韓国の慰安婦問題や徴用工問題を少し深く考察しました。
結論をかいつまんで書きます。
慰安婦問題や徴用工問題の根本原因は1910年から1945年までの日本による朝鮮併合にあると考えられます。
したがって日本の国策に関連して起きた慰安婦問題や徴用工問題のような悲劇に対して日本には道義的な責任があります。
日本の国策に関連したという表現は日本政府が直接実行しなくても朝鮮総督府の助言で民間人が行ったことも含むという意味です。
道義的責任は日韓両国の政府間の協定以上の責任を意味します。道義的責任を取るためには日本民民族の誠意ある謝罪と民間人の寄付による慰謝料を払うことです。金額は問題ではありません。
道義的責任を取るか否かは日本民族自身の問題です。道義的責任を取れば日本民族は韓国から信頼されます。いたって明白なことです。
以上の結論に至った理由を幾つか説明致します。
今日は「韓国は1919年の上海の亡命政府から始まる」という項目を取り上げます。
多くの日本人は隣の大韓民国は1945年の日本の敗戦によって生まれた新しい国だと理解しています。
この日本人の誤解こそ日韓関係を悪くしているのです。
韓国人は日本の朝鮮併合に反対して、上海に1919年に作った大韓民国臨時政府が現在の大韓民国のはじまりだという教育を受けます。
そしてその事は現在の韓国の憲法の冒頭に書いてあるのです。
・・・悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、、、以下省略。
ここに出て来る3・1運動とは韓国人なら誰でも知っている1919年の朝鮮独立運動のことです。
この冷厳な事実は事実として認めないと適切な日韓関係が築けないと私は思っています。以下に1919年の韓国の臨時政府が出来る経緯をご紹介いたします。
三・一独立運動後、独立運動の継続と拡大のため、内外各地で政府樹立の計画が進められていました。
当時、上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結していたが、彼らは臨時議政院を設立し李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言したのです。
同じころ、京城(ソウル)とシベリアでも臨時政府が樹立されたが、やがて上海の臨時政府に統合されました。
1919年9月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1920年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧・申圭植・盧伯麟が国務総理代理を引き受けます。
国務総理代理体制は1922年9月、李承晩の大統領制に改編され、1925年には朴殷植を大統領に選出しました。
一方、大韓民国臨時政府の地方組職は朝鮮国内の連通府と交通局があり、海外には居留民団組職があいました。
連通府と交通局は朝鮮北西地方に結成され、江原道と忠清道の一部には大韓独立愛国団、中部以南では大韓民国青年外交団が代行します。
この時大同団、ソウルの大韓民国愛国婦人会、平壌の大韓愛国婦人会・大韓赤十字会も大韓民国臨時政府との関係で活動したのです。
居留民団組職は上海などの中国本土にのみ存在し、アメリカとメキシコ・フランスでは大韓人国民会の組職、満州では大韓民国臨時政府傘下に結成されていた西間島の西路軍政署と北間島の北路軍政署の組職が各自代理しました。
戦争終結直前の地方組職は重慶の居留民団と米州の大韓人国民会、中国本土に点在する光復軍となっていました。
上記は、http://ja.wikipedia.org/wiki/大韓民国臨時政府 より抜粋、転載しました。
なお三・一運動は1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった運動です。独立万歳運動や万歳事件とも呼ばれています。現在の韓国では3月1日を三一節として祝日に指定しています。
最近の日本では朝鮮併合は彼等の希望でなされたものだという主張が多くなされています。
以上のことを読むとその主張はとんでもない間違いだという事がお分かりと思います。
韓国の慰安婦問題や徴用工問題を少し深く考察した結果はこれから続編でいろいろ書く予定です。
今日はこれでお終いにします。
挿し絵代わりの写真は韓国の花々の風景写真です。
出典は、https://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TMC/TE_JA_7_5.jsp…
です。
結論をかいつまんで書きます。
慰安婦問題や徴用工問題の根本原因は1910年から1945年までの日本による朝鮮併合にあると考えられます。
したがって日本の国策に関連して起きた慰安婦問題や徴用工問題のような悲劇に対して日本には道義的な責任があります。
日本の国策に関連したという表現は日本政府が直接実行しなくても朝鮮総督府の助言で民間人が行ったことも含むという意味です。
道義的責任は日韓両国の政府間の協定以上の責任を意味します。道義的責任を取るためには日本民民族の誠意ある謝罪と民間人の寄付による慰謝料を払うことです。金額は問題ではありません。
道義的責任を取るか否かは日本民族自身の問題です。道義的責任を取れば日本民族は韓国から信頼されます。いたって明白なことです。
以上の結論に至った理由を幾つか説明致します。
今日は「韓国は1919年の上海の亡命政府から始まる」という項目を取り上げます。
多くの日本人は隣の大韓民国は1945年の日本の敗戦によって生まれた新しい国だと理解しています。
この日本人の誤解こそ日韓関係を悪くしているのです。
韓国人は日本の朝鮮併合に反対して、上海に1919年に作った大韓民国臨時政府が現在の大韓民国のはじまりだという教育を受けます。
そしてその事は現在の韓国の憲法の冒頭に書いてあるのです。
・・・悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、、、以下省略。
ここに出て来る3・1運動とは韓国人なら誰でも知っている1919年の朝鮮独立運動のことです。
この冷厳な事実は事実として認めないと適切な日韓関係が築けないと私は思っています。以下に1919年の韓国の臨時政府が出来る経緯をご紹介いたします。
三・一独立運動後、独立運動の継続と拡大のため、内外各地で政府樹立の計画が進められていました。
当時、上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結していたが、彼らは臨時議政院を設立し李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言したのです。
同じころ、京城(ソウル)とシベリアでも臨時政府が樹立されたが、やがて上海の臨時政府に統合されました。
1919年9月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1920年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧・申圭植・盧伯麟が国務総理代理を引き受けます。
国務総理代理体制は1922年9月、李承晩の大統領制に改編され、1925年には朴殷植を大統領に選出しました。
一方、大韓民国臨時政府の地方組職は朝鮮国内の連通府と交通局があり、海外には居留民団組職があいました。
連通府と交通局は朝鮮北西地方に結成され、江原道と忠清道の一部には大韓独立愛国団、中部以南では大韓民国青年外交団が代行します。
この時大同団、ソウルの大韓民国愛国婦人会、平壌の大韓愛国婦人会・大韓赤十字会も大韓民国臨時政府との関係で活動したのです。
居留民団組職は上海などの中国本土にのみ存在し、アメリカとメキシコ・フランスでは大韓人国民会の組職、満州では大韓民国臨時政府傘下に結成されていた西間島の西路軍政署と北間島の北路軍政署の組職が各自代理しました。
戦争終結直前の地方組職は重慶の居留民団と米州の大韓人国民会、中国本土に点在する光復軍となっていました。
上記は、http://ja.wikipedia.org/wiki/大韓民国臨時政府 より抜粋、転載しました。
なお三・一運動は1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった運動です。独立万歳運動や万歳事件とも呼ばれています。現在の韓国では3月1日を三一節として祝日に指定しています。
最近の日本では朝鮮併合は彼等の希望でなされたものだという主張が多くなされています。
以上のことを読むとその主張はとんでもない間違いだという事がお分かりと思います。
韓国の慰安婦問題や徴用工問題を少し深く考察した結果はこれから続編でいろいろ書く予定です。
今日はこれでお終いにします。
挿し絵代わりの写真は韓国の花々の風景写真です。
出典は、https://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TMC/TE_JA_7_5.jsp…
です。