後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「緑豊かな多摩丘陵の都立桜が丘公園の今日の写真」

2020年04月22日 | 日記
東京都の多摩市連光寺の多摩丘陵には「都立桜が丘公園」があります。
丘陵と谷間からなる公園です。丘陵公園だけに、地形は高低差数十mと起伏に富んでいます。園内には雑木林を主体にした自然林があり散策に適しています。公園の中ほどには、明治天皇の旧多摩聖蹟記念館があります。
今日は午後から曇りましたが写真を撮りに行きました。健脚の家内が公園の丘陵を登り下りして新緑の風景写真を撮ってくれました。
都立桜が丘公園の詳しい情報は、https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index065.html にあります。









「玉川上水の新緑の写真を撮りながら江戸幕府に感謝する」

2020年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
玉川上水は小金井市にある私の家の北方1Kmくらいの所を流れています。上水の両側の土手にはヤマザクラ、ケヤキ、クヌギの大木が亭々と茂り、羽村の堰から三鷹市までの約25Kmは延々と続く見事な緑地帯になっています。
昨日は私の家の近くの玉川上水の新緑の写真を一人で撮って来ました。写真を撮りながら玉川上水を作った江戸幕府に感謝しました。









この玉川上水は江戸初期に江戸へ生活用水を送るため、多摩川上流の羽村から取水し四ツ谷まで43Kmの堀を作ったものです。
江戸幕府から委託され、工事を完成させた玉川兄弟の銅像は羽村の堰の岸辺に立っています。
現在も玉川上水はよく手入れされ、今日の写真が示すように大きな樹々が繁っています。江戸時代の自然がそのまま残っているような感じがします。そして玉川上水の両側には楽しい散歩道が三鷹市から羽村の堰まで続いているのです。

詳しく書くと玉川上水は玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟の努力と献身の結果出来上がった水路なのです。
羽村から江戸の四谷までの43Kmの高低差が100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めたのです。
当初は日野から取水しようとしましたが開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更し、はるか上流の羽村村から取水することになったのです。
こうした事情を受けて、総奉行の松平信綱は家臣の川越藩士の安松金右衛門を設計技師に起用します。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/玉川上水 からの抜粋です。
安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み―」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み―」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立―」と3案を考えました。
そして遂に第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村の堰と四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成させたのです。そして承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始されたのです。
この困難な土木工事を実際に請け負ったのが玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟だったのです。
しかし工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたのです。
庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられました。
それにしても高低差がたった100メートルしか無いのに43000メートルも水を流す土木工事は現在でも容易なことではありません。
そして玉川上水は立川、小平、小金井、など各地で分水され江戸の西の農業用水として使われ武蔵野の農業を支えたのです。
その上、松平家の菩提寺、平林寺への野止め用水は現在もよく保全され美しい緑地帯になっております。
この様に江戸幕府の土木遺産が346年後の現在も人々に新緑の散歩道を与えているのです。感慨深いものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)