法華経の教えは全ての人に佛性があり、他人の利益のための行動する「利他行」を実践すれば、全ての人が菩薩になれるという教えのようです。
私はこの文章を書いていますが、文章の意味が理解出来ません。
そこで法華経の熱烈な信者であった宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ・・」という詩を通して「利他行」と「菩薩」の意味を理解してみようと思います。宮沢賢治が自分のことを考えないで貧しい農民のことを思いやっている詩です。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
1番目の写真は物思いしながら独り立っている賢治の写真です。
法華経はこの世に生きる全てのものが等しく憂いの無い涅槃の境地に入るれるようにお互いが助けあうことを教えています。
賢治はこの詩を書いただけではありません。農地の傍に羅須地人協会の建物を作り、毎日、農民を助けたのです。東北地方の冷害で苦しむ農村で、肥料の使い方の相談に乗り稲作の増産に協力したのです。そして最後は肥料の石灰を作る砕石会社で働いたのです。
2番目の写真は盛岡の高等農林学校を1920年に卒業し花巻農学校で教鞭をとっていた頃の宮沢賢治です。
しかし宮沢賢治は1926年(大正15年)、3月末にこの花巻農学校を退職してしまいます。
そうして羅須地人協会を設立しました。その目的は困窮する農民を助けるためだったのです。
3番目の写真は現在、花巻市に復元、公開されている羅須地人協会の建物と賢治の像です。
賢治は純粋な気持ちで農民を助けていたのですが、警察は当時勢いをつけていた共産主義の政治運動ではないかと疑ったのです。
賢治も誤解を招くことをしたのです。彼は「労働農民党」という政治団体の岩手県支部へ寄付をしたのです。
官憲は敏感でした。賢治を拘引し、羅須地人協会の活動を厳しく取り調べたのです。そして1927年の春には賢治は羅須地人協会の活動を一切止めてしまったのです。
4番目の写真は花巻温泉に勤めていた教え子の依頼で,温泉の遊園地に賢治が作った花時計の写真です。花巻市に復元、公開されています。
5番目の写真は花巻市にある賢治の自耕地の現在の様子です。
この写真の出典は、https://woman.excite.co.jp/blog/sanpo/sid_0368051/ です。
さて賢治は1928年(昭和3年)の6月には農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問します。その年の夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症します。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となったのです。
1931年(昭和6年)には、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料を農民に広め米の増産を助けます。この年の11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留めたのです。
1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去しました。1896年生まれ、享年37でした。生涯独身でした。
死の前日、農民から夜遅くまで肥料の相談を受けていたと言います。
法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言します。
戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められているそうです。
このように貧しい農民の利益のために生涯を「利他行」に捧げた人を法華経では菩薩と言います。
法華経の教えでは全ての人に佛性があり、他人の利益のための行動する「利他行」を実践すれば、全ての人が菩薩になれるという教えなのです。
ですから私は宮沢賢治を菩薩と信じています。
全ての人が菩薩になれるという教えに感動して法華経の信者になる人が多いのでしょう。
しかし蛇足を書けば法華経を主にした宗派や団体が何故か攻撃的な性質を持っているのが残念です。宗教は平和を守るのが本旨なのです。
それはさておき、宮沢賢治にまつわる思い出を少々書いて終りとします。あれは随分昔のことでしたが、私共は若い研究者の結婚の仲人を頼まれて盛岡に滞在したことがありました。北上川のほとりの光原社を訪れて賢治の「注文の多い料理店」の初版本を触らせて貰ったのです。まだ若かった家内が、「初版本は日本に僅かしか残っていないのよ」と言って感動していました。結婚式が終わってから花巻市に行って宮沢賢治記念館を訪問し花時計も見ました。そして復元された羅須地人協会に行きました。それは高台に建っていて眼下には水田が広がり、その向こうは北上川になっているのです。羅須地人協会の中の黒板には「下ノ畑ニイマス」と白墨で書いてありました。
賢治の記念碑の前で拝んでいるとドドドッと風が吹いて来て不思議な雰囲気になりました。本当に賢治が下の畑に見えるような錯覚に襲われたのです。その感じが今でも忘れられません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
私はこの文章を書いていますが、文章の意味が理解出来ません。
そこで法華経の熱烈な信者であった宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ・・」という詩を通して「利他行」と「菩薩」の意味を理解してみようと思います。宮沢賢治が自分のことを考えないで貧しい農民のことを思いやっている詩です。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
1番目の写真は物思いしながら独り立っている賢治の写真です。
法華経はこの世に生きる全てのものが等しく憂いの無い涅槃の境地に入るれるようにお互いが助けあうことを教えています。
賢治はこの詩を書いただけではありません。農地の傍に羅須地人協会の建物を作り、毎日、農民を助けたのです。東北地方の冷害で苦しむ農村で、肥料の使い方の相談に乗り稲作の増産に協力したのです。そして最後は肥料の石灰を作る砕石会社で働いたのです。
2番目の写真は盛岡の高等農林学校を1920年に卒業し花巻農学校で教鞭をとっていた頃の宮沢賢治です。
しかし宮沢賢治は1926年(大正15年)、3月末にこの花巻農学校を退職してしまいます。
そうして羅須地人協会を設立しました。その目的は困窮する農民を助けるためだったのです。
3番目の写真は現在、花巻市に復元、公開されている羅須地人協会の建物と賢治の像です。
賢治は純粋な気持ちで農民を助けていたのですが、警察は当時勢いをつけていた共産主義の政治運動ではないかと疑ったのです。
賢治も誤解を招くことをしたのです。彼は「労働農民党」という政治団体の岩手県支部へ寄付をしたのです。
官憲は敏感でした。賢治を拘引し、羅須地人協会の活動を厳しく取り調べたのです。そして1927年の春には賢治は羅須地人協会の活動を一切止めてしまったのです。
4番目の写真は花巻温泉に勤めていた教え子の依頼で,温泉の遊園地に賢治が作った花時計の写真です。花巻市に復元、公開されています。
5番目の写真は花巻市にある賢治の自耕地の現在の様子です。
この写真の出典は、https://woman.excite.co.jp/blog/sanpo/sid_0368051/ です。
さて賢治は1928年(昭和3年)の6月には農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問します。その年の夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症します。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となったのです。
1931年(昭和6年)には、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料を農民に広め米の増産を助けます。この年の11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留めたのです。
1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去しました。1896年生まれ、享年37でした。生涯独身でした。
死の前日、農民から夜遅くまで肥料の相談を受けていたと言います。
法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言します。
戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められているそうです。
このように貧しい農民の利益のために生涯を「利他行」に捧げた人を法華経では菩薩と言います。
法華経の教えでは全ての人に佛性があり、他人の利益のための行動する「利他行」を実践すれば、全ての人が菩薩になれるという教えなのです。
ですから私は宮沢賢治を菩薩と信じています。
全ての人が菩薩になれるという教えに感動して法華経の信者になる人が多いのでしょう。
しかし蛇足を書けば法華経を主にした宗派や団体が何故か攻撃的な性質を持っているのが残念です。宗教は平和を守るのが本旨なのです。
それはさておき、宮沢賢治にまつわる思い出を少々書いて終りとします。あれは随分昔のことでしたが、私共は若い研究者の結婚の仲人を頼まれて盛岡に滞在したことがありました。北上川のほとりの光原社を訪れて賢治の「注文の多い料理店」の初版本を触らせて貰ったのです。まだ若かった家内が、「初版本は日本に僅かしか残っていないのよ」と言って感動していました。結婚式が終わってから花巻市に行って宮沢賢治記念館を訪問し花時計も見ました。そして復元された羅須地人協会に行きました。それは高台に建っていて眼下には水田が広がり、その向こうは北上川になっているのです。羅須地人協会の中の黒板には「下ノ畑ニイマス」と白墨で書いてありました。
賢治の記念碑の前で拝んでいるとドドドッと風が吹いて来て不思議な雰囲気になりました。本当に賢治が下の畑に見えるような錯覚に襲われたのです。その感じが今でも忘れられません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)