後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

最近の日本社会の変化(6)都電が消え車社会への変化

2018年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年生まれの私は大学卒業まで仙台に育ちました。仙台市の市電に良く乗りました。乗り物が好きだった私は、運転席の後ろに立って、風景が変わるのを楽しみました。それは楽しい思い出として心に残っています。
1962年にアメリカ留学から帰って東京に住むようになりました。
当時は都電の全盛時代のなごりで、都電が都区内の全域に走っていました。
仙台の楽しかった市電を思い出しながら都電にもしょっちゅう乗ったものです。

今日は都電が消え去り、日本中が車社会になった頃のことを書きたいと思います。
都電の最盛期は1955年頃だったそうです。その頃の営業キロは約213kmもあり、40の運転系統があったそうです。そして毎日、約175万人が利用する日本最大の路面電車だったそうです。
しかし都電は消え去る運命にあったのです。
東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年まで都電が廃止されることになったのです。しかし唯一つ荒川線だけが存続することになったのです。
都電が消えた原因は地下鉄網の完備と自家用車の普及です。
日本国中で高速道路が建設され日本全体が車社会になってしまったのです。
しかし、まだ路面電車を大切に使っている都市も幾つか残っています。

それでは東京に都電が走っていた頃の風景と車社会になった後の風景を示します。

1番目から3番目の写真の出典は、http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html です。38系統、砂町方面行きの都電です。

2番目の写真は13系統、新宿行きの都電です。

3番目の写真は19系統、王子行きの都電が須田町の停留所に停まっている風景です。

4番目の写真は車が充満している道路の風景写真です。

5番目の写真は都電が撤去され美しく整備された新宿の風景です。


さて日本から市電や都電などの路面電車が消え、車社会になって日本はどのように変わりましたでしょうか?
今日はこの問題を提起するだけです。皆様にお考え頂けたら幸いです。
私の浅薄な考えを書く代わりに以下に都電に馴染んでいた人の回想をお送りいたします。

以下は、インタビュー:都電網研究会、
http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html からの抜粋です。
前文;
根津のまちを歩いていたときのこと、上野動物園に程近い、池之端(いけのはた)で店頭に都電の写真を掲げている写真館を偶然「発見」しました。後日に、その写真館「志田フォト」の店主、志田英雄さんと奥様の伊久代さん、そして志田さんの都電写真仲間である関口さんに、都電についてのお話しを伺うことができました。以下、その模様をお伝えします。そして雨宮敏夫さんの回想も付け加えました。
(1)昔日の池之端七軒町(しちけんちょう)界隈
志田英雄さん(以下H):
私は、昭和3年の3月7日生まれなのですが、生まれた場所はまさにここ(写真館)の裏でしてね。その頃の昭和4年あたりは、父はここで書画などの骨董品を扱う店をやっていました。母は理容学校の経営をしていて、弟子の中に山野愛子さんがいました。ウチに勉強しに来た後、江東区にお店を出されたようです。
市電(その後の都電)は、確か大正7年に、計画が持ち上がったと聞いています。それで、市電の軌道が不忍通りをこの池之端で曲がって、不忍池 (しのばずのいけ)の方へ通るようになったんです。私はそのだいぶ後に生まれたわけですが、私の小さい頃は、市電のレール沿いにずーっとドブ川が流れていて、そこでエビガニだとか、オタマジャクシを捕ったりしたものです。
(2)間一髪 !! アメリカの爆撃機に狙われ・・・
>>市電や、その後の都電を利用しての印象的な出来事は、ありましたか。
H:
やはり戦争中ですね。昭和20年3月の東京大空襲の後、5月だったか、私は都立工芸の夜学に通っていたのですが、授業中に空襲警報が発せられて(笑)。皆、家に帰るようにっていうので、水道橋からきて須田町で乗り換えて、こちらに帰ってくる時に末広町で爆弾が落っこったんですよね。
それがねえ、乗っていた電車が当時は「ポール集電」だったでしょう。電車を走らせていると、時々、ポールと架線が離れたりまたくっついたりして、そのときに電流が「バチッ!」とスパークして火花が散るんですよ。灯火管制で町中が真っ暗のなか、アメリカの爆撃機はその一瞬の、火花の光をめがけて爆弾を落っことしてくるんですよね。
火花が散って30秒くらいして、急にドドドーッと爆撃機のエンジン音がしてきたと思ったら、すぐにボカーンと後ろで爆発したんですよ。後続の電車に乗っていた人に怪我人が出たと聞いて、うわあ、これは後ろの電車に乗っていたら危なかったなあ、とかね。スパークしたのは私の乗っていた電車で、そのスパークした場所に正確に爆弾が落とされて、その後続の電車が被害を受けた、というわけです。
(3)雨宮敏夫さん(喫茶店「コーヒーハウスあめみや」店主)
2012年7月22日 三ノ輪橋にて
◇私は昭和27年の生まれなんですけれども、そのときからここ(ジョイフル三ノ輪商店街内 コーヒーハウスあめみや)が自分の住居だったんです。都電27系統、ご存知の通り今の荒川線の一部ですが、当時は三ノ輪橋から赤羽までいく電車でして、僕らの子どもの頃、この辺の人は誰もが都電と呼ばず「王電 (おうでん)」と呼んでいました。
既に東京都が運営してましたから、正しくは都電になっていたわけですけど、この呼び名はそれ以前の「王子電車(註:かつて存在した軌道線の会社)」時代の名残なんですね。ここからすぐそこの梅沢写真館は、かつて王電ビルでして、そこに「王電」と大きく看板が出ていた時代がありましたので、世田谷を走っている「玉電(たまでん:玉川電気軌道)」にも引っかけて、皆「王電、王電」と言ってました。

以上は何気ない都電に関する思い出です。日本の政治や国際関係に関係の無い話です。
しかし都電が走っていた時代の人々の感情が描かれています。それは義理人情の生きていた社会でした。
車社会になって義理人情も消えました。しかし車社会では人々が他人に優しくなりました。ボランティアの精神が行き渡り、見ず知らずの誰にでも優しくなったのです。
昔は義理のある人だけに情をかけました。それは恩に報いるという社会でした。
現在は恩が有る、無しに関係なく他人へ親切にする社会になったのです。
本当に良い時代になったのです。私はそのように楽観的に考えることにしています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)