後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

老愁は払えども尽きず、又春が過ぎる

2018年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム
何度も何度も甲斐駒の山になびく白い雲を見上げ、足もとに咲く花々を見る度に思います。
この風景は毎年変わりません。しかし私の老愁はますます深くなっていきます。
私に親しかった人々は一人一人相ついで逝ってしまいました。私を知っている人が居なくなったのです。淋しいです。これが老愁というものでしょうか?
先週撮って来た写真をお送りします。









年老いると毎日自由に遊べて楽しいものです。老境の華やぎも感じます。しかし心の底は淋しいのです。
親しかった人々は一人一人相ついで逝ってしまいました。そして自分も愛する家族と別れて旅立つ定めなのです。この悲しさをまぎらわすためにあちこち旅をします。近くの花園や植物園に足繁く通います。毎日、明るく生きています。
しかし老愁は払えども尽きません。春が過ぎ梅雨の季節になりました。毎年、毎年、同じように春を送るのです。
憂鬱な梅雨の毎日になったので暗い気持ちになります。老愁が深まります。
こんな気分になります。

そんな時家内が八木重吉の詩を見せてくれました。
      雨
  窓をあけて雨をみていると
  なんにもいらないから
  こうしておだやかなきもちでいたいとおもう

また、何気なく永井荷風の墨東綺譚の最後の部分を読んでいたら「老愁は払えども尽きず、又秋を送る」という句がありました。丁度良いのでそれを少し変えて今日の題目にしました。

その墨東綺譚の最後の部分は次のようなものです。

・・・窓の外に聞える人の話声と箒の音とに、わたくしはいつもより朝早く眼をさました。臥床の中から手を伸して枕もとに近い窓の幕を片よせると、朝日の光が軒を蔽う椎しいの茂みにさしこみ、垣根際に立っている柿の木の、取残された柿の実を一層ひとしお色濃く照している。
箒の音と人の声とは隣の女中とわたくしの家の女中とが垣根越しに話をしながら、それぞれ庭の落葉を掃いているのであった。乾いた木の葉のひびきを立てる音が、いつもより耳元ちかく聞えたのは、両方の庭を埋うずめた落葉が、両方ともに一度に掃き寄せられるためであった。

 わたくしは毎年冬の寝覚に、落葉を掃く同じようなこの響をきくと、やはり毎年同じように、「老愁ハ葉ノ如ク掃ハラヘドモ尽キズ又秋ヲ送ル。」と言った館柳湾の句を心頭に思浮べる。その日の朝も、わたくしは此句を黙誦しながら、寝間着のまま起たって窓に倚よると、崖の榎の黄ばんだ其葉も大方散ってしまった梢から、鋭い百舌もずの声がきこえ、庭の隅に咲いた石蕗花の黄い花に赤蜻蛉がとまっていた。赤蜻蛉は数知れず透明な其翼をきらきらさせながら青々と澄渡った空にも高く飛んでいる。

 曇りがちであった十一月の天気も二三日前の雨と風とにすっかり定って、いよいよ「一年ノ好景コレヲ見ヨ」と東坡の言ったような小春の好時節になったのである。今まで、どうかすると、一筋二筋と糸のように残って聞えた虫の音も全く絶えてしまった。耳にひびく物音は悉く昨日のものとは変って、今年の秋は名残りもなく過ぎ去ってしまったのだと思うと、寝苦しかった残暑の夜の夢も涼しい月の夜に眺めた景色も、何やら遠いむかしの事であったような気がして来る。

年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思うところの感懐もまた変りはないのである。花の散るが如く、葉の落おつるが如く、わたくしには親しかった彼かの人々は一人一人相ついで逝いってしまった。わたくしもまた彼の人々と同じように、その後を追うべき時の既に甚しくおそくない事を知っている。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃はらいに行こう。落葉はわたくしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋めつくしているのであろう。・・・昭和十一年丙子十一月脱稿

どうも梅雨の憂鬱な季節は暗い気持ちになりがちです。その気持ちを書いてしまったので気分がはれました。老境では強がらず悲しい時は悲しい、淋しい時は淋しいと言ったほうが良いと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料=============
永井荷風の外国体験;https://ja.wikipedia.org/wiki/永井荷風 より抜粋。
1903年(24歳)、父の意向で実業を学ぶべく渡米、1907年までタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントンD.C.などにあってフランス語を修める傍ら、日本大使館や横浜正金銀行に勤めた。銀行勤めとアメリカに結局なじめず、たっての願いであったフランス行きを父親のコネを使って実現させ、1907年から1908年にかけてフランスに10ヶ月滞在した。横浜正金銀行リヨン支店に8か月勤め(当時リヨンは一大金融都市だった)、退職後パリに遊び、モーパッサンら文人の由緒を巡り、上田敏と知り合った。
外遊中の荷風は繁くオペラや演奏会に通い、それが『西洋音楽最近の傾向』『欧州歌劇の現状』などに実った。ヨーロッパのクラシック音楽の現状、知識やリヒャルト・シュトラウス、ドビュッシーなど近代音楽家を紹介した端緒といわれ、我が国の音楽史に功績を残している。

第二次世界大戦中の永井荷風の苦難;
戦争の深まりにつれ、新作の新刊上梓は難しくなったが、荷風は『浮沈』『勲章』『踊子』などの作品や『断腸亭日乗』の執筆を続けた。草稿は複数部筆写して知友に預け、危急に備えている。戦争の影響は容赦なく私生活に悪影響を与え、食料や燃料に事欠くようになる。1945年3月10日払暁の東京大空襲で偏奇館は焼亡、荷風は草稿を抱えて避難したがおびただしい蔵書は灰燼に帰した。
以降、荷風は菅原夫妻を頼って中野区住吉町(現東中野四丁目)から明石市、さらに岡山市を転々とするがそのたびに罹災し、ようよう7月3日同市巌井三門町(現岡山市北区三門東町)の民家に落ち着く。すでに66歳となっていた荷風は、この倉皇の期にも散策と日記を怠っていないが、度重なる空襲と避難の連続で下痢に悩まされたり、不安神経症の症状が見られなど身体に変調をきたす。同行した永井智子の大島一雄宛の手紙には、「最近はすつかり恐怖病におかかりになり、あのまめだつた方が横のものをたてになさることもなく、まるで子供のようにわからなくなつてしまひ、私達の一人が昼間一寸用事で出かけることがあつても、『困るから出かけないでくれ』と云われるし、食べた食事も忘れて『朝食べたかしら』なぞと、云われる始末です。……」と荷風の状況が生々しく書かれている。・・・・