後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

大入島太郎さんのヨットによる田舎暮らし候補地探し

2018年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
日本全国に民宿ブームが起きたのは随分前のことでした。しかしそのブームも消えさり廃業した民宿が沢山残りました。地方に行くと荒れ果てた昔の民宿の建物が残っています。
栄枯盛衰と言いながらも淋しいものです。
しかし現在でも繁盛している民宿もあるのです。何故でしょう?

今日はこの謎解きをしたいと思います。
その民宿は大分県の佐伯市の大入島にあります。花水木という名前の民宿です。
経営者は7年前に東京から移住した大入島太郎(本名、大熊 敏広)さんです。
何故、繁盛しているか?その解答を先に書いてしまいます。
原因は3つ程あります。
(1)都会の田舎暮らし希望者へ移住に必要なことを具体的に指導しています。
(2)大入島太郎さん所有のヨットで九州を一周して都会人の移住先を探し回ります。
(3)世界中のヨットの好きな外国人が、ヨットの帆走つきの「花水木」に宿泊します。

1番目の写真は大分県の佐伯市の大入島です。

2番目の写真は大入島太郎さん所有のヨットです。

さて上記の(1)、(2)、(3)についてもう少し説明をしたいと思います。
何と言っても大入島太郎さんは独創的な方でです。
民宿宿泊と田舎暮らしの指導を組み合わせてお客を招んでいます。
所有のヨットを使って楽しい帆走と組み合わせてお客を招んでいます。
九州を一周しながら田舎の移住先を探すことと組み合わせてお客を招んでいます。
そして世界中のヨットの好きな人を民宿「花水木」へ招んでいます。
勿論、海辺の民宿なので小型漁船でお客を海釣りにも案内します。大物が釣れます。

3番目の写真は海釣りで得た魚です。

(1)移住に必要な指導とは次のようなことです。
田舎暮らしや離島に移住を考えている方に、移住の前に実際に仕事や暮らしを体験できるようにします。
例えば仕事としての民泊の集客方法や運営、漁師としての申請やその実際、船の操船方法(免許取得の方法)、野菜作りや米作り等を教えています。

(2)大入島太郎さん所有のヨットで九州を一周して都会人の移住先を探し回ります。
これは大変独創的な企画なので、昨年の11月に1ケ月間程の九州一周の計画を示します。
・・・11月1日から1か月にわたり九州クルージングセイルトレーニングを開催します。
ヨットの楽しみと秋の海の自然を充分に感じられます
コースは大分県をスタートし反時計回り、下関、対馬、壱岐、長崎、五島列島、下甑島、枕崎港、硫黄島、種子島、日南、佐伯と回ります。
初心者歓迎!女性は別室あります。もちろん途中乗船、途中下船かまいません
ベテラン船長、クルーが乗船しますので一緒に遊びましょう!・・・

4番目の写真はこの企画を紹介した新聞記事の写真です。以下は大入島太郎さんから頂いたメールの抜粋です。
・・・東京では家の前にヨットを係留することは夢の夢です。家の価格も湘南の海岸では30坪4億位します。しかし、ここ大分では数百万もしないで家が購入でき、船が無料で置けます。
添付の新聞のようなクルーズで、10万坪の山を購入した方や、家を購入した方や、島で移住の許可をもらえた方がいました。楽しいことがありました。まだまだ日本国内にはこんな場所があります。東京とは価値観が全く違います。・・・
・・・ちなみに、隣の津久見市のある漁港では、漁港から100mに60坪の家、平屋5LDK、築年数は古い。この家5万です。家賃ではなく購入価格です。私のいる島、100坪 平屋 8LDK 畑あり 30万です。宿泊に来た親子が帰りに購入しました 格安です!・・・

(3)世界中のヨットの好きな外国人が、ヨットの帆走つきの「花水木」に宿泊します。
長い記事になりますので、この項目は説明を省略して2枚の写真だけを示します。

5番目の写真は去年の外国人の来客です。

6番目の写真も去年の外国人の来客です。
このような外国からのお客さんはインターネットで集客しています。

さて結論を書きます。
大入島にある花水木という民宿が繁盛している原因は経営者が民宿とヨットを組み合わせて数々の面白い新企画を実行しているからなのです。集客方法が独創的なのです。
時代遅れの民宿でも経営企画が斬新で多くの人の興味を引きつけているのです。嗚呼、経営能力とはこういうものだと感動せざるを得ません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料====================================
(1)「東京のヨットクラブの経営者が離れ島へ移住、地域活性化に尽力、その二」2017年03月28日 掲載記事。
・・・大入島太郎さんは昔、私を彼の豪華なヨットに乗せてくれた人です。
彼の移住した勇気と、地元へ貢献しようとしている姿に感動したので昨日、「東京のヨットクラブの経営者が離れ島へ移住、地域活性化に尽力、その一」という記事を掲載しました。
今日はその続編を書きたいと思います。
佐伯市は佐伯藩の城下町として栄えた町です。「佐伯の殿様、浦でもつ」と言われたとうり豊富な海の幸と山の幸に恵まれていました。人口は7万人くらいですが、現在、佐伯市の島々は過疎化の問題が深刻です。
大入島もその一つで以前は3000人以上も住民がいましたが現在は600人位に減って高齢者ばかりです。この島は佐伯港はら700m、フェリーで7分、1日11便あります。面積は5.66平方キロメートルで、瓢箪型をしたかなり大きな島で、小学校と中学校もあります。
その島へ大入島太郎さんが6年前に移住し民宿を経営しているのです。・・・以下省略します

(2)「離島の元気な子供たちの写真をお送りします」2017年03月27日 掲載記事、
大分県の佐伯市の大入島という過疎化しつつある島でも子供たは元気です。今日は花の写真の代わりに離島の子供の写真をお送りします。写真の出典は、http://odoriko.wixsite.com/index です。
「踊り子IN大入島」というホームページからです。
踊りの塾の指導しているのが大熊 亜里紗さんという人です。大入島太郎さんの奥さまです。

7番目の写真は大熊亜里沙さんです。

8番目の写真は元気な島の子供達です。
大熊 亜里紗さんは2013年に、大入島で子供たちと共に地域の活性化を図るためにダンスチーム、「踊り子IN大入島」を結成しました。

「白い雲、緑の樹林の写真をお楽しみ下さい」

2018年06月03日 | 写真
今日は日曜日なので「カトリック小金井教会・・・」という記事を掲載しました。
しかし考えてみると宗教にご関心の無い方々にとっては、面白くない内容だと存じます。
そこで昨日、甲斐駒岳の麓で撮ってきた白い雲と緑の樹林の風景写真をお送りいたします。
写真をお楽しみ下さい。









カトリック小金井教会40周年記念ミサとムニ神父様の思い出

2018年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
3年ほど前の2015年11月23日にカトリック小金井小教区創立40周年の記念ミサがありました。
私共は1975年の小金井小教区の認可以前に着任したヨゼフ・ムニ神父のもとで古い木造の会堂でのミサに出席していましたので、もう43年以上もこの教会に通っていたことになります。
それだけに2015年の40周年記ミサは感慨深い良い思い出になりました。
そこで40周年記念ミサと初代ムニ主任司祭のことなどを気楽に書いておきたいと思います。

さて40周年記念ミサを写真にしたがってご説明いたします。

1番目のの写真は岡田大司教が香炉を振り回して会堂の中を清めている場面です。
この40周年記念ミサには小金井教会の3代目の主任司祭の山本量太郎神父さまや4代目の辻茂神父さまなどが来賓として出席していました。
特に3代目の主任司祭の山本神父さまは私の洗礼の時、代父をしてくださった山本大二郎先生のご子息なのでいろいろとお世話になりました。その山本神父さまが傍に居てくださるだけで感動します。
今日の40周年記念ミサは何時もの日曜日の主日のミサと同じでした。
聖歌を歌い、聖書の朗読があり岡田大司教さまの説教がありました。
ミサの終りの方ではイエスの体としてパン片を信者一人一人へ手渡します。

2番目の写真は山本神父様が信者へパン片を手渡している光景です。

3番目の写真はミサ後の記念写真を撮る準備をしている様子です。皆が楽しそうにしています。

4番目の写真はミサ後の祝賀会の様子です。小金井市にあるいろいろな宗派のプロテスタント教会の代表者も出席してくれました。
祝賀会の時、山本神父さまと握手をしました。山本神父様は時々このブログをご覧になっているそうです。

当日は朝から、親しくお世話になった主任司祭のヨゼフ・ムニ神父さまのことを思い出していました。
ボストン生まれのいかにもアメリカ人らしく気さくな、そして情熱的な方でした。私共の家にも何度か来てくださり、ある時は大相撲のテレビを一緒に見たこともあります。
めったに故郷に帰らないので弟さんが様子を見にいらしてました。その弟さんと一緒に食事をしたことも楽しい思い出です。
そして1988年の夏に突然のように帰天したのです。
聖堂に置かれたお棺の中のやすらかなお顔を見たのが最後になりました。

5番目の写真は府中市にあるムニ神父さまのお墓です。右側の質素な木造の十字架が墓です。
ムニ神父さまのことは何度かこのブログに書きました。
そこでその一部を再録いたします。

「2008年4月24日掲載記事の一部」
・・・ヨゼフ・ムニさまの粗末な木の十字架の墓はお世話になった日本人が作ったに違いない。毎日誰かが花を供えに来るようだ。彼の故郷はアメリカのボストンと聞く。家族は来ない。一生、日本人のために働いて、日本人が墓を作り、花を供える。
外国でその国の人々のために働き、その地の墓に眠る。そんな人生もあって良いと思う。・・・以下省略。

実はムニ神父さまは1951年に司祭叙階の後すぐに日本の四日市カトリック教会に着任して、それから1972年までの21年間を四日市で活躍していたのです。その当時の信者さん中根さんから私のブログへ以下のような投書がありました。
・・・ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた...
「2012-04-11掲載記事のへの中根さんからのコメントの一部」
・・・ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた時に、私(中根さん)は朝のミサでの侍者をする為、自転車でよく教会に通いました。まだ小学生の時ですが、ミサが終わった後にはアメリカの切手をいただき、私(中根さん)は今でも大切に保管をしています。
もう私も(中根さん)60を過ぎ、遠い昔の思い出ですが、神父さんたちと琵琶湖へ行ったり教会でのたくさんのイベントと、あの笑顔がいまだに忘れられません、ムニ神父さんの近くに行くと甘いパイプ煙草の匂いがして、その影響か今では私もパイプ煙草を愛用しています。今は横浜に住んでいますので、近々お墓に行きたいと思います。
懐かしい、ムニ神父さんへの色々なコメントを涙を流しながら拝見させていただきました、本当に有難うございました。・・・

そして以下のようなコメントも、四日市でムニ神父の侍者をしていた中根さんから頂きました。
「ムニ神父様を偲んで」、http://www4.cty-net.ne.jp/~johnmary/ribero217.htm
・・・四日市におられる間、ムニ神父様のご活躍はすばらしいものでありましたが、いろんな試練もありました。そのひとつは、昭和34年9月27日に当地を襲った伊勢湾台風でありました。
わたし(中根さん)は翌日、オートバイに乗って、教会を訪ねようと思いましたが、十七軒町の地区は浸水がひどかったので、一号線にオートバイをおいて、教会まで歩いて来ました。
司祭館並びに御聖堂は滅茶苦茶にやられて、ムニ神父様は後片付けを一生懸命にやっておられました。その日、神父様は昼、海星学園に来て、わたしどもと一緒に食事をし、しばらく休みました。
鉄筋コンクリートの海星学校の校舎があって、その中にわたしどもの臨時の住まいがありましたので、よろしければ夜もここで泊まられたら如何ですか、と誘いましたが、神父様は教会から離れないで、何とかすれば間に合うだろうと言われ、帰りました。
その後、ムニ神父様は、乗っていたグレーのワゴン車で被害者に、京都から送っていただいた布団、毛布、食物などを一生懸命に配ったことがありました。
それから4年後、即ち昭和38年に、数年前に立て直した立派な木造の教会が全焼いたしました。神父様はまた、ゼロから遣り直さなければならなかった時、神さまのみ摂理に対して、揺ぎない信仰をもって、見事にいまの御聖堂を完成させたのであります(勿論、信者の方の尽力はいうまでもありませんが)。
四日市において、すばらしいキリストの共同体を建てるために尽力されました。・・・以下省略・・・

ヨゼフ・ムニ神父の追悼集の本は平成元年8月14日に発行されています。この446ページの本を見ると情熱的に活躍し、ご自分を日本の信者の為に捧げたムニ神父の業績が詳しく書いてあります。私共の知っていることはその万分の一に過ぎないことがしみじみと判ります。
日本を占領したアメリカ人軍人達とは全く違った考えで日本人を助け、日本の地になったアメリ人もいたのです。わすれられません。

れはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)