この連載の第一回の記事の冒頭にこんなことを書きました。
・・・戦前の昭和11年に生まれた私は戦前と戦後の日本社会の激変を体験してきました。しかしそんな昔のことを書いても仕方がありません。
そこで1990年前後のソ連の崩壊の頃、そしてバブル経済の瓦解の時代から現在までの日本社会の変化について気楽な連載記事を書いてみたいと思います。・・・
この文章に違反しますが、今日は戦後から1960年代まで盛んに街々や田舎道を走っていたオート三輪車の消滅について書いてみたいと思います。
この消滅は日本社会が豊かになったお陰で起きた現象の一つだったのです。
さてオート三輪車は1960年代まで、全国で活躍していました。野菜や荷物の運送にはきまってオート三輪車でした。それが高度成長期に入ると次第に姿を消し、1980年頃までに日本では完全に見ることができなくなりまた。
昔の子供はオート三輪車にみな憧れて、乗ってみたいと思っていました。それに乗れる子供は青果業や酒店などの子供だけでした。
仙台に居た少年の頃、二三度だけ運送業のオジサンに危なっかしい助手席に乗せてもらい怖い思いをしたことがあります。
とにかく乗り心地が悪いのですが、すごく感動的な乗り物でした。
中国や東南アジアにエンジン付きの三輪車が今でも走っていますが、日本のオート三輪とは全く違います。懐かしい乗り物ですが、もう二度と見ることが出来ません。
河口湖自動車博物館で、その昔のオート三輪者車を見つけた時は懐かしく思いました。
下に昭和30年頃のオート三輪の写真をお送りいたします。
1番目の写真は小金井市の多摩青果市場の前に勢ぞろいしたオート三輪の写真です。
(写真の出典は、小金井市教育委員会、編集・発行CD「写真でたどる昭和の小金井」 です。)
2番目の写真も多摩青果市場の前のオート三輪の写真です。
さてこのオート三輪車は何時頃から使わられていたのでしょうか?
3番目の写真は戦前のオート三輪車の写真です。
これは浅草のある仏具屋さんの店先の風景です。2台のオート三輪車と自動二輪車が写っています。
出典は、 http://www.nihondo.net/aboutus/histry.html です。
そしてオート三輪の国内での製造の歴史については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E4%B8%89%E8%BC%AA をご覧下さい。
4番目の写真はこの資料から転載した 戦前のマツダのオート三輪車の基本形の写真です。
1917年頃、大阪で前2輪・後1輪で前方に荷台を持つ自転車式貨物車に、アメリカ製のエンジンキットを装備したものが出現したのが最初と言われています。しかしこれでは安定性が悪いので、すぐに前輪は一つで後輪が二つになりました。
その後、国内で数々の改良が加えられ、次第に全国に普及して行ったのです。
1930年頃になると、有力エンジンメーカーがオート三輪生産に乗り出します。
そして、1930年代後半には発動機製造「ダイハツ」、東洋工業「マツダ」、日本内燃機の「くろがね」の三大ブランドへの評価が定まるようになります。この3社はシャーシ、エンジンとも規模の大きな工場で自社一貫生産していました。
オート三輪車と言えば特別な思い出があります。
生まれ育った仙台では、亜炭とい燃料がオート三輪車で盛んに運ばれていたのです。
話は脱線しますが、この亜炭の思い出を簡略に書いて今日の記事の終りと致します。
昭和時代の仙台市の生活を支えていた薪や木炭の他に亜炭という不思議な燃料がありました。
その亜炭も、また戦後の経済成長とともに跡形も無く消えてしまったのです。
大正、昭和、そして戦後にかけて仙台の向山地区には亜炭を掘り出す数多くの横穴がありました。
子供のころはその亜炭の横穴に出入りするトロッコに乗って遊んだものです。横穴は電燈もない暗闇でした。怖くて2、30mも入ると逃げ出してきたものです。
仙台の住民はこの亜炭を買って炊事や風呂の燃料にしていたのです。
夕方になると、亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の黒い炭化した木材で、仙台だけでなく全国で掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。子供心にその彫師のノミの動きに感動して、あかずに覗き込んでいたものです。そんな工房が3軒あったのです。
その埋もれ木細工の職人の工房も完全に消えてしまいました。
さて話が脱線したので最後にもう一枚、オート三輪車の写真をお送りします。
5番目の写真は大型に改良された最後の頃のオート三輪車です。運転席は4輪車と同じように丸ハンドルがついて、2人坐れました。
このようにある時代までは全国で盛んに使われていたオート三輪車が跡形も無く消えてしまったのです。
それは社会の変化を示す一つの現象なのでしょう。感慨無量です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===================
(1)亜炭とは:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%9C%E7%82%AD
褐炭が褐色を呈するものが多いのに比べ、亜炭は褐色から暗灰色を呈する。続成作用を強く受けていないため、セコイヤなどの木片の組織が観察されることも多い。仙台市内で産出される亜炭の中には、組織がしっかり残っているものもあり埋れ木として細工物の材料にもなった。
世界の埋蔵量は、褐炭と合わせて、より高品位の石炭の埋蔵量をしのぐ6,000億トン以上の規模とされる。日本国内でも埋蔵量は多く、東北地方だけでも3億トンとも推測されている。
品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、仙台市や名古屋市、長野市など大規模〜中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。
亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
2000年代の日本では、燃料としての亜炭の使用は皆無であり、輸入された亜炭(褐炭を含む)が飼料の添加物や土壌改良材などに用いられるのみである。
(2)宮城県大崎市三本木亜炭記念館:http://ja.wikipedia.org/…/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E4%B8…
重さ10トンの亜炭塊(大崎市三本木亜炭記念館)が展示してあります。
仙台藩では幕末から亜炭の採掘が行われた。現在の宮城県大崎市三本木の大松沢丘陵などでは三本木亜炭が産出され、1920年代の仙台鉄道開通により、仙台市へ大量に供給された。
(3)仙台亜炭とは:http://ja.wikipedia.org/…/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E4%BA%9C%E7%82…
仙台亜炭(せんだいあたん)は、宮城県仙台市およびその周辺で採掘された亜炭のこと。
第三紀の鮮新世(約500万年前〜約258万年前)に形成された仙台層群のうち、竜の口層以外に亜炭が含まれる。亜炭のうち、彫塑可能な「木質亜炭」は仙台埋木細工に、炭化した「炭質亜炭」は香炉灰や燃料に、珪化木は観賞用または放置された。
幕末以降は、主に広瀬川中流の向山層において、小規模な炭鉱が多数散在する形で採掘が行われた。
江戸時代になると、香道に造詣が深い仙台藩祖・伊達政宗が、名取川下流右岸(南岸)の名取郡四郎丸村(現・仙台市太白区四郎丸に年貢諸役を免除する代わりに埋れ木および埋木灰の生産を命じた。
1822年(文政5年)、仙台藩家臣の足軽・山下周吉が竜ノ口渓谷で埋れ木を得て持ち帰り、食器類を作った。竜ノ口渓谷は、名取川水系広瀬川の中流にある同河川の支流がつくった渓で、仙台層群が広く露出している場所である。足軽身分で扶持の少ない周吉は、埋木細工を内職にしようと採掘許可を願い出たが、仙台城南面の防御である同渓谷は軍事的に重要な地区であるため許可されなかった。しかし仙台藩が黙認したことで採掘が始まり、埋木細工が作られるようになった。当初はあまり売れるものではなかったようだが、足軽の石垣勇吉によって製品として高められて名産品となった。そのため、幕末から明治・大正にかけて仙台土産として人気となり、特に観光地である日本三景・松島でよく売れた。
一方、「炭質亜炭」も明治から、木桶風呂(鉄砲風呂)やダルマストーブなどの燃料として盛んに採掘されるようになり、広瀬川沿いの青葉山・越路山(八木山)・向山などのほかに、現在の仙台市内にあたる地域では宮城郡広瀬村や大沢村(以上、現・青葉区の一部)、七北田村や根白石村(以上、現・泉区)でも採掘が行われ、鉱山鉄道を敷設する鉱山もあった。燃料事情の悪化に伴って、太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)から戦後占領期の1949年(昭和24年)までは石炭とともに亜炭は国の重点施策となり、採掘の最盛期となった。そのため昭和30年代までの仙台では、夕方になると煙突から立ち上る煤煙と亜炭特有の甘酸っぱい匂いが街中にただよっていた。
しかし、もともと薄い亜炭の層から大量に採掘したため、昭和30年代半ばには大年寺層の一部と向山層で採掘されるのみとなり、亀岡層からの採掘は無くなった。
・・・戦前の昭和11年に生まれた私は戦前と戦後の日本社会の激変を体験してきました。しかしそんな昔のことを書いても仕方がありません。
そこで1990年前後のソ連の崩壊の頃、そしてバブル経済の瓦解の時代から現在までの日本社会の変化について気楽な連載記事を書いてみたいと思います。・・・
この文章に違反しますが、今日は戦後から1960年代まで盛んに街々や田舎道を走っていたオート三輪車の消滅について書いてみたいと思います。
この消滅は日本社会が豊かになったお陰で起きた現象の一つだったのです。
さてオート三輪車は1960年代まで、全国で活躍していました。野菜や荷物の運送にはきまってオート三輪車でした。それが高度成長期に入ると次第に姿を消し、1980年頃までに日本では完全に見ることができなくなりまた。
昔の子供はオート三輪車にみな憧れて、乗ってみたいと思っていました。それに乗れる子供は青果業や酒店などの子供だけでした。
仙台に居た少年の頃、二三度だけ運送業のオジサンに危なっかしい助手席に乗せてもらい怖い思いをしたことがあります。
とにかく乗り心地が悪いのですが、すごく感動的な乗り物でした。
中国や東南アジアにエンジン付きの三輪車が今でも走っていますが、日本のオート三輪とは全く違います。懐かしい乗り物ですが、もう二度と見ることが出来ません。
河口湖自動車博物館で、その昔のオート三輪者車を見つけた時は懐かしく思いました。
下に昭和30年頃のオート三輪の写真をお送りいたします。
1番目の写真は小金井市の多摩青果市場の前に勢ぞろいしたオート三輪の写真です。
(写真の出典は、小金井市教育委員会、編集・発行CD「写真でたどる昭和の小金井」 です。)
2番目の写真も多摩青果市場の前のオート三輪の写真です。
さてこのオート三輪車は何時頃から使わられていたのでしょうか?
3番目の写真は戦前のオート三輪車の写真です。
これは浅草のある仏具屋さんの店先の風景です。2台のオート三輪車と自動二輪車が写っています。
出典は、 http://www.nihondo.net/aboutus/histry.html です。
そしてオート三輪の国内での製造の歴史については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E4%B8%89%E8%BC%AA をご覧下さい。
4番目の写真はこの資料から転載した 戦前のマツダのオート三輪車の基本形の写真です。
1917年頃、大阪で前2輪・後1輪で前方に荷台を持つ自転車式貨物車に、アメリカ製のエンジンキットを装備したものが出現したのが最初と言われています。しかしこれでは安定性が悪いので、すぐに前輪は一つで後輪が二つになりました。
その後、国内で数々の改良が加えられ、次第に全国に普及して行ったのです。
1930年頃になると、有力エンジンメーカーがオート三輪生産に乗り出します。
そして、1930年代後半には発動機製造「ダイハツ」、東洋工業「マツダ」、日本内燃機の「くろがね」の三大ブランドへの評価が定まるようになります。この3社はシャーシ、エンジンとも規模の大きな工場で自社一貫生産していました。
オート三輪車と言えば特別な思い出があります。
生まれ育った仙台では、亜炭とい燃料がオート三輪車で盛んに運ばれていたのです。
話は脱線しますが、この亜炭の思い出を簡略に書いて今日の記事の終りと致します。
昭和時代の仙台市の生活を支えていた薪や木炭の他に亜炭という不思議な燃料がありました。
その亜炭も、また戦後の経済成長とともに跡形も無く消えてしまったのです。
大正、昭和、そして戦後にかけて仙台の向山地区には亜炭を掘り出す数多くの横穴がありました。
子供のころはその亜炭の横穴に出入りするトロッコに乗って遊んだものです。横穴は電燈もない暗闇でした。怖くて2、30mも入ると逃げ出してきたものです。
仙台の住民はこの亜炭を買って炊事や風呂の燃料にしていたのです。
夕方になると、亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の黒い炭化した木材で、仙台だけでなく全国で掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。子供心にその彫師のノミの動きに感動して、あかずに覗き込んでいたものです。そんな工房が3軒あったのです。
その埋もれ木細工の職人の工房も完全に消えてしまいました。
さて話が脱線したので最後にもう一枚、オート三輪車の写真をお送りします。
5番目の写真は大型に改良された最後の頃のオート三輪車です。運転席は4輪車と同じように丸ハンドルがついて、2人坐れました。
このようにある時代までは全国で盛んに使われていたオート三輪車が跡形も無く消えてしまったのです。
それは社会の変化を示す一つの現象なのでしょう。感慨無量です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===================
(1)亜炭とは:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%9C%E7%82%AD
褐炭が褐色を呈するものが多いのに比べ、亜炭は褐色から暗灰色を呈する。続成作用を強く受けていないため、セコイヤなどの木片の組織が観察されることも多い。仙台市内で産出される亜炭の中には、組織がしっかり残っているものもあり埋れ木として細工物の材料にもなった。
世界の埋蔵量は、褐炭と合わせて、より高品位の石炭の埋蔵量をしのぐ6,000億トン以上の規模とされる。日本国内でも埋蔵量は多く、東北地方だけでも3億トンとも推測されている。
品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。日本では明治年間から1950年代まで全国各地で採掘され、主に家庭用燃料として重宝された。特に、第二次世界大戦中および直後においては、燃料の輸送事情が極端に悪化したため、仙台市や名古屋市、長野市など大規模〜中規模の都市の市街地などでも盛んに採掘が行われて利用された。
亜炭は着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙を出すため、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。
2000年代の日本では、燃料としての亜炭の使用は皆無であり、輸入された亜炭(褐炭を含む)が飼料の添加物や土壌改良材などに用いられるのみである。
(2)宮城県大崎市三本木亜炭記念館:http://ja.wikipedia.org/…/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E4%B8…
重さ10トンの亜炭塊(大崎市三本木亜炭記念館)が展示してあります。
仙台藩では幕末から亜炭の採掘が行われた。現在の宮城県大崎市三本木の大松沢丘陵などでは三本木亜炭が産出され、1920年代の仙台鉄道開通により、仙台市へ大量に供給された。
(3)仙台亜炭とは:http://ja.wikipedia.org/…/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E4%BA%9C%E7%82…
仙台亜炭(せんだいあたん)は、宮城県仙台市およびその周辺で採掘された亜炭のこと。
第三紀の鮮新世(約500万年前〜約258万年前)に形成された仙台層群のうち、竜の口層以外に亜炭が含まれる。亜炭のうち、彫塑可能な「木質亜炭」は仙台埋木細工に、炭化した「炭質亜炭」は香炉灰や燃料に、珪化木は観賞用または放置された。
幕末以降は、主に広瀬川中流の向山層において、小規模な炭鉱が多数散在する形で採掘が行われた。
江戸時代になると、香道に造詣が深い仙台藩祖・伊達政宗が、名取川下流右岸(南岸)の名取郡四郎丸村(現・仙台市太白区四郎丸に年貢諸役を免除する代わりに埋れ木および埋木灰の生産を命じた。
1822年(文政5年)、仙台藩家臣の足軽・山下周吉が竜ノ口渓谷で埋れ木を得て持ち帰り、食器類を作った。竜ノ口渓谷は、名取川水系広瀬川の中流にある同河川の支流がつくった渓で、仙台層群が広く露出している場所である。足軽身分で扶持の少ない周吉は、埋木細工を内職にしようと採掘許可を願い出たが、仙台城南面の防御である同渓谷は軍事的に重要な地区であるため許可されなかった。しかし仙台藩が黙認したことで採掘が始まり、埋木細工が作られるようになった。当初はあまり売れるものではなかったようだが、足軽の石垣勇吉によって製品として高められて名産品となった。そのため、幕末から明治・大正にかけて仙台土産として人気となり、特に観光地である日本三景・松島でよく売れた。
一方、「炭質亜炭」も明治から、木桶風呂(鉄砲風呂)やダルマストーブなどの燃料として盛んに採掘されるようになり、広瀬川沿いの青葉山・越路山(八木山)・向山などのほかに、現在の仙台市内にあたる地域では宮城郡広瀬村や大沢村(以上、現・青葉区の一部)、七北田村や根白石村(以上、現・泉区)でも採掘が行われ、鉱山鉄道を敷設する鉱山もあった。燃料事情の悪化に伴って、太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)から戦後占領期の1949年(昭和24年)までは石炭とともに亜炭は国の重点施策となり、採掘の最盛期となった。そのため昭和30年代までの仙台では、夕方になると煙突から立ち上る煤煙と亜炭特有の甘酸っぱい匂いが街中にただよっていた。
しかし、もともと薄い亜炭の層から大量に採掘したため、昭和30年代半ばには大年寺層の一部と向山層で採掘されるのみとなり、亀岡層からの採掘は無くなった。