教えを忘れいことが重要なのです。一番大切なものはイエスさまやお釈迦さまの教えであり偶像ではないのです。
そして高等宗教と言われているキリスト教や仏教でも原始宗教と同じように偶像崇拝が重要な役割をしているのです。その部分は原始宗教的な部分と言えるのではないでしょうか?
カトリックにはもっと原始宗教的な部分があります。しかしあまり長くなるのでその部分は続編でご説明いたします。
今日の挿絵の写真は昨日、京王フローラルガーデンで撮った花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)