後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

宮沢賢治に助けられ法華経を少し理解する

2018年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
法華経の教えは全ての人に佛性があり、他人の利益のための行動する「利他行」を実践すれば、全ての人が菩薩になれるという教えのようです。
私はこの文章を書いていますが、文章の意味が理解出来ません。
そこで法華経の熱烈な信者であった宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ・・」という詩を通して「利他行」と「菩薩」の意味を理解してみようと思います。宮沢賢治が自分のことを考えないで貧しい農民のことを思いやっている詩です。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経

1番目の写真は物思いしながら独り立っている賢治の写真です。
法華経はこの世に生きる全てのものが等しく憂いの無い涅槃の境地に入るれるようにお互いが助けあうことを教えています。
賢治はこの詩を書いただけではありません。農地の傍に羅須地人協会の建物を作り、毎日、農民を助けたのです。東北地方の冷害で苦しむ農村で、肥料の使い方の相談に乗り稲作の増産に協力したのです。そして最後は肥料の石灰を作る砕石会社で働いたのです。

2番目の写真は盛岡の高等農林学校を1920年に卒業し花巻農学校で教鞭をとっていた頃の宮沢賢治です。
しかし宮沢賢治は1926年(大正15年)、3月末にこの花巻農学校を退職してしまいます。
そうして羅須地人協会を設立しました。その目的は困窮する農民を助けるためだったのです。

3番目の写真は現在、花巻市に復元、公開されている羅須地人協会の建物と賢治の像です。
賢治は純粋な気持ちで農民を助けていたのですが、警察は当時勢いをつけていた共産主義の政治運動ではないかと疑ったのです。
賢治も誤解を招くことをしたのです。彼は「労働農民党」という政治団体の岩手県支部へ寄付をしたのです。
官憲は敏感でした。賢治を拘引し、羅須地人協会の活動を厳しく取り調べたのです。そして1927年の春には賢治は羅須地人協会の活動を一切止めてしまったのです。

4番目の写真は花巻温泉に勤めていた教え子の依頼で,温泉の遊園地に賢治が作った花時計の写真です。花巻市に復元、公開されています。

5番目の写真は花巻市にある賢治の自耕地の現在の様子です。
この写真の出典は、https://woman.excite.co.jp/blog/sanpo/sid_0368051/ です。

さて賢治は1928年(昭和3年)の6月には農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問します。その年の夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症します。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となったのです。
1931年(昭和6年)には、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料を農民に広め米の増産を助けます。この年の11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留めたのです。
1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去しました。1896年生まれ、享年37でした。生涯独身でした。
死の前日、農民から夜遅くまで肥料の相談を受けていたと言います。
法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言します。
戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められているそうです。

このように貧しい農民の利益のために生涯を「利他行」に捧げた人を法華経では菩薩と言います。
法華経の教えでは全ての人に佛性があり、他人の利益のための行動する「利他行」を実践すれば、全ての人が菩薩になれるという教えなのです。
ですから私は宮沢賢治を菩薩と信じています。
全ての人が菩薩になれるという教えに感動して法華経の信者になる人が多いのでしょう。
しかし蛇足を書けば法華経を主にした宗派や団体が何故か攻撃的な性質を持っているのが残念です。宗教は平和を守るのが本旨なのです。

それはさておき、宮沢賢治にまつわる思い出を少々書いて終りとします。あれは随分昔のことでしたが、私共は若い研究者の結婚の仲人を頼まれて盛岡に滞在したことがありました。北上川のほとりの光原社を訪れて賢治の「注文の多い料理店」の初版本を触らせて貰ったのです。まだ若かった家内が、「初版本は日本に僅かしか残っていないのよ」と言って感動していました。結婚式が終わってから花巻市に行って宮沢賢治記念館を訪問し花時計も見ました。そして復元された羅須地人協会に行きました。それは高台に建っていて眼下には水田が広がり、その向こうは北上川になっているのです。羅須地人協会の中の黒板には「下ノ畑ニイマス」と白墨で書いてありました。
賢治の記念碑の前で拝んでいるとドドドッと風が吹いて来て不思議な雰囲気になりました。本当に賢治が下の畑に見えるような錯覚に襲われたのです。その感じが今でも忘れられません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





夏が来れば思い出す昔の海水浴の光景

2018年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
梅雨も6月の終わりが近づいてくると次第に暑くなって来ます。たまに晴れた日がくると夏の日のようです。
今日の東京は青空で太陽がまぶしく射しています。嗚呼、夏が来たのだなあと感じます。
そんな時には幼少の頃の楽しかった海水浴の光景を懐かしく思い出します。
もうあの時は返ってこないセピア色の光景です。今年も鮮明に思い出します。

当時は仙台に住んでいましたので海水浴と云えば近くの荒浜や菖蒲田の浜でした。
そして松島の向こうには野蒜海水浴場があり、遠路にもかかわらず出掛けて行ったものです。
その上、塩釜からポンポン船に乗って松島湾の桂島や宮戸島の海水浴場に何度も行きました。
ポンポン船と呼ぶ理由は、焼き玉エンジンの音がポンポンというからです。ポンポンという音に合わせて白い煙を船のエントツから青空へ吐き出すのです。とても長閑な風景でした。
出港前に船長がエンジン室を開けます。そしてエンジンの上部を開けて鉄の玉を出します。
その鉄球をガスバーナーで真っ赤に焼き上げるのです。真っ赤に焼けた鉄球が点火栓になるのです。
船長はおもむろにエンジンを閉めて大きなクランクを手で回してエンジンを始動させるのです。
こんな光景が面白くて塩釜で客船に乗る度に必ずエンジン室を覗いていたのです。
真っ赤に焼けた鉄球が忘れられません。
昔はこんな旧式のエンジンが小型の客船や漁船に広く使われていたのです。

当時は戦後の貧しい時代だったので夏の娯楽と言えば海水浴しかなかったのです。
もうあの時は遥か昔のことになってしまいました。
そう言えばいろいろな事も思い出します。
終戦前に「海洋少年団」に入って船で使うロープのいろいろな結び方を習ったのです。
そして戦後の高校時代にカッターを漕いで何度も松島湾を回航したことを思い出したのです。
その時の帰りは必ず帆を上げて帆走して塩釜港に帰ったのです。
そんな帆走の経験を何故か50歳の時に突然思い出したのです。
そこでヨットを習うことに決めました。ヨットスクールは江の島にありました。その後は葉山マリーナのスポーツクラブに入りヨットの帆走方法を習いました。
夏の日差しを背に受けながら大学のヨット部の学生さんと2人でセイリングをするのです。それは厳しい訓練でしたが楽しい思い出になりました。
夏になると小型ヨットで葉山を出港して富士山を見ながら江の島の沖までセイリングした光景を楽しく思い出します。
そしてある時は、葉山マリーナの所有していた古い巡視艇で熱海の沖の初島へ泊りがけで航海したのです。
古い巡視艇なので三崎港に寄ったときエンジンから出火して大騒ぎになりました。乗り組員の皆が消火作業をしている間、私だけが操舵室に残って船の舵を担当していました。あの時は怖かったです。間も無く消火しましたがエンジンは使用不能です。救助艇で葉山に帰りました。そんなこともいまとなっては楽しい思い出になっています。

その後、キャビン付の中古の大型ヨットを琵琶湖で買い、霞ヶ浦に陸送しました。そこで23年間、ヨットを楽しんで75歳で止めました。
ですから夏が来ると青く光る筑波山を見ながら家内とヨットを走らせたことを思い出します。
このように夏の海にはいろいろ沢山の楽しい思い出があります。

そしてなんと言っても一番懐かしいのは荒浜や菖蒲田や桂島の、そして野蒜海岸や宮戸島での少年の頃の海水浴の思い出です。

懐かしさのあまりインターネットで検索して桂島と宮戸島の風景写真を探しました。

1番目の写真は現在の桂島の海水浴場の風景です。この海水浴場は今年の7月初旬に海開きをするそうです。

2番目の写真は海開き後の宮戸島の海水浴場の風景写真です。
色とりどりのパラソルやテントが写っていますが、昔の海水浴場には無かった光景です。

自分で昔の思い出を懐かしんでいると家内の少女の頃の思い出を聞きたくなりました。
家内に海水浴の思い出があるか聞いてみました。
戦争前に鎌倉で生まれ育った家内は自宅から裸足で松原を抜けて、由比ヶ浜に歩いて行って毎日のように海水浴をしていたそうです。そして地引網を引くのを手伝って小魚をもらったことを楽しそうに話します。
当時、海水浴は最大の娯楽だったので鎌倉の家に親類が沢山泊まりに来て一緒に海水浴を楽しんだそうです。
家内のために最近撮った湘南の海水浴場の写真を示します。

3番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。

4番目の写真は昔から有名な大磯の海水浴場です。海開き後は人で溢れる海水浴場です。

5番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。夏を待ちきれない若者達がサーフィンを楽しんでいる光景です。

こんな光景を海水浴の光景を思い出すと不思議に若かった頃の元気が湧き出して来ます。
なんとか暑い夏を過ごす決心がつきました。皆様も暑い夏をお元気でお過ごし下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)