中国は世界2位の経済大国です。日本のすぐ隣にある国です。日本の経済と安全保障にとって日中友好が非常に重要なことは明々白々です。
この日中友好を深く進めるためには中国人の心の奥を理解することが大切です。中国人の政治に対する本音を知るのです。
中国人が本当に好きな政治家は周恩来と胡耀邦です。しかしそれは言えません。言うと実生活の上でいろいろと不都合なことが起きるからです。特に胡耀邦は禁句です。共産党が胡耀邦のことを喋ったり書くことを厳禁しているのです。しかし中国人の本音では周恩来と胡耀邦を絶対に忘れません。
今日はこの周恩来と胡耀邦のことを書いてみたいと思います。
さて中国には二つの天安門事件が起きました。1976年の第一次天安門事件と1989年の第二次天安門事件です。周恩来と胡耀邦の死を悼んだ民衆が天安門広場に集まったのです。その民衆を共産党中央権力者が武力で蹴散らした事件です。
中國人は周恩来と胡耀邦を慕っていたのです。愛していたのです。
以下に二つの天安門事件を簡潔に書きます。
(1)周恩来の死と第一次天安門事件
1976年4月5日に北京市にある天安門広場において、1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されました。
激昂した民衆がデモ鎮圧隊と衝突しまし、共産党の軍隊に武力で鎮圧された事件です。これを第一次天安門事件と言います。
この4月5日の鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動も第一次天安門事件に包括して言う人もいます。
第一次天安門事件では死傷者が少なかったので日本ではあまり重要視されません。しかしこの事件は中國人の本音を知る上で大変重要な事件だったのです。
昨日掲載した記事では私が1981年に実際に見た周恩来追悼行事の光景を書きました。
(2)第一次天安門事件と第二次天安門事件の間に何が起きたか?
1976年の第一次天安門事件と1989年の第二次天安門事件の間に中国は激変しました。鄧小平が市場経済へと大きく舵を切ったのです。
1972年から1989年までの17年間の日中関係は熱烈友好の時代だったのです。
1972年には田中総理と大平外務大臣が訪中し、周恩来首相と交渉を重ね、「日中共同声明」を発表し、ついに国交回復をしたのです。
1番目の写真は田中角栄首相が交渉した周恩来総理の写真です。
毛沢東主席も周恩来総理もこの後の1976年にあいついで亡くなります。
その後の実権を握ったのは鄧小平でした。
2番目の写真は鄧小平とカーター大統領の写真です。1979年に鄧小平が訪米し、ジミー・カーター大統領と会ったときの写真です。
鄧小平は終始一貫、日本と友好政策をつらぬき、1978年には「日中平和条約」の批准書を交換するために日本を訪問しました。そして昭和天皇を訪問し、新日鉄、君津製鉄所を見学し、新幹線に乗ってトヨタ自動車を見学、その後京都や奈良の観光もしたのです。
3番目の写真は1978年に鄧小平が昭和天皇を表敬訪問した時の写真です。
中国の権力トップの人物が日本を訪問するのは日中の歴史で初めてのことでした。
これに答えて、新日鉄は上海に宝山製鉄所を建設し、トヨタは中国に自動車の生産工場を作りました。
日本政府は多額のODAを提供し、外務省のJICAは多数の技術者や専門家を中国へ派遣したのです。
そして日本の企業は中国の工業特別地区に工場をつくり生産技術を伝えたのです。
この1972年から1989年の間は中国は日本の歴史認識や靖国神社問題で日本側を一切非難しなかったのです。
しかし1989年の天安門事件が起き、その後に権力の座に登った江沢民はまったく鄧小平の親日政策を逆転し、激しい日本非難を繰り返すようになったのです。
(3)胡耀邦の死と第二次天安門事件
まず胡耀邦のこと書いて置きたいと思います。
彼は、1981年から1987年まで中国共産党主席でした。
胡耀邦さんの行ったことを3つだけ紹介いたします。
1)1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われています。
ラサで共産党幹部らに対する演説で、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁したのです。
更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、外国人旅行者にもチベットを開放しました。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回されたのです。
4番目の写真は胡耀邦です。
2)1983年11月の訪日では昭和天皇と会見して天皇訪中を要請(当時交渉を担当したのは胡錦濤)。
日中首脳会談では中曽根康弘内閣総理大臣が、中国側の提示した3原則に「相互信頼」を加えて4原則にしたいと述べ、民間有識者からなる『日中友好二一世紀委員会』の設立を提案しました。胡はこれに賛同し、他方胡は、日本の青年3000人を中国に1週間招待するプランを披露して日本側を驚かせたのです。
5番目の写真は中曽根首相と会談する胡耀邦です。
3)1989年4月8日の政治局会議で熱弁を振るった直後、心筋梗塞のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、4月15日に死去します。
その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していったのです。
五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生や市民10万人がデモと集会を行い、第二次天安門事件へと発展します。
ここで胡耀邦の弟子だった趙紫陽総書記が学生運動に同情的な発言を行います。それが致命傷になり、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとして趙紫陽も失脚しました。
胡耀邦は人民服ではなくて西側の背広を真っ先に着込み、フォークとナイフを使い、合理的なことは何でも取り入れる柔軟な指導者でした。
胡耀邦の墓は中国首脳の指定墓地である北の八宝山公墓ではなく、李昭夫人の希望により江西省の共青城にあります。
中国共産党が胡耀邦の記憶を抹殺しようとすればするほど益々中国人の心に深く刻まれて行くのです。そして胡耀邦と周恩来を絶対に忘れません。
そんな中国人に私は強い親近感を持ちます。同情し尊敬します。
これこそが日中友好の基礎になるのではないでしょうか?
そして現在の習近平主席は第一次天安門事件と第二次天安門事件から何を学んで政治を行っているのでしょうか?
国民の関心を世界覇権と一帯一路政策に向けさせ共産党独裁への不満を弱めているようです。
あまり長くなるので今日はこれでお終いにします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)