第二次世界大戦中の日本軍の特別攻撃隊に関しては多くの本があり、ネット情報も数多くあります。
例えば、https://ja.wikipedia.org/wiki/特別攻撃隊 には実に詳細な資料が掲載されています。
そこで今日は分かり易く簡略に特攻隊として犠牲になった合計14,009名の説明を致します。
以下は2008年10月現在確認されている特攻隊員戦死者数です。
(1)海軍 、合計:4,156名
海軍航空特攻隊員:2,531名
特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
回天特攻隊員:104名
震洋特攻隊員:1,081名 合計
(2)陸軍 、合計:1,689名
陸軍航空特攻隊員:1,417名
丹羽戦車特攻隊員:9名
陸軍海上挺身隊員(マルレ):263名
(3)その他特攻隊員に含めるべき犠牲者、8,164名
第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者等の特攻作戦関連戦没者の内訳;
第二艦隊戦没者:3,751名
回天部隊関連戦没者:1,083名
震洋部隊関連戦没者:1,446名
陸軍航空関連戦没者:177名
海上挺身隊関連戦没者:1,573名
空挺部隊関連戦没者:100名
その他、終戦時自決・神州不滅特攻隊、大分702空等の34名 を含めると合計8,164名 になります。
以上(1)と(2)と(3)の総合計は14,009名になります。(Wikipediaの特別攻撃隊より引用しました)
1番目の写真は鳥濱トメと6人の特攻隊員です。鳥濱トメは知覧で特攻隊が行く食堂のおかみさんでした。終戦直後、トメは飛行場跡地に1本の棒くいを立てて「これがあの子たちのお墓だよ。」と、2人の娘たちにそう言うとそれから毎日欠かさず通い手を合わせ続けたのです。
2番目の写真は1945年5月11日、2機の特攻機に攻撃された空母バンカー・ヒルです。特攻単独では最多となるアメリカ側の戦死者402名、負傷者264名の甚大な損害を与えました。
さて私は2008年の10月に霞ヶ浦西岸の陸上自衛隊武器学校敷地内にある予科練特攻隊戦死者の写真や関係資料の展示館、「雄翔館」を訪れました。
雄翔館には特攻機とともに突っ込んで行った若者の写真と遺書が数多く展示してあります。皆の顔が悲しそうに見えます。悲壮な雰囲気です。当時72歳の筆者から見ると皆子供や孫のように見えます。こんな人々を死に追いやった日本民族の歴史を忘れないようにしたいと思いました。
3番目の写真は「雄翔館」の隣にある庭園の予科練生の像です。今朝供えたような生花がありました。
当時私は霞ヶ浦でヨットをしていました。霞ヶ浦へ行く折に、時々湖畔にある予科練の跡地の「雄翔館」を訪れました。
葉山マリーナで知り合ったヨットマンの田村さんが元予科練生だったのです。彼の話によると予科練の生存者がお金を集めて雄翔館を作ったそうです。
ところで「雄翔館」の展示の仕方に私は不満を感じます。上の引用資料のように特攻隊は、海軍の神風特攻隊だけではありません。それなのに「雄翔館」には海軍の特攻隊のことしか書いていません。陸軍特攻隊のことには一切説明が有りません。若い人々がここを訪れて特攻隊の戦死者は2531名だけと誤解する可能性が大きいと思います。このような展示館でも陸軍と海軍が対立しお互いに相手の特攻隊は無視しています。
九州の知覧にある特攻隊記念館も見ましたが、旧軍の特攻隊の全体像が簡単に理解できるような展示にはなっていません。
旧軍隊の陸軍と海軍がお互いに無視するという悪い伝統が現在の自衛隊へも墨守されているような気分になります。
それはそれとして雄翔館は入場無料で、武器学校の正門の衛兵の側に車を止めて、案内を乞うと構内の駐車場を親切に教えてくれます。雄翔館の館内は撮影禁止です。アクセスなどの詳細は「雄翔館」で検索して下さい。
戦争では人権が無視されます。個人の尊厳もありません。しかし特別攻撃隊はその最悪のものです。日本民族の悲しみです。
特別攻撃隊を生んだ文化は恥ずべき最悪の文化です。特別攻撃隊として犠牲になった人には罪がありません。日本民族全体の罪なのです。特攻隊を忘れずに考え続けることが重要と信じています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
例えば、https://ja.wikipedia.org/wiki/特別攻撃隊 には実に詳細な資料が掲載されています。
そこで今日は分かり易く簡略に特攻隊として犠牲になった合計14,009名の説明を致します。
以下は2008年10月現在確認されている特攻隊員戦死者数です。
(1)海軍 、合計:4,156名
海軍航空特攻隊員:2,531名
特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
回天特攻隊員:104名
震洋特攻隊員:1,081名 合計
(2)陸軍 、合計:1,689名
陸軍航空特攻隊員:1,417名
丹羽戦車特攻隊員:9名
陸軍海上挺身隊員(マルレ):263名
(3)その他特攻隊員に含めるべき犠牲者、8,164名
第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者等の特攻作戦関連戦没者の内訳;
第二艦隊戦没者:3,751名
回天部隊関連戦没者:1,083名
震洋部隊関連戦没者:1,446名
陸軍航空関連戦没者:177名
海上挺身隊関連戦没者:1,573名
空挺部隊関連戦没者:100名
その他、終戦時自決・神州不滅特攻隊、大分702空等の34名 を含めると合計8,164名 になります。
以上(1)と(2)と(3)の総合計は14,009名になります。(Wikipediaの特別攻撃隊より引用しました)
1番目の写真は鳥濱トメと6人の特攻隊員です。鳥濱トメは知覧で特攻隊が行く食堂のおかみさんでした。終戦直後、トメは飛行場跡地に1本の棒くいを立てて「これがあの子たちのお墓だよ。」と、2人の娘たちにそう言うとそれから毎日欠かさず通い手を合わせ続けたのです。
2番目の写真は1945年5月11日、2機の特攻機に攻撃された空母バンカー・ヒルです。特攻単独では最多となるアメリカ側の戦死者402名、負傷者264名の甚大な損害を与えました。
さて私は2008年の10月に霞ヶ浦西岸の陸上自衛隊武器学校敷地内にある予科練特攻隊戦死者の写真や関係資料の展示館、「雄翔館」を訪れました。
雄翔館には特攻機とともに突っ込んで行った若者の写真と遺書が数多く展示してあります。皆の顔が悲しそうに見えます。悲壮な雰囲気です。当時72歳の筆者から見ると皆子供や孫のように見えます。こんな人々を死に追いやった日本民族の歴史を忘れないようにしたいと思いました。
3番目の写真は「雄翔館」の隣にある庭園の予科練生の像です。今朝供えたような生花がありました。
当時私は霞ヶ浦でヨットをしていました。霞ヶ浦へ行く折に、時々湖畔にある予科練の跡地の「雄翔館」を訪れました。
葉山マリーナで知り合ったヨットマンの田村さんが元予科練生だったのです。彼の話によると予科練の生存者がお金を集めて雄翔館を作ったそうです。
ところで「雄翔館」の展示の仕方に私は不満を感じます。上の引用資料のように特攻隊は、海軍の神風特攻隊だけではありません。それなのに「雄翔館」には海軍の特攻隊のことしか書いていません。陸軍特攻隊のことには一切説明が有りません。若い人々がここを訪れて特攻隊の戦死者は2531名だけと誤解する可能性が大きいと思います。このような展示館でも陸軍と海軍が対立しお互いに相手の特攻隊は無視しています。
九州の知覧にある特攻隊記念館も見ましたが、旧軍の特攻隊の全体像が簡単に理解できるような展示にはなっていません。
旧軍隊の陸軍と海軍がお互いに無視するという悪い伝統が現在の自衛隊へも墨守されているような気分になります。
それはそれとして雄翔館は入場無料で、武器学校の正門の衛兵の側に車を止めて、案内を乞うと構内の駐車場を親切に教えてくれます。雄翔館の館内は撮影禁止です。アクセスなどの詳細は「雄翔館」で検索して下さい。
戦争では人権が無視されます。個人の尊厳もありません。しかし特別攻撃隊はその最悪のものです。日本民族の悲しみです。
特別攻撃隊を生んだ文化は恥ずべき最悪の文化です。特別攻撃隊として犠牲になった人には罪がありません。日本民族全体の罪なのです。特攻隊を忘れずに考え続けることが重要と信じています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)