併合が起きる前年の1909年10月26日に伊藤博文が満州のハルピン駅頭で朝鮮人のトマス安重根の発射した銃弾3発で倒れたのです。
伊藤博文は明治38年(1905年)11月韓国統監府が設置されると初代統監に就任しました。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握したのです。
ハルピン駅頭で襲ったのが朝鮮人だと聞いた伊藤は、「私を撃つとは馬鹿な奴だ」と言いながら30分後に絶命します。その態度は流石に偉大な政治家、伊藤博文らしい立派なものだったそうです。
トマス安重根はロシア蔵相ウラジミール・ココツエフと伊藤博文の会談を警護していたロシア兵に捕まり2日後に日本側へ引き渡されます。
安重根は当時日本領だった旅順の刑務所に収監され直ちに1910年2月14日に死刑判決を受け、3月26日に処刑されたのです。
それから5カ月後の1910年8月22日に朝鮮併合が完成し、大韓帝国が消滅したのです。
カトリックにとって暗殺は大罪です。当時の大韓帝国のカトリック司教団からはトマス安重根へサクラメント(聖餐)を施してはいけないという命令が出ました。しかし安重根に洗礼を授けたフランス人司祭のジョゼフ・ウイレム神父は刑務所にいる安重根を訪ね、サクラメントを与えています。
さてそれはそれとして幾つかの写真をご紹介しましょう。

1番目の写真はトマス安重根が韓国統監府初代統監の伊東博文を暗殺した当時のハルピン駅です。当時ハルピンはロシア領でロシア風の建物でした。そのロシア領のハルピンへロシア蔵相ココツエフとの交渉のため伊藤博文が行ったのです。

2番目の写真は現在のハルピン駅の一角にある安重根記念館です。日本の朝鮮併合に反対する立場にある中国の協力のもと韓国政府がお金を出して昔のものを改装して2004年に開館したものです。

3番目の写真は旅順刑務所で書いた最後の書です。この書は現在韓国の国宝になっています。

4番目の写真が旅順刑務所の安重根が収監されていた部屋です。現在は安重根を讃える看板が掲げてあります。当時旅順は日本の支配下にあり旅順刑務所も日本のものでした。

5番目の写真はソウルにある義士安重根の記念館です。
さて伊藤博文を殺すという大罪を犯した安重根は人間的には魅力があったようです。
旅順刑務所で監視をしていた日本人看守の千葉十七は何度か話をしているうちに安重根の考えに共感を覚えます。そして安重根は処刑前に墨で書いた見事な書を千葉看守へ贈っています。
その時、彼が千葉へ、「東洋に平和が訪れ、日韓の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったそうです。
千葉は終生、安重根の供養を欠かさなかったのです。千葉十七とその妻の墓は宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺にあり、そこには1981年に安重根の顕彰碑が建てられたそうです。
また旅順刑務所長、栗原貞吉も安重根へ好意を示しました。煙草などを差し入れ、裁判長に直接会って安重根の助命嘆願をしました。
しかし処刑は目前になります。栗原貞吉所長は安重根へ処刑の時着る絹の白装束を与えたのです。死刑執行後、栗原は安重根の死を悔やんで郷里の広島へ帰ってしまったのです。
現在の韓国ではトマス安重根は抗日闘争の英雄とされ、国民的英雄として非常に有名です。ソウル市には「安重根義士記念館」が1970年に建設されています。
また2008年に進水した韓国海軍の潜水艦に「安重根」という名前がついています。
また伊藤博文暗殺から100年目に当たる2009年10月26日に中国のハルビン市で記念式典が行われました。
カトリックの立場から見ると安重根は大罪を犯した罪人です。
しかし心ある日本人がもし日韓友好を考えるなら、現在の韓国人がトマス安重根をどのように評価しているいかを理解していることも重要と信じています。
安重根は日本人の立場から見れば極悪人です。弁護の余地がありません。
しかし伊藤博文のハルピン駅での暗殺は長い日韓の交流の歴史の中の悲しい一齣だったのです。現在の日韓関係にも暗い影を及ぼしている悲劇です。
ナチスの蛮行を謝罪したヴァイツゼッカー大統領は有名な『荒れ野の40年』の中で言っています。
・・・「過去に目を向けて誠実に見ない者は現在のことにも盲目になる」と。・・・
日韓の関係も歴史的な大きな視野で見るのが良いと私は信じています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
伊藤博文は明治38年(1905年)11月韓国統監府が設置されると初代統監に就任しました。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握したのです。
ハルピン駅頭で襲ったのが朝鮮人だと聞いた伊藤は、「私を撃つとは馬鹿な奴だ」と言いながら30分後に絶命します。その態度は流石に偉大な政治家、伊藤博文らしい立派なものだったそうです。
トマス安重根はロシア蔵相ウラジミール・ココツエフと伊藤博文の会談を警護していたロシア兵に捕まり2日後に日本側へ引き渡されます。
安重根は当時日本領だった旅順の刑務所に収監され直ちに1910年2月14日に死刑判決を受け、3月26日に処刑されたのです。
それから5カ月後の1910年8月22日に朝鮮併合が完成し、大韓帝国が消滅したのです。
カトリックにとって暗殺は大罪です。当時の大韓帝国のカトリック司教団からはトマス安重根へサクラメント(聖餐)を施してはいけないという命令が出ました。しかし安重根に洗礼を授けたフランス人司祭のジョゼフ・ウイレム神父は刑務所にいる安重根を訪ね、サクラメントを与えています。
さてそれはそれとして幾つかの写真をご紹介しましょう。

1番目の写真はトマス安重根が韓国統監府初代統監の伊東博文を暗殺した当時のハルピン駅です。当時ハルピンはロシア領でロシア風の建物でした。そのロシア領のハルピンへロシア蔵相ココツエフとの交渉のため伊藤博文が行ったのです。

2番目の写真は現在のハルピン駅の一角にある安重根記念館です。日本の朝鮮併合に反対する立場にある中国の協力のもと韓国政府がお金を出して昔のものを改装して2004年に開館したものです。

3番目の写真は旅順刑務所で書いた最後の書です。この書は現在韓国の国宝になっています。

4番目の写真が旅順刑務所の安重根が収監されていた部屋です。現在は安重根を讃える看板が掲げてあります。当時旅順は日本の支配下にあり旅順刑務所も日本のものでした。

5番目の写真はソウルにある義士安重根の記念館です。
さて伊藤博文を殺すという大罪を犯した安重根は人間的には魅力があったようです。
旅順刑務所で監視をしていた日本人看守の千葉十七は何度か話をしているうちに安重根の考えに共感を覚えます。そして安重根は処刑前に墨で書いた見事な書を千葉看守へ贈っています。
その時、彼が千葉へ、「東洋に平和が訪れ、日韓の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったそうです。
千葉は終生、安重根の供養を欠かさなかったのです。千葉十七とその妻の墓は宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺にあり、そこには1981年に安重根の顕彰碑が建てられたそうです。
また旅順刑務所長、栗原貞吉も安重根へ好意を示しました。煙草などを差し入れ、裁判長に直接会って安重根の助命嘆願をしました。
しかし処刑は目前になります。栗原貞吉所長は安重根へ処刑の時着る絹の白装束を与えたのです。死刑執行後、栗原は安重根の死を悔やんで郷里の広島へ帰ってしまったのです。
現在の韓国ではトマス安重根は抗日闘争の英雄とされ、国民的英雄として非常に有名です。ソウル市には「安重根義士記念館」が1970年に建設されています。
また2008年に進水した韓国海軍の潜水艦に「安重根」という名前がついています。
また伊藤博文暗殺から100年目に当たる2009年10月26日に中国のハルビン市で記念式典が行われました。
カトリックの立場から見ると安重根は大罪を犯した罪人です。
しかし心ある日本人がもし日韓友好を考えるなら、現在の韓国人がトマス安重根をどのように評価しているいかを理解していることも重要と信じています。
安重根は日本人の立場から見れば極悪人です。弁護の余地がありません。
しかし伊藤博文のハルピン駅での暗殺は長い日韓の交流の歴史の中の悲しい一齣だったのです。現在の日韓関係にも暗い影を及ぼしている悲劇です。
ナチスの蛮行を謝罪したヴァイツゼッカー大統領は有名な『荒れ野の40年』の中で言っています。
・・・「過去に目を向けて誠実に見ない者は現在のことにも盲目になる」と。・・・
日韓の関係も歴史的な大きな視野で見るのが良いと私は信じています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)