後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

中国共産党員と親しくなり中国社会の実態を知る(1)

2019年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様ご存知のように中国は共産党独裁の国です。私は偶然にその共産党員と非常に親しくなりました。
北京の周栄章さんと瀋陽の金応培さんです。親しくなったいきさつは続編で書きますが、この2人のお陰で中国社会の実態をかなり深くかつ詳細に知ることが出来たのです。
そこで中国の社会の実態を連載記事として数回お送りします。

今日は1949年の共産主義中国の建国から最近の習近平時代までの歴史を5つの大事件に従って振り返ってみたいと思います。私が考えた5つの大事件とは次の通りです。
(1)1949年10月の天安門上での毛沢東による建国宣言。
(2)1966年から1976年までの毛沢東主導による文化大革命という内戦。
(3)1976年4月の周恩来追悼に端を発した第一次天安門事件。
(4)1989年6月の胡耀邦追悼に端を発した第ニ次天安門事件。
(5)2012年11月の習近平が胡錦濤氏から中共総書記を受け継いだこと。
これら5つのことが現在の中国の歴史の大きな節目になっていると私は考えています。
その理由は5枚の写真を示しながら簡略に説明いたします。

1番目の写真は1949年10月、天安門上で建国宣言をする直前の毛沢東です。
1949年1月、林彪軍は東北から南下し北京に入城します。
一方南では4月に、解放軍はいっせいに長江を渡河して南京を占領しついに中国全土が共産党の手中に帰したのです。。
周恩来によれば、北京入城のとき毛沢東は大浪のように湧きかえる大群衆を一目みたとき、しばらく無言で立っていたが、やがて突然両手で顔をおおって泣きだしたそうです。
万感こもったのは毛沢東だけではありません。その場に居た私の北京の友人達も感極まって泣いたと言ってました。19世紀以来の欧米の侵略を跳ね返して中国はやっと独立を勝ち得たのです。
しかし彼等の歓喜は長くは続きませんでした。
やがて毛沢東の発動による大躍進運動と文化大革命によって国民は塗炭の苦しみを味わうのです。特に文化大革命は悲惨極まりない内戦だったのです。

2番目の写真は1966年8月18日に紅衛兵の歓呼に答礼する毛沢東です。紅衛兵は略奪と暴虐をくりかえしたのです。私は見ました。北京の民家の全ての窓が紅衛兵の侵入を防ぐ鉄格子に覆われているのを見たのです。

3番目の写真は1976年4月の周恩来追悼の為の行進です。
天安門広場において、同年1月8日に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆とデモ隊工人が政府に暴力的に鎮圧された事件です。
四五天安門事件とも言いますがこれこそ第一次天安門事件なのです。
この事件がやがて1989年の第二次 天安門事件へ続くのです。

4番目の写真は1989年6月の胡耀邦追悼に端を発した第ニ次天安門事件の写真です。
この天安門事件の詳細は皆様も詳しくご存知と思います。

5番目の写真は2012年11月に習近平が胡錦濤から中共総書記の座を受け継いだ時の写真です。
習近平政権の中国は大きく変わりました。世界の覇権を握ろうとして一帯一路の政策を推進し、大国アメリカと厳しく対立、抗争するようになったのです。
その原因は鄧小平による市場経済への改革によって中国のGDPが世界2位のなったことこそ原因になっているのです。
鄧小平の時代、1980年から1990年は熱烈日中友好の時代でした。日本の先進技術を導入し日本の工場誘致をしたのです。
現在の習近平政権も日中友好政策を続けています。中国が世界の覇権を握るためにはGDP3位の日本を味方にした方が有利だからです。鄧小平の時代は熱烈日中友好の時代でしたが習近平政権のは冷めた日中友好の時代なのです。
私自身は鄧小平時代の熱烈日中友好の時代に中國に何度も行ったのでその熱烈歓迎ぶりについては続編書いて行きたいと思います。
今日は1949年の共産主義中国の建国から現在の習近平政権までの中国の歴史を分かり易く書いたつもりです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)